ネットフリックスの「フルメタルジャケット」の放映が3月14日までらしいので、少しずつ見ているが、いつ見ても面白いし、見るたびに何かの発見があり、考えさせるものがある。とにかく、単に兵士が移動するところを描くだけの場面でも目が離せないのは不思議である。
で、先ほどまで見ていて考えたことを改めて考察してみる。
この作品で特徴的なのは、会話のほとんどが「悪罵と嘲笑」であることだ。これは最初の入隊時に先任軍曹(「先任将校」とか「先任何とか」というのの正確な意味は知らない。まあ、階級は同じでも先に軍曹という役職を拝命したのが「先任軍曹」で、他の軍曹より少し権力がある、ということかと思う。)のハートマン(皮肉な名前だ)が新兵たちに悪罵の限りを尽くすのだが、その後の兵隊同士の会話でも、基本的に悪罵と汚い表現のオンパレードなのである。まず、普通の人間なら、こうした悪罵を投げつけられたらそれだけでショック死するだろうwww
そこで気が付いたのは、実はこれこそが「軍隊的教育」の神髄であり、彼らを「普通の市民」から「フルメタルジャケット(完全装甲弾)」つまり、最強の兵士に生まれ変わらせるポイントなのではないか、ということだ。悪罵や嘲笑に耐えきれないというのは、市民的モラル(思いやりや同情や優しさ)で思考しているからであり、そうした「ヤワな精神」では、戦場では不覚を取る。戦場では「動くものを見たら殺せ」という、瞬間の判断が何より大事であり、それには小市民的精神は邪魔なのである。
つまり、軍隊とは基本的に「人殺しに習熟する」場所なのであり、そのために何が必要かは考え抜かれている、ということだ。
この作品の中には引用したい警句やジョークがたくさんあるが、先ほどメモしたもの。
(狙撃手に向かって主人公が)「女子供も殺したのか」
(狙撃手)「時々な」
(主人公)「よく女子供を殺せるな」
(狙撃手)「簡単だ。動きがのろいからな」
解説は不要かと思うが、念のために言うと、「よく女子供を殺せるな」というのは、「女子供を殺すなんてひどいことがよく平気でできるな」という「良心」を問題としていて、相手はそれを「技術的難易度の問題」にしているところがキューブリック流のジョークである。
で、先ほどまで見ていて考えたことを改めて考察してみる。
この作品で特徴的なのは、会話のほとんどが「悪罵と嘲笑」であることだ。これは最初の入隊時に先任軍曹(「先任将校」とか「先任何とか」というのの正確な意味は知らない。まあ、階級は同じでも先に軍曹という役職を拝命したのが「先任軍曹」で、他の軍曹より少し権力がある、ということかと思う。)のハートマン(皮肉な名前だ)が新兵たちに悪罵の限りを尽くすのだが、その後の兵隊同士の会話でも、基本的に悪罵と汚い表現のオンパレードなのである。まず、普通の人間なら、こうした悪罵を投げつけられたらそれだけでショック死するだろうwww
そこで気が付いたのは、実はこれこそが「軍隊的教育」の神髄であり、彼らを「普通の市民」から「フルメタルジャケット(完全装甲弾)」つまり、最強の兵士に生まれ変わらせるポイントなのではないか、ということだ。悪罵や嘲笑に耐えきれないというのは、市民的モラル(思いやりや同情や優しさ)で思考しているからであり、そうした「ヤワな精神」では、戦場では不覚を取る。戦場では「動くものを見たら殺せ」という、瞬間の判断が何より大事であり、それには小市民的精神は邪魔なのである。
つまり、軍隊とは基本的に「人殺しに習熟する」場所なのであり、そのために何が必要かは考え抜かれている、ということだ。
この作品の中には引用したい警句やジョークがたくさんあるが、先ほどメモしたもの。
(狙撃手に向かって主人公が)「女子供も殺したのか」
(狙撃手)「時々な」
(主人公)「よく女子供を殺せるな」
(狙撃手)「簡単だ。動きがのろいからな」
解説は不要かと思うが、念のために言うと、「よく女子供を殺せるな」というのは、「女子供を殺すなんてひどいことがよく平気でできるな」という「良心」を問題としていて、相手はそれを「技術的難易度の問題」にしているところがキューブリック流のジョークである。
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