忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

「私の大学」としての本
私は読んだことはないが、ゴーリキーに『私の大学』という自伝的作品があって、それは、彼は高等教育は受けていないが、彼が生きてきた実社会や周辺の人との関わりそのものが「私の大学」だった、というような内容らしい。まあ、ある意味では当たり前の考えなのだが、俗に云う(吉川英治の座右の銘だったと記憶するが)「我以外、みな我が師」に似た考えである。
要するに、「そこから学ぼう」という意志があるかどうかが、その人が目にし耳にするすべてを「ゴミ」にするか、「学問」や「教養」にするかの違いにするのだろう。その考えに立つと、学ぶのに年齢は関係ない、ということにもなる。学ぶ気持ちを持たなくなれば、そこで彼の「全教育期間」は終了ということだ。おそらく、たいていの人は小学校の低学年で終了しているだろうwww
などと考えたのは、個々人の精神年齢というのは恐ろしい差があって、大学受験の時に、大学生になるにふさわしい精神年齢の人は、大学受験生の1割以下ではないか、と私には思えるからだ。
とすれば、たとえ大学に入っても、そこで学ぶことがまともに理解できるかどうか怪しいように思う。どの教授のどの講義を受けるかについても、「先輩からの情報」を鵜呑みにして、「あの教授の講義は単位が取りやすい」とか「内容が難しい」とか「就職に役立たない」とか「話が面白くない」とかで決めるのではないか。まあ、あらかじめ講義内容を知るにはそうした情報しか無いのだから、それは当然だが、問題は、そうした先輩も実は中学生レベルの精神年齢しか無いことだ。
何か、大学で学びたいことがあるとか、この教授の授業を受けたいとかいう動機で講義を選択する学生はゼロに近いのではないか。
そして、そういう大学生たちが、たとえ立派な先生の素晴らしい講義を受けたとしても、それを理解できる可能性は非常に低いだろう、と思うわけである。
まあ、要するに、小学校から高校卒業までの公教育(私立校も「受験勉強しか教えない」という点では同じだが)で社会的に重要な「本物の」知識から完全に引き離された「幼児化教育」を受けてきたら、形だけ大卒の大人になっても、中身は中学生レベルの人間が大半だろう、ということである。
などと書いたのは、今、私は第一次世界大戦とそれ以後の世界について「学び直して」いるところなのだが、様々な本の中には素晴らしい内容の本が幾つかあって、それらは私が(一般論として)しばしば悪口を書いてきた「大学の先生たち」の書いた本なのである。そして、明らかなのは、自分が17歳や18歳のころにこれらの本を読んでも理解できなかっただろう、ということだ。なぜなら、私は若いころには世界史にも現代史にも政治にも経済にも地理にもまったく興味がなかったからである。たとえるならば、ホモの前に裸の美女を差し出すようなものだwww (念のために言うが、私は性的には正常である。)
つまり、大学で学ぶ事柄は、高校までに習うような「社会の悪の存在や真実を念入りに排除した」洗脳教育ではなく、或る程度の「社会の真実」を教えるものであるのだが、高校までに洗脳されきった新入大学生たちは、教授が「近代史の真実」や「事件の深い背景」を少しでも教えると「あの教授はアカだ」「あんな教授の授業を受けたら、就職に響く」などと考え、後輩にもそう教えたりするのではないだろうか、と思うわけだ。
ちなみに、私が今読みかけているのは上島武という大学教授の「ソ連史概説」で、経済学的視点でソ連史を見直そうという本である。まだ序章と第一章しか読んでいないが、私が大学1年生ならこの教授に学びたかった、と思う。
なお、ネットフリックスの「トロッキー」も、フィクションではあるが、ソ連という国の成立時期の「人間と政治」の関係の面白さを見せている。(最初に少しエロシーンがあるのでご注意)いやあ、政治と経済というのは面白い分野である。(ただし、通常の「経済学」が面白いと言っているのではない)




拍手

PR

コメント

コメントを書く