忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

戦争に負けることの意味
孔徳秋水氏のブログの一節である。
他の部分は私の賛同できないことも書かれているので、自分の思想にとって都合のいい部分だけ引用するわけだwww まあ、文章が行開けで書かれているためネット的な意味で字数が多いということもある。

「国破れて山河あり」というが、実は、国は戦争に負けても、人民は大半が生き残る。戦争で死ぬのは兵士たちと、地元が戦場になった人たちだけだ。戦地から遠くに住む人々(銃後の人々)は、生活は苦しくはなるだろうが生命は無事である。戦後の貧困は免れないとしても、生き延びることはできる。
下の記事に書かれているのは「戦争は政治家と上級国民の利害で行うものだ」ということであり、戦争が一般国民の利益になることはまったく無いが、同時に、たとえ戦争で負けても、国民が皆殺しになるわけでも奴隷扱いされるわけでもない、ということだ。まあ、「奴隷扱い」を精神的な意味に取れば、戦後の日本国民は米国の奴隷だったかもしれないが、「満足すべき待遇の奴隷」だったのではないか。

繰り返すが、戦争は上級国民の生活向上あるいは生活や身分の防衛のためにやるものであるし、それは歴史上ほとんどすべての戦争においてそうだった、と考えるべきだろう。そして、戦争で負けることは、一般国民が皆殺しになることではない。「戦争において」、国民は死ぬのであり、「負けることによって」死ぬのではない。むしろ、負けることによって命が助かるとすら言える。日本国民は戦争を継続していた間大量に死に続けていたが、日本が敗戦を受け入れることによって、死ぬことが止んだのだ。
つまり、あの時、国民にとって敗戦(きれいごと的に言えば終戦)は慶賀すべきことだったのだ。
であるならば、最初からすべての戦争を放棄する、という日本国憲法9条こそが最高の憲法規定である、というのが一般国民にとっての「正解」ではないか。そうでないという理屈を「戦争肯定論者」は出せるだろうか。

一般国民を「戦争は国民にとって利益である」という飴で動かし、「この戦争に負けたらとんでもなく悲惨な目に遭うぞ」という鞭で動かすのが上級国民の手口であり、それに協力するのが、現代では教育とマスコミだ。



(以下引用)



『三国志」の赤壁の戦いで、呉の国は賛否両論に分かれたが、周瑜が断乎開戦の意を表して決戦と決まった件がある。


 


周瑜が何を考えたかといえば、曹操の魏に下れば孫権一族は無事ではいられないか、相当に落ちぶれてしまうことが必定ということである。国中の家臣が講和を唱えるのは、自分たちに「再就職」の目があるからだと見抜いたからである。


 


ひとたび決戦となれば家臣たちも「再就職」など覚束ない。覚悟を決めて戦うしかないわけなのだ。


 


中国だろうと、日本だろうと、国が滅びても「家畜」に等しい人民は殺されない。むしろ、大事にされることすら珍しくなかった。


 


また、人民を味方にできなければ戦争にも勝てない。


 


マッカーサーがフィリピンなどを取り戻せたのも、人民が必ずしも日本に服従していなかったからである。


 


これが沖縄となると、制空権も制海権も取っているにも関わらず米軍の損害が増大した。


 


これが日本本土に近づくほど、ますます戦力も尽きている相手に損害を増やしたのだった。


 


 


中国共産党も、べトコンも、人民を味方にしてゲリラ戦で戦った。


 


中国共産党は大陸を支配し、ベトコンは米軍を斥けた。


 


「国」が、ほとんど滅びているに等しい状態で、なぜ彼らが勝ち、アメリカなどが負けたのか。


 


 


それゆえ、蒙古が中国を支配して、蒙古方式を強要したものの、だんだん中国の文化に蒙古の方が順応するようになってしまった。


 


つまり、「国」というのは、その地域の徴税権と徴兵権を握っている特権階級のことにすぎず、人民は選挙で新しい支配者を受け入れるがごとくに戦争で勝った新しい支配層にしたがったのである。


 


したがって、「国」など守ろうが守るまいが、人民にとってはどうでもよい。


 


 


そこに独占的権益を得て”甘い汁”を吸おうという薄汚い連中が”国のかたち”などと言うのである。


 


人民は、騙されてはならぬ。


 


 


「金融ユダヤ」と結託したとされ、国を盗んだ薩長は、「国作り」と称して人民を扇動したが、支配が固まると賊軍扱いして、真っ先に切り捨てた。


 


だいたい先の大戦でも、国土がボロボロになっているのに、薩長財閥は空前のぼろ儲け。


 


こいつらが「愛国」であるなら、財産を使い果たして自分たちもボロボロになっていたはず。


 


自分の儲けのために国土を焼け野原にして平気だった連中を「保守本流」などとしてもちあげ、引き続き政治家や大臣にしている日本国民は、バカ以外のなにものでもあるまい。


 


彼らの薄汚い根性が、戦後70年を経てもまるきし変わっていないことは、ずっとだれの目にも明らかなことであろう?

拍手

PR

コメント

コメントを書く