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徽宗皇帝のブログ

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親の犯罪行為
「谷間の百合」ブログから、記事の前半を転載。最後の「なんで親にそれを容認する権利があるのですか。」という言葉は、ある意味、目から鱗である。
確かに、言われてみれば、殴られたのは子供であり、親がそれを容認する権利などあるはずがない。それを不自然に思わない人間は、「子供は親の所有物である」と心のどこかで思っているのではないか。「俺が(私が)養っているから、子供はすべて俺に(私に)従うべきであり、子供のことについては俺(私)が決める権利がある」というわけである。
これを拡大すると、家が貧しいから娘を芸者として、芸者置屋、要するに売春元締めや女衒に売り飛ばしていい、という話になる。今でも、子供を芸能界に入れる親というのはそれに近いと私は思っているのだが、今の世の中は子供のほうから(当人は無知だから)喜んで「売春世界」に飛び込んでいく。まあ、カネが貰えれば、あるいは華やかな生活ができれば何でもいい、ということだろう。(ちなみに、昔の芸者界というのは今の芸能界と同じだと思えばいい。すなわち、庶民の憧れのキラキラした世界である。ただし、カネを積めば売春もする、というのは今の芸能界の枕商売と同じだ。人気芸者は今のアイドルに相当する。昔の政治家が芸者と結婚することが多かったのは、アイドルが金持ちや政治家と結婚するのと同じだったのである。)
スポーツの世界でも、人間を売ったり買ったりするというのは売春業界と同じである。才能のある子供(芸者なら、美人に相当)の周辺にはカネの亡者が集まる、というわけだ。親がその亡者の代表で、高いカネで売りたいから、子供を厳しい指導者に預けるわけである。子供自身が望んでいる、ということももちろんあるだろうし、才能はどこまでも伸ばすのが子供のためだ、という考えもあるだろうが、四捨五入すれば、すべてカネのため、ということになるのではないか。それでなぜ悪いと言われれば、カネのために詐欺をし、人殺しをしてなぜ悪い、と言われるのと同じで、「見つからない犯罪(法で裁けない犯罪)は犯罪ではない」と主張するようなものである。
まあ、そうは言いながら、私自身、優れたスポーツ選手のパフォーマンスを眺めて、いい「暇つぶし」をさせて貰っているのだが、彼ら自身はそういう「見せ物」人生が楽しいのかな、と時々思ったりする。せめて巨額の報酬でも貰わないと割の合わない人生のように思うわけだ。で、だいたいにおいて、彼らが稼いだカネの大半は、周辺の亡者どもの懐に入ったりする。

なお、「戦前のほうが(一般人の)権利意識は強かった」というのはまさにその通りだと思う。上からの暴力や圧迫に対して庶民が弱くなったのは、治安維持法施行からだろう。この法律は共産党が主な対象だったが、事実上、一般庶民の抵抗をすべて禁じるものであったように思う。



(以下引用)


「戦前は学校でも軍隊でも体罰は絶対禁止だった。」

スポーツ界の暴力問題を取り上げるとき必ずといっていいほど言われるが、むかしと違っていまの時代に暴力は許されないと言っていることです。
むかしがいつを指すのか、もし戦前だということならそれは違うと思いました。
違うと思ったものの確信がなかったので調べたところ、やはりわたしの思っていたことは正解でした。
「少年犯罪データベース」というサイトの「戦前は学校でも軍隊でも体罰が絶対禁止だった。」という記事があったからです。
戦前は体罰は絶対悪で犯罪として処理されていたということです。
教師が生徒を殴ったりすると傷害罪で取り調べられたそうです。
逆に生徒が教師を殴ることはよくあったそうで
「戦前は生徒たちの自尊心がやたら高くて反逆的で、小学生でさえ何かというと徒党を組んで同盟休校したり、教師を吊し上げたりしていた。」と。
また、親も権利意識が強く、すぐに学校に怒鳴り込んだり、訴訟を起こしたということですが、以上のようなことは、「坊ちゃん」や「次郎物語」や題名は忘れましたが新田次郎の小説などから感じ取ることができると思います。
新憲法で基本的人権や個の尊厳が謳われ、人はそれを戦後の思想のように錯覚しているのですが、戦前の方がはるかに権利意識が強かったということです。
さらに、自尊心や反逆心が横溢していたのです。

コーチが子どもを殴っても、親も当人もそれを良しとしているのは狂っています。
なんで親にそれを容認する権利があるのですか。








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