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高野孟という、政界裏情報に詳しいジャーナリストがいるが、鳩山・菅禅譲(あるいはクーデター)についての彼の論説を転載する。この論説の是非は別として、その見方は大いに参考になる。特に、小沢や鳩山には相手を説得するという姿勢が著しく欠けている、という指摘はその通りだろう。「政治とカネ」という、意味不明で理不尽な検察の追及に対して小沢が唯々諾々と従い、反論をしなかったのは、彼の弁舌能力の低さのせいかもしれないし、何かの判断によるものかもしれないが、明らかに判断ミスだった。そのせいで、国民の大半には小沢の悪党イメージが定着してしまったのである。菅への禅譲については小沢にも異論はなかっただろうが、菅が自分の支配を逃れる方策に出ることまでは予測できていなかったという見方も、あるいは正しいのかもしれない。
問題は、菅新総理が対米従属路線をこのまま取るのかどうかである。もちろん、すでにその一部は顕在化しているのだが、消費税増税も含め、反国民的政策を菅政権がこのまま取るようなら、参議院選挙では、絶対に民主党に投票するべきではない。もちろん、国民新党、社民党に入れればいいのである。あるいは新党大地でも共産党でもいいのだ。今の政治状況なら、共産党が派遣社員や若者の雇用状況改善のために戦う姿勢さえみせれば、得票数を大幅に増やすことも可能だろう。もはや、右とか左とかで政治を語る時代ではなく、ただ国民の生活と幸福のための政党か、そうでないかの違いがあるだけである。そして、現在の国民の不幸は、日本国民の金がアメリカやその背後の米国資本=ユ*ヤ資本に注ぎ込まれ、日本国民が経済的に窮乏しているところから来ているのである。つまり、対米従属派=売国派なのである。
(以下引用)
ダブル辞任はどちらが仕掛けたのか? ── それはともかく、さあ、菅政権!
ダブル辞任を鳩山由紀夫前総理と小沢一郎幹事長のどちら側が仕掛けたのかの論議が、本サイトを含めて盛んである。真相はいずれ漏れてくるだろうが、今のところ主流をなすのは「鳩山が小沢を道連れにした」という見方で、新聞のほとんどや今週の『週刊現代』などがそれ。
(1)小沢は普天間問題で鳩山が完全に行き詰まったのを見て、
(2)鳩山を説得して自発的に辞任させるか、それに応じなければ両院議員総会で手下に党代表の解任動議を出してでも辞職させた上、
(3)内閣は官房長官を代えるくらいでほとんど居抜きで素早く菅直人前副総理に切り替えて、
(4)自分は引き続き幹事長に留まって参院選を何が何でも勝利に導くというシナリオを描いていたが、
(5)鳩山から「あなたも一緒に辞めてもらいたい。ついでに北教組事件の小林千代美議員にも辞めてもらって、この際、『政治とカネ』でマスコミから突き回される要因を全部除去して参院選を迎えたい」という風に切り替えされて、
(6)虚をつかれた小沢はダブル辞任を受け入れざるを得なかった......。
それに対して非主流的なのは「すべては小沢が仕組んだ」という見方で、典型は今週の『週刊ポスト』の「差し違え?抱き合い心中?とんでもない!新闇将軍小沢一郎、次なる謀略」。小沢は初めから、イザとなったら鳩山を抱きかかえて自分という爆弾を破裂させる作戦で「政治とカネ」批判を封じて菅政権に切り替え、参院選勝利を確実にした上で、9月代表選で菅が言うことを聞くようならそのままでいいし、そうでなければわずか3カ月で切って捨てて自分の思いのままになる総理を据える、と......。
平凡で申し訳ないが、私はどちらかというと主流的な見方が推測として正しいと思う。たぶん小沢には二重の誤算があった。彼は鳩山と菅の両方を甘く見ていて、鳩山がダブル辞任という逆襲をしてくるとは思わず、それをはね返す理屈を用意していなかったし、また菅はこの間ずっと小沢に対して恭順の意を示していたので思い通りに操れると思ったが、菅は意外にも素早く動いて(しかも恐らくは鳩山と気脈を通じて)2人が信頼を寄せる仙谷由人を軸とする独自の人事構想を進め出した。菅の昇格しか考えていなかった小沢は、自分で田中真紀子に電話を掛けて代表選出馬を働きかけて即座に断られ、また側近を通じて海江田万里や原口一博にも声をかけて断られるというドタバタを演じた。この国難の時に、外相もまともに務まらなかった真紀子を日本の総理にしようとするなど、ほとんど狂気の沙汰で、その慌てぶりに、この事態が小沢によって周到に準備された謀略などではないことが暗示されている。
●小沢はしてやられた
もちろん、ダブル辞任という自爆的シナリオを構想し仕掛けたのは小沢側で、鳩山を辞任に追い込んだまではよかったが、その瞬間に菅が"小沢離れ"の動きに出たのが想定外だったというケースもありえよう。その場合、小沢の誤算は二重でなく一重だったことになるが、それでも結論は同じで、小沢は菅にしてやられたということである。
もっとも、小沢のこうした政局の修羅場での判断はこれまでも大体において余り正しかった例(ためし)はない。(1)93年に細川政権を作って自民党長期政権を終わらせたのは見事だったが、同政権を支えることが出来ず、(奇しくも今回と同様)8カ月で崩壊させた。(2)その末期に自民党から渡辺美智雄を引っ張り出そうとして失敗した。(3)羽田孜政権を支えきれず2カ月で崩壊させた。(4)その末期に自民党から海部俊樹を引っ張り出して海部政権を作ろうとしたが亀井静香にしてやられ、村山=自社さ政権による自民党復権を許した。(5)94年12月に新進党を結成し「保守2大政党制」を標榜したが、自民党の切り崩しと旧民主党の結成に押されて3年間でバラバラに分解した。(6)99年1月に小渕恵三=自民党との自自連立、自自公連立に走ったが、自由党は分裂し、保守党が誕生したが後に自民党に吸収され、結局、自公連立による自民党政権の10年間延命に手を貸しただけとなった。(7)07年11月に福田康夫=自民党と民主党による「大連立」密謀に乗ったが一人芝居に終わった。(8)09年8月の総選挙で民主党=鳩山政権を実現したのは見事だったが、またもやこれを支えきれず、8カ月で潰した......。
私は、93年の彼の著書『日本改造計画』に代表される小沢の理念力は(細部での意見の違いは別として)極めて高く評価していて、彼が06年4月に民主党代表に就任した直後から何度も「小沢さん、『新・日本改造計画』を書いて、その小沢理念で政権交代を実現して下さい」と言い、その度に彼も「おお、そうしようと思っているんだ」とは言ったが、今に至るも実現していない。それでも私は「小沢政権を見てみたい!」という強烈な願望を抱き続けていて、今なお昨年5月の代表辞任を残念に思っている。しかし、その理念力とは裏腹に、理念をじっくりと党内にも世論にも滲透させ1つ1つ煉瓦を積み上げるように実現していく忍耐力、説得力、統合力に欠けているのは事実で、「こんなことも分からないのか、バカめ」という調子で出るべき時に出ず動くべき時に動かず、結局、状況が煮詰まってどうにもならなくなってから政局戦術的にバタバタして、潰さなくてもいいものを潰してしまうということの連続だった。
この小沢の欠陥については、内田樹『日本辺境論』(09年、新潮新書)で日本語の特殊性について語っている中の次の記述が参考になる。
▼自説への支持者を増やすためのいちばん正統的な方法は、「あなたが私と同じ情報を持ち、私と同じ程度の合理的推論ができるのであれば、私と同じ結論に達するはずである」というしかたで説得することです。私と聞き手の間に原理的には知的な位階差がないという擬制をもってこないと説得という仕事は始まらない。
▼けれども、私たちの政治風土で用いられているのは説得の言語ではありません。もっとも広範に用いられているのは、「私はあなたより多くの情報を有しており、あなたよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどのような結論に達しようと、私の結論の方が常に正しい」という恫喝の語法です。自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせさえすれば、メッセージの審議や当否はもう問われない。
▼「私はつねに正しい政策判断をすることのできる人間であり、あなたはそうではない」という立場の差を構築することが、政策そのものの吟味よりも優先する......。
よく言われるように、東北人特有の「口下手」などという問題ではなく、最初から「説得の言語」を持とうともせずに「恫喝の語法」に頼り、そしてさらに言えば、その恫喝の語法を貫徹するために、言語そのものを用いることさえも放棄して、組織や人事や選挙を通じて力をみせつけて、自分が「最高実力者」であり「闇将軍」であることを有無を言わせず認めさせ、「立場の差を構築」しようとするのが小沢流と言えるかもしれない。
本論説が3月以来繰り返してきたように、「政治とカネ」の問題も「普天間移設」の問題も、正面突破作戦を採らない限り、官僚とマスコミの連合軍が作り出す疑似世論に囲まれて政権が行き詰まることは目に見えていた。本来、こんなことで2人が揃って辞めなければならない論理的な理由などあるはずがなく、しかしだからと言って政治が相手にするのは大衆の情動であって、論理的に正しいとか説明など必要ないなどと言い張っていても通らない。鳩山と小沢は毎日でも会って状況を分析し方針を立て「説得の言語」を工夫して、内閣と党にそれを滲透させ、すべての力を結集して反革命的包囲網を切り裂いていく先頭に立たなければならなかったが、実際にはその反対で、2人の間には同志的な結束がないばかりか、危機が深まるほどますます他人行儀のようなことになってすべてが後手後手に回ることになった。2人それぞれの資質と能力の問題もあるが、「政策は内閣、選挙は党」という小沢式の二元論が極端がなおさら事態を悪化させた。
どちらが仕掛けたのかという政局次元の話はともかく、トップの2人が結束して血路を開くことが出来なかったことは事実で、こうなれば2人がダブル辞任すること以外に政権交代の果実を守る手立てはなかった、ということである。
●要は仙谷官房長官
菅直人総理が8日組閣後の会見で「内閣の一体性確保」を強調したのは、前政権の失敗の教訓を踏まえたことであるのは言うまでもない。彼は言った。
▼新たな私の内閣は、官房長官を軸とした内閣の一体性を考えて構成した。官房長官とはまさに内閣の番頭役であり、場合によっては総理大臣に対しても「ここはまずいですよ」と言える人物でなければならない。よく中曽根政権の下の後藤田(正晴)先生の名が出るが、そうした力を持った人でなければならない。
▼仙谷さんは長いつきあいだが、同時にある意味では私にとって煙たい存在。煙たいけれども力のある人に官房長官になっていただくことが、この政権の一体性を作っていく上での最初の一歩と考えた......。
鳩山の人事面での最大の失敗が、野党代表の秘書役としては便利だったかもしれないが、総理にモノ申すわけでもなく与党幹事長とのパイプ役を担えるわけでもない平野博文のような無能者を官房長官に据えたことにあったことは、衆目の一致するところで、それに比べて菅が真っ先に仙谷を要に組閣を考えたのは適切な判断だと思う。
菅と仙谷の本格的なつきあいは、政策集団「シリウス」が最初だと思う。仙谷は1990年2月の総選挙で社会党から初当選するや、直ちに同じ1年生の池田元久(現財務副大臣)、筒井信隆(現衆院農水委員長)、細川律夫(現厚労副大臣)らと「ニューウェーブの会」を結成、党執行部に対して改革案を突きつけるなど目覚ましい活動を始めた。やがて仙谷らは、当時「社民連」所属の菅と語らって92年11月、社会党ニューウェーブ21人、社民連2人、連合参議院4人で江田五月(現参院議長)を代表として政策集団シリウスを結成、私も仙谷や大学同期の筒井との付き合いから唯一の非議員メンバーとして参加したが、これは政策集団とは表向きで、実は社民連を社会党と合体させ江田を委員長に押し立てて社会党を乗っ取ろうという陰謀集団だった。が、結局は江田の優柔不断で決起が果たせず、大いに落胆した菅は、翌年、宮沢内閣崩壊、自民党分裂という大変動の中で「新党さきがけ」に合流した。
仙谷は、東大法学部在学中に司法試験に合格した秀才で、憲法論や行政法改革論はじめ制度論ばかりでなく、安全保障、経済戦略、医療などどんな政策分野でも自説を展開できる「説得の言語」を持つ民主党きっての論客であって、同じ論客タイプの菅が一目置く数少ない人物である。しかも、菅が論法鋭いあまりに同僚や若手を完膚無きまでに論破して傷つけてしまいやすく、結果、党内の信望が薄いという点では小沢に似ているのに対して、仙谷は逆で、党人派的な親分肌のところがあって、党内グループの壁を超えて中堅・若手の相談相手として信頼を集めている。マスコミが作るグループ分けの一覧表で、仙谷を「前原グループ」の一員であるかに分類しているのはとんでもない話で、彼は確かに同グループの後見役ではあるけれども、それに止まらず、小沢系と言われる一部を含めた中堅・若手のほぼ全体にとっての後見役である。
その仙谷が最も信用する弟分が枝野幸男で、この2人は一心同体と考えていい。それを幹事長に据えたのも菅の英断で、これによって内閣と党の奇妙な二元論は解消される。2人は1日に10回でも連絡を取り合って内閣と党をシンクロさせるだろう。加えて、これも小沢の二元論によって阻まれていた党政策調査会も復活させられ、その会長の玄葉光一郎が内閣にも入ることで、なおさら内閣と党の一体化は促されるだろう。
蓮舫を行政刷新大臣にしたのも菅のセンスのよさである。彼女が事業仕分けでテレビ的にも活躍し、選挙向けの"顔"として有用であるという戦術的理由もさることながら、事業仕分けは、公務員制度改革や天下り禁止、特殊法人改革などとも相まって、民主党政権の本源的な戦略である「中央集権体制の解体」=「地域主権国家への転換」を成し遂げるための地ならしであって、その作業は前政権下で、仙谷=行政刷新相、枝野=仕分け人主任、蓮舫=副主任で始まり、やがて仙谷=国家戦略相、枝野=行政刷新相、蓮舫=主任となって今春に継続された。蓮舫は仙谷と枝野を"兄"と慕っており、実はこの仙谷〜枝野〜蓮舫というラインが重用されたところにこの内閣の戦略性が表現されている。
加えて、この内閣・党人事の最大の特徴として「世代交代」がある。党に関して言えば、トップの枝野が42歳、幹事長代理の細野剛志は38歳で、その平均年齢が清新さを印象づけるというに止まらず、もはや68歳の小沢が何もかも取り仕切るという時代は戻ってこないという暗喩的なメッセージとなっている。もちろん、小沢がいなくて民主党は大丈夫なのかという不安は残る。が、小沢自身が理念力と「説得の言語」によって民主党を導くことを選ばず、自民党由来の権謀術策と「恫喝の語法」によって勝負をかけて失敗したのだとすれば、民主党は小沢を超えて前に進むしかない。福島瑞穂、小沢一郎、亀井静香と、良くも悪しくも「55年体制」的な要素が剥離していくことで民主党らしい政権が育って行くのでなければならない。
菅=民主党は、余程のことがない限り、参院選で改選議席54は確保し、巧く行けば60を奪って過半数を確保するだろう。そうなれば9月にもう一度、形ばかりの総裁選を実施する理由は何もなく、菅体制が継続する。国民としても、「もう短期でゴタゴタしないでじっくり政策に取り組んで貰いたい」というのが本音だろう。とすると、『週刊ポスト』が期待するような新闇将軍による「9月の陰謀」など起こる余地はなく、菅政権は長続きし、3年後の総選挙もしくは衆参ダブル選挙では、国内=地域主権国家への100年目の大転換、対外=東アジア共同体の形成とそれに見合った日米安保体制の見直しを2大テーマに掲げて国民の同意を求め、それに成功すれば、それから約10年かかって2025年頃までに日本の「脱発展途上国」の平成革命を成し遂げるだろう。その総仕上げは憲法の改正である。
私はそこまで生きているかどうか分からないが、それを夢見て、取り敢えずは菅=仙谷政権の健闘に期待をかけることにしよう。▲PR -
「前田有一の超映画批評」より。ハリウッド映画が米国支配グループのプロパガンダ手段であるということを知らない人間も多いかと思うので、その事について明瞭に述べているこの文章を転載する。ハリウッドを握っている資本家グループの存在と、毎年のようにユダヤ人迫害問題のハリウッド映画が作られることとの関連を考えたこともない人間が世間の大多数だろう。ただし、プロパガンダが目的でも、それが映画としても優れている場合もあるのだから、芸術と資本との関係はやっかいである。
本文中にも書いてあるが、「ハートロッカー」のアカデミー賞受賞は、アカデミー賞がどのような性質のものかを世界中に知らせた事件だったが、それでもまだアカデミー賞とかノーベル賞の権威を信じているB層の人間が世界の圧倒的多数を占めているのである。だから、「嘘も100回繰り返せば真実になる」という、アイヒマンだか誰だかの言葉は世界政治の基本となるのである。つまり、「9.11事件」のようなボロだらけの陰謀でも、マスコミさえ握っていれば十分役に立つということだ。さらに、マスコミを握ればすべてが簡単に操作できることはとうの昔に「シオン長老の議定書」に書いてあることである。
(以下引用)
『グリーン・ゾーン』80点(100点満点中)
Green Zone 2010年/アメリカ/カラー/114分/配給:東宝東和
監督:ポール・グリーングラス 原案:ラジーフ・チャンドラセカラン 脚本:ブライアン・ヘルゲランド 出演:マット・デイモン グレッグ・キニア ブレンダン・グリーソン エイミー・ライアン
お笑いプロパガンダ
『グリーン・ゾーン』を見ると、この映画を作った製作者らスタッフが、現代アメリカの本流というべき立場にいることがよくわかる。アメリカウォッチャーは、今後はこの人たちの作る映画から絶対に目を離すべきではないだろう。
フセイン失脚直後のイラク、バグダッド。米陸軍のミラー准尉(マット・デイモン)のチームは、大量破壊兵器を探す任務についている。ところが情報は常に誤りで、一向に見つかる気配はない。犠牲ばかりが増え続ける現状に納得できないミラーは、ようやくつかんだ重要情報を国防総省のクラーク(グレッグ・キニア)が握りつぶしたのをみて、何かがおかしいと感じ始める。
私はこの映画を見て、内心笑いが止まらなかった。イラク戦争の大義だった「大量破壊兵器」が実在せず、プロパガンダだったことは今では常識。ところがこの映画ときたら、この世紀の大嘘は一人の悪い小役人のせいで、国民もいたいけな米軍兵たちも、それにだまされた被害者だというのだ。
まさに厚顔ここにきわまれり。タブーを暴いたふりをして責任を矮小化し、自分たちの大多数を正当化する。本年度ダントツトップの、トンデモプロパガンダムービーである。
「ブッシュ政権のころにやってればもっとよかったのに」などという人がいるがとんでもない。政権交代したあとに公開するからプロパガンダの意味があるのだ。悪いことは前政権のせい。政権交代してみそぎを済ませたので、今の米軍はきれいな米軍ですよ──と、こういうわけだ。まさにアメリカ版・易姓革命。米中の仲がいいわけである。
アカデミー賞を取った「ハート・ロッカー」もこの『グリーン・ゾーン』も、言っていることは同じ。前の政権は悪いやつで、それに操られてひどいことをやったけど、米軍ひとりひとりは心の通った私たちと同じ市民であり、命がけで正義にまい進する立派な集団ですよということ。
アイゼンハワーが退任演説でその存在に言及したアメリカの軍産複合体は、10年ごとに在庫セールをやらないと立ち行かないと指摘する人は多い。アメリカが定期的に大戦争を起こすのはそれが理由だ、と。大不況時代を世界大戦の特需で乗り切った記憶から逃れられないアメリカは、自国最大かつ最優秀な製造業であるこの業界を、景気けん引役にしたい欲求を抑えることができない。
彼らは民主国家であるから、いつでもその「切り札」を使えるよう、いまのうちに世論作りに精を出すのは当然。なにしろ現在、アメリカは出口の見えない大不況下にいるのだから。実際に景気対策で戦争をやるやらないは別にして、選択肢を確保しておくのは為政者として当然のことだ。そのためにいま、もっとも重要なのは、イラク統治失敗に伴う罪悪感からくる国民の厭戦感情を抑える事。私が米大統領だったら、必ずそう考える。
その役割を担うのが、世界最大のコンテンツ制作集団ハリウッドということになる。アカデミー賞受賞作や、本作のような一流のスタッフ・キャストによる作品が、絶え間なく同じこの価値観を米国民(および世界のハリウッド映画ファン)に押し付け続けるのは、そういう事情があるのだろう。
つまり、現在は傷ついた米国民のリハビリ回復期間であり、「ハート・ロッカー」も本作も、米軍の信頼回復キャンペーンの一環ということだ。これで計算どおり自信を回復し、それが最良の選択肢となれば、オバマであろうが誰であろうが米国はまた「やる」だろう。翻訳家の中俣真知子氏は「アメリカ人が今、最も信頼する組織はダントツで軍隊」だと明らかにしている。望みどおり、リハビリの効果が出てきたわけだ。どうやら「その日」は近いかもしれない。
となれば、彼らのファミリーセール催事場に、日本近海が利用されないようにすることが、何より肝要である。鳩山首相には、そういう視点で普天間移設問題にあたってほしいと思う。肝心の同盟国が一番食えない相手という、日本独特の状況を決して忘れてはならない。
さて、脱線が激しくなってきたが、要するに本作の政治映画としての欠陥は、「大量破壊兵器」の嘘をついた理由に言及していない点である。確かに大量破壊兵器の嘘じたいは認めた。だが、その嘘がどんな国益に沿ったものなのか、それを伝えなくては何の意味もない。それをあえて(詳しく)語らないから、本作が100%プロパガンダ品と判明するのだが。
どんな「国益」のためにこんな嘘をついたのか。それをいえば、その「国益」が現在も進行中だとばれるので、権力者たちは言いたくない。本作の目的と背後関係が、バレバレになる瞬間である。
ポール・グリーングラス監督&マット・デイモンは、ジェイソン・ボーンシリーズでおなじみの黄金コンビ。アクションシーンのキレのよさ、大作感を感じさせる本格的な映像作りのうまさには定評がある。本作でも、実銃や本物軍人のエキストラを多数利用するなどして、見ごたえある軍事アクションを作り上げた。単なるアクション映画、戦争映画としても、抜群に面白いレベルだ。
政治映画として一流、アクションものとしても一流。お笑いプロパガンダとしては超一流。政治に興味ある大人が見る娯楽として、これ以上のものはない。オススメだ。 -
沖縄の人間(あるいは日本人)には珍しく、問題の本質をつかむ能力にすぐれ、精密で論理的な文章の書き手であるキー坊の文章を紹介する。
以下に載せる記事は『幻想の島沖縄』という本への批判だが、その批判には沖縄問題を論じる時の微妙なポイントが良く示されていると思う。キー坊のブログは「曽野綾子『神話』」で検索すれば見つかるだろう。
(以下引用)
小泉政権に反抗して外務省を追放された元駐レバノン大使・天木直人氏は、ブログで普天間基地の県外移設を主張しており、民主党の公約違反を批判している硬骨の言論人である。その天木氏が10月25日、ブログで「鳩山民主党政権は結論を出す前に『幻想の島 沖縄』を読むべきだ」というタイトルの記事を書いていた。(引用以下)
「いまこそ彼らは日経新聞前那覇支局長・大久保潤氏の著書「幻想の島 沖縄」(日経新聞社)を読むべきだ。この本は、普天間基地問題の結論が出される前に、この国の指導者が読むべき本だ。いや日本国民のすべてが読むべき本だ。
普天間基地問題のすべてがそこにある。沖縄問題のすべてがそこにある。いや戦後の日本の日米関係史のすべてがそこにある。この本を読むと、湯水のように使われてきた沖縄支援や減税特別措置によって、基地住民の気持ちがいかに分断され、歪められてきたかがわかる。」
と、著書への最大級の評価を下しているような推薦の言辞である。沖縄の過重な米軍基地負担を憂えている天木氏が称讃するほどの本なら読んでみたいと思って買った。著者大久保潤氏は05.3月から08.2月まで3年間、沖縄那覇で日経新聞の支局長を勤めた社会畑の記者であり、本は今年7月23日に発刊されたものである。
天木氏の薦めもあって、私は期待感を持って読み始めたのだが、徐々にそれは裏切られて失望感が沸いてきて、読むほどにそれは怒りに変わってきている。
三百数十頁あるこの本は全編にわたって、過去数十年の間に米軍基地存在によって歪められ、劣化してしまった沖縄社会のあらゆる点についてレポートしている。天木氏はおそらく今まで沖縄の実情に疎かったのだろう。この本を読んで初めて、補助金を垂れ流す日本政府の基地押し付け政策によって、沖縄社会が如何にスポイルされているかを知ったのだと思う。
それ故、天木氏はこの沖縄の現状を嘆いて、民主政権の幹部及び日本国民のすべてはこの本を読んで沖縄の実態を知れと、ブログで言ったのだと思う。そういう意味では、沖縄社会の実態を描いた日経記者・大久保潤氏の『幻想の島 沖縄』(日経新聞社)は存在価値があると思える。沖縄の事を知らない人にその実態を知らせるのには役に立つ本であろう。
米軍基地によってスポイルされた沖縄社会の実情は、大方の大和人には知られていないし、あくせくその日の暮らしに追われている大部分の沖縄人も、自分らの社会がどれほど劣化しているかを自覚してないと思う。
沖縄の言論人であれ大和の言論であれ、沖縄について辛口の論評を行う場合、その根底にある心情に思いやりが無ければ生産的でないことは言うまでもない。大和人が沖縄への強い贖罪意識や同情心をもっている場合は、辛口の言葉を敢えて投げ掛ける事は勇気のいる事だろう。反対に、贖罪心、同情心が無ければ、「ニセ沖縄人」「特殊奄美人」らがやっているようにどんな侮蔑的、中傷的言葉でも平気で投げつけるだろう。
「対象への悪意を含んだ言説」を最近では「ヘイトスピーチ」と言うらしいが、例えば狼魔人らの低劣右翼が沖縄へ向ける言説もその範疇だろう。だが、彼らのような明らさまなものは「誹謗」「中傷」と日本語で言ったほうが適当な感じがする。一読しては、対象を冷静に分析してその将来を利する為に書かれたかに見える著書でも、じっくり読み込めば誹謗中傷の内容でしかない場合、それを「ヘイトスピーチ」と言うのではなかろうか。
大久保潤氏の『幻想の島 沖縄』は、「幻想」という文字が入っているように、沖縄の内情はイメージで捉われているものとは、大きな落差のある悲惨なものであると言う事をレポートしている。全ページ次から次へと沖縄のマイナス部分の洗い出しの感がある。そして、沖縄をこのような状態に追い込んでいった最大の要因は米軍基地の存在であり、その米軍基地を沖縄に押し込めておくための日本政府による超優遇的経済措置、つまり補助金の垂れ流しであるというものだ。それがもたらす経済格差の増大、官民の格差、自助努力の喪失、補助金に頼った土建行政による見るも無惨な自然破壊、等々…。
実際、私もその通りであると思う。米軍基地の属性のうち何が一番恐ろしい事かと言えば、米軍の犯罪でも事故でもなく、騒音被害でもない。それは、米軍基地が存在する事によってもたらされる地域社会の劣化・スポイルである。現在、沖縄はもう回復がおぼつかないほどに、それが進んでいるという事をこの本は語っているように思える。日本政府が今まで湯水のように、沖縄に金をつぎ込んだのは、沖縄を黙らせる為だけでもなければ、沖縄を思いやっての事でもない。つぎ込んだ金はゼネコンなどを通じて、かなりの部分が大和に還流する事も大きいからであり、ヤマト政治家の利権になっていた。
米軍基地の固定化に協力するほど住民はより多く利益が得られる仕組み、軍用地代高額化での親族同士の利益の奪い合い、拝金主義の浸透。のんびり生活しているように見えても、基地を抱える地域ほど社会は劣化・腐敗が進行し、それは基地の無い地域にも拡散する。
米軍基地の集中する地域に生まれた自分は、大久保氏が言っている沖縄の惨状を否定するつもりは毛頭ない。私が米軍基地を強く憎む理由は、米軍基地が存在する事によって地域の住民を堕落させると思うからである。そして、それを沖縄に押し付けて自分らはその弊害を免れようとするヤマトの政府と民の態度に怒りを覚えるのである。
ところで、大和人である大久保潤は自分の立ち位置をどのように捉えているのだろうか。沖縄の住民をスポイルしている米軍基地の存在を問題視して、それ押し込める為のヤマト政府の補助金垂れ流しと、それを沖縄が安易に受け取る事、つまりアメとムチ関係は止めようとは言っている。沖縄=被害者vs本土=加害者の構図で、日本政府から金を引き出して安楽なやり方をする沖縄に未来は無いという。真にごもっともな言説であるが、それを力でもって実行しているヤマトの権力への追及はこの本には無い。つまり、佐野眞一の本と同じで、物事の本質に迫らないのだ。
本土も沖縄も、このような日本と沖縄の関係性から脱却しようと勧めているだけであり、その為の具体的提言は何ら無い。結局、上っ面をなでるような沖縄批判を繰り返しているだけではないか?天木直人氏のように見識のある人物なら、この本を読んで沖縄の現況を知り、危機感を持って政府へ追及の目を向けるが、一般の大和人は、沖縄への大規模な補助金垂れ流しと、それ故の沖縄社会の堕落振りに冷ややかな目を向けるのではなかろうか?沖縄は俺たちの税金を無駄使いしている。それなのに米軍基地は要らないと虫の良い事を叫ぶ…、と思う人が大部分ではないか。そんな印象を読者に与える為に書かれたのではないかとの疑惑を持つ。
佐野眞一の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』もヘイトスーピーチの一つだと思うが、この『幻想の島 沖縄』も、全体を読み通してみると沖縄への「思いやり」というものは感じさせず、執拗かつ悪質な「ヘイトスピーチ」でしかないと、私は思う。実効的な沖縄への提言は何も無く、「です・ます」体の文章で、沖縄の悲惨な状況を延々と言い続けても、事の本質に切り込む姿勢は見せない。このような本は沖縄誹謗の書と言わざるを得ない。(続く) -
以下は、「現代世界」という題で、私が高校生のために書いた未刊の教科書の前書きの一部で、現代世界を見る見方を述べた部分である。気が向いたら、今後、少しずつ掲載するかもしれない。
① 政治は経済を目的として動いている。(簡単に言えば、誰か…個人や団体…が、自分が得をするために政治的手段でそれを実現するということです。)
② 経済は、物的人的資源を金に換える手段である。したがって、地理と経済は密接に関連し、政治とも関連する。(たとえば、ある国が戦争を起こすのは、正義や大義名分のためではなく、本当はその裏に常に金や利益という目的があるということです。)
③ 近現代史は西欧中心の歴史として捉えねばならない。(もっと露骨に言えば、現在の世界は、十九世紀から二十世紀前半に西欧国家が世界を支配したその延長にあり、弱小の国々は、外見上は独立国家でも、実質的には元の宗主国等の支配を受けているということです。日本は十九世紀の侵略からは免れましたが、第二次世界大戦での敗戦によりアメリカに占領され、サンフランシスコ平和条約で名目的には独立は果たしたということになっていながら、今なお日本の中に米軍基地が居座っているという「被占領国家」です。)
④ 国家と国民と政府は区別して捉えねばならない。(これは、我々が日常的にやりがちな誤りです。たとえば、日本の国債残高が何百兆円あって、それは国民一人当たり何百万円の借金に当たるという「説明」がよく新聞に載りますが、借金したのは政府であって、国家や国民ではありません。そうした言い方で責任の所在を誤魔化すのはよくあることです。一般に、新聞記事は「誰が何のためにそういう情報を流しているのか」という視点で見る必要があります。)
⑤ 一般的に、物事の幹となる部分と枝葉の部分を分け、まずは幹となる部分を身につけた上で枝葉の部分を勉強していくこと。(地理で言うならば、まずは西欧の大国と、その関連国家を学ぶべきだということです。たとえ大国でも現代世界の主役ではない南米やアフリカの諸国は最初からは学ぶ必要はありません。また、小国でもベトナムやカンボジアのように大国の植民地政策の犠牲になってきた国々や、現在の世界の焦点である中東諸国は、政治の実際を知るためにも学んだほうがいいでしょう。歴史なら、まずは近現代史のトピック的事件を中心に学ぶべきです。) -
未開人(現代の世界においては、もはやほとんど存在しない概念だが)が近代人にくらべて心の落ち着きがあるのは、彼らに「幻想上の可能性」が無いからである。言い換えれば、彼らは真のリアリストであって、様々なフィクションで心を満杯にした近代人のように自らの可能性についての幻想を抱くことが無いからである。
近代人、あるいは現代人は頭の中に無数の知識を詰め込んだ結果、自分には様々なことが可能であるという幻想を持っている。そしてその理想像(理想の自分)と現実の自分との乖離が彼を苦しめ、悩ませるのである。近現代人の不幸の大半はそこから来る。
希望にのみ生きてはいけない。遠くの星をのみ眺めて生きてはいけない。我々が遠くに見るあの星は、実は数億年も前に死滅した星の偽りの姿なのである。
「昨日は夢でしかない。明日は幻である。だが、良く過ごされた今日は昨日を慰安に満ちた夢に変え、明日を希望に満ちた幻にするだろう。だから、今日というこの日を掴め。」(カリダサの詩を、記憶によって書いたもの。特に最後の部分はうろ覚えである。)