基本的人権って何?
プロパガンダ漫画家の「はすみとしこ」さんのシリア難民をモティーフにした風刺画(ここでは便宜上「風刺画」としておく)が話題となっている。
問題の風刺画は9月10日にFacebookのコミュニティページに掲載されたものだ。Twitterで炎上したのはそれから遅れること9月30日、とりわけ「SEALDs」の奥田愛基さんのツイートは反響を呼んだことだろうと思う。
ほどなくキャンペーンが立ち上がり、炎上後わずか一週間余りで1万人を超える賛同者を瞬く間に集めた。10月2日にはJapan Timesが、つい先日の10月8日にはBBC、9日にはDaily Maileと海外メディアが立て続けに取り上げた。
しかし、一連の騒動を見ていて、私はどうにも腑に落ちない点があった。もちろん、これが「シリア」だけでなく「難民」と呼ばれる人たち、あるいは「外国人」や「移民」と呼ばれる人たちへの差別表現にあたることは言うまでもないことなのだが…。
何が引っかかるのだろう。それでちょっと文言をもう一度よく読んで欲しい(というか、多くの人はこの数日間、飽きるほど見たと思うのだが…)。
「安全に暮らしたい
清潔な暮らしを送りたい
美味しいものが食べたい
自由に遊びに行きたい
おしゃれがしたい
贅沢がしたい
何の苦労もなく
生きたいように生きていきたい
他人の金で。」
特に前半部、「安全に暮らせること」や「清潔でいること」、「美味しいものを食べる」「自由であること」などは私なんかいつもそう思っている…というか、これらは基本的人権を満たすものとしてほとんど最低限必要なことだ。
(「美味しいもの」は具体的に「贅沢品」や「嗜好品」を示唆するものではない。少なくと物が美味しく食べられるということはその人が「健康だ」ということであろう)
「おしゃれが楽しめる」というのはどうだろう。いけないことだろうか?
特別お金をかけなくても工夫次第で「おしゃれ」を楽しむことは出来る。これは言ってみれば「自己表現が楽しめる権利」というものだ。もう少し判り易く言えば「表現の自由」である。
この文言で最も人の道徳観を逆なでするのは後尾の「何の苦労もなく生きたいように生きていきたい 他人の金で。」の部分だろう。
しかし、ここでも私は思うのだが「他人の金で生きて行くこと」はそんなにもいけないことなのだろうか?
冨の再分配と扶養のシステム
「贅沢は敵だ」という標語を誰もが聞いたことがあるだろう。これらは先の戦争において国民精神総動員という運動の名のもと、民衆に浸透していった標語だ。
「欲しがりません勝つまでは」なんてのもある。聞いたことがあるだろう。
どうだろう。その上でもう一度、件の風刺画の文言をよく読んで欲しい。
どこか似てないだろうか。似ていない?
いやいや、もっとよく考えて欲しい。似ている。似ているのだ、この二つは。
何が似ていると言えるだろうか。
ここでもう一度問いたい。
「他人の金で生きて行くこと」はいけないことだろうか?
本当に?
多くの皆さんは社会保険料というものを国に支払っているだろう。そして誰かを扶養したり、でなければ誰かに扶養されてるはずだ。
国民健康保険に入っているだろう?ひょんな時に怪我をしたり病気になった時に保険を使うわけだが、大抵の人が保険に入っている(皆保険)ので利用者は三割負担で済む。残りの七割は誰が払っているのだろうか?国が払ってる?毎月サラリーから天引きされてる?
違う。それは国の金でも毎月天引きされた自分の金でもない。他人の金である。
私たちはいざという時、他人の金の助けを借りて生きている。
年金だってそうだ。今、年金で食べている人は誰の金で食べている?他人の金だ。
老後年金をあてにしている人は何をあてにしている?他人の金をあてにしている。
もう少し言い方を変えると、私たちは互いに金を出し合って支え合って生きているのだ。
他人の金で生かしてもらい、また自分の金で他人を生かすこと。それが「社会」を構成することの意味であり、国が保障する社会扶助、扶養のシステムとは、言ってみれば「富を再分配」するシステムだ(色々と不都合があったとしても)。
障害者になったり、老後一人で立てなくなれば誰もが他人の金で暮らすことになる。が、それはある傾向的な状態により人の世話にならないと生きて行けない事実が可視化されただけで、そうでなくても、例えば健常者でも、若者だろうが中年だろうが、社会の中に生きているという、ただそれだけで、既にその人は自分の金で他人を生かし、他人の金で自分自身を生きているのである。
「他人の金で生きて行くことはいけないことか?」というより、そもそも国や社会の構成員である以上「他人の金で生きていない人はいない」のである。
件の風刺画の何が問題かというと、「難民」、「外国人」への排外主義や差別主義以前に、そこで「富の再分配」が真っ向から、堂々と否定されている、ということである。
そして「富の再分配が否定されている」という点において、風刺画は先の戦争で民衆をマインドコントロールした標語に「似ている」のである。
というか思想的には、ほとんど同一のものだ、と言っていい。
私が一連の騒動で最も違和感を持ったことは、「難民」が差別されていると言えば、それはそうなのだが、それ以前にそこで「富の再分配が否定されている」のに多くの人が風刺画は批判するものの、「富の再分配」には言及しないことだ。
いくら「難民が可哀想だ」の、「差別はいけない」だの言ってみても、要は「自分の金で人を生かす気があるのかどうか」ということだ。
自分の金で人を生かし、自分もまた他人の金で生きて行く、そんな気もないのに風刺画一枚批判したところで一体何になるだろうか(少なくとも善人でいられる)。
これは絶対的に民主主義の問題であり、国の問題であり、社会の問題である。
「差別」や「差別主義」は、なぜあるのだろう?
その理由は様々考えられるが一つは富を一極に超集中させることである。そして一部の者にしか富、資源による利益を与えようとしないことである。既得権益を守ること。そのために差別や差別主義は必要なのである。先の戦争では「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」という標語のもと、民衆の日用品までが戦争のための資源になった。
「差別主義者」と「非差別主義者」の闘いとは、言ってみれば「富を一ヶ所に集中させようとする者」と、なるべく「富を分散させ、均一化しようとする者」との闘いである。
ちなみに、かの「はすみとしこ」さんは、Facebookで「富の再分配」を否定している。
真面目に働いて、税金を納めている方々の税金が、その自称難民達に対する援助には使われるべきでは無い
日本人が支払った税金で何不自由無い暮らしを送っています。国民たる日本人は生活保護が受けられずに多数が餓死しているにも拘わらず、在日の14%以上が生活保護を受けています。
「生保バッシング」など好例だが多くの場合、差別主義、ファシズム、保守主義というものは「富の再分配」を否定する。冨の一極集中化を妨げるものをなるべくカットし、より合理的に、より効率的に富が一極に集中するよう社会システムを積み上げていくものである。
※なお件の風刺画を「はすみとしこ」さんは削除している。…と言っても情報化社会なのであって、件の風刺画は膨大なコピー群としてネットの海の一部を形成しており、なんて言うか、削除も何もないのだが…。
写真主のJonathan Hyams氏から難民イラストの削除要請が来ました。私は前から申し上げているように、Jonathan Hyams氏の意思を尊重して当該イラストを削除いたします。
追記
(あと、できれば奥田愛基さんはTwitterのブロック外してください…)
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