この記事を読んでどう思うかは人それぞれだろうが、愛国者としての私は、激怒した。今すぐ、ワシントンとニューヨークに原爆を落とせ、と言いたいくらいだ。
日本が核武装していたら、今すぐに米国との再戦をしろ、と言いたくなるような記事である。だが、米国側の立場に立てば、この言葉も当然だろう。戦争は、相手が降参しない限り、相手を叩き潰すしかない。その方策の一つが原爆だったにすぎない。
もちろん、それで殺した人間のほとんどが非武装の市民だったところに、広島と長崎の原爆投下がけっして正当化できない理由がある。明らかに、これは「人道への罪」である。非武装の人民をこれだけ大量に殺すことは、戦時中とは言え、戦争犯罪に相当するだろう。原爆投下によって日本が無条件降伏を受け入れて、ある人間が戦死から免れたならば、その人間は確かに「原爆投下を神に感謝」しただろう。自分の命一つを救うために日本人何十万人が死のうと、たかが東洋の黄色い猿ではないか、というわけである。
まさに、西洋の神とは西洋人のためにのみ存在するようである。
怒りの余り、支離滅裂な文章になったかもしれないが、そのまま掲載する。
これが、今、我々が同盟国とし、その同盟関係のために自衛隊員を戦地に送ろうとしている国である。自衛隊員の皆さんは、それでいいのか。
(以下引用)
1. 2015年8月10日 07:57:31 : K4Pxa60v9o
【オピニオン】原爆投下を神に感謝
2015 年 8 月 7 日 12:14 JST ウォール・ストリート・ジャーナル
このコラムのタイトルは文化評論家で戦争回顧録の著者、故ポール・ファッセル氏が1981年に書いたエッセイから拝借した。1945年、21歳だった同氏は米軍少尉としてすでに欧州戦線を戦い、生き延びていた。にもかかわらず、ダウンフォール作戦(米軍の日本本土上陸作戦)への参加を命じられ、数カ月後には太平洋へ派遣されることになっていた。その日本本土上陸作戦は1945年11月に予定されていた。
ところが、原爆投下でその作戦は中止となった。広島への原爆投下後も降伏しなかった日本だが、長崎への原爆投下後に降伏した。
筆者は広島へ向かう機内でファッセル氏のエッセイを読んでいた。特に印象深かったのが次の一節である。「数カ月後には東京近くの海岸から突撃射撃をしながら上陸を試み、機銃、迫撃砲、大砲の攻撃を受けることを覚悟していたが、その任務から解放されたという驚くべき朗報を耳にしたとき、何とか勇敢に見せようと冷静を装ってきたにもかかわらず、われわれは安心と喜びで泣き崩れてしまった。これで生きられると実感した」。
原爆投下70周年を迎えた今週、米国は原爆の被爆者に謝罪しなければならない、核兵器は廃絶されるべきである、広島は非人道的な残虐行為の記念碑だ、日本はもう少しましな形で敗戦を迎えられたはずだ、といったうわべだけの言葉が多く聞かれるだろう。しかし、ファッセル氏が指摘した基本的なポイントが広く理解されるかは疑問だ。広島と長崎への原爆投下は単に戦争を終わらせた恐ろしい出来事ではなかったということだ。多くの人々の命も救ったのである。原爆は大日本帝国を平和主義者の国に変えたのだ。
筆者は8月3日の午後の大半をそうした活動家の1人で、平和のための「ヒロシマ通訳者グループ(HIP)」を運営する小倉桂子氏と過ごした。広島に原爆が落とされたとき、小倉氏は8歳になったばかりで、実家は爆心地から2.4キロしか離れていなかった。小倉氏は「竜巻のような」爆風、その爆風で割れて実家の壁や梁に突き刺さった無数のガラスの破片が不思議と「光ってきれいに」見えたこと、油っぽい黒い雨などを覚えているという。
そして市の中心地から、ひどい火傷や重傷を負った避難者たちが水を求めながら「幽霊の行列のように」やって来たことも。彼らは水を飲むとすぐに死んでしまったという。小倉氏の近親者たちは原爆の犠牲にならなかったが、家族がそのことについて話せるようになるまでには数年を要した。
広島と長崎への原爆投下は実際に起きた出来事なので、その惨状は否定できない。その一方で、本土上陸作戦は中止になったので、実行されていた場合の惨状を否定する声も多い。日本沖で原爆実験をしていれば、日本国民はそれに驚いて降伏していただろうか。日本を降伏に追い込んだのは、長崎への原爆投下よりも、その日に始まったソ連軍による満州侵攻だったのか。本土上陸作戦が実行されていた場合の犠牲者数は、本当に2つの原爆の犠牲者数(25万人近いという説もある)を上回っていたのだろうか。
われわれには知る由もない。わかっているのは米国が沖縄を制圧するのにさえ、82日間の戦闘と1万4000の米兵の犠牲を要したということである。日本が降伏したからこそ、本土が侵攻された場合には数千人の捕虜を処刑せよという命令が実行されなかったということ、日本の敗戦がすでに濃厚となっていた最後の数週間でさえ、連合軍は週7000人というペースで犠牲者を出していたということもわかっている。
沖縄を守るために日本軍がほぼ最後の1人まで戦ったということ、数百人の民間人が捕虜になることよりも自殺を選んだということもわかっている。本土を守るのに、日本国民はそこまで必死にならなかったはずだと言い切れるだろうか。われわれにはその確証を得る術がない。
ファッセル氏はこう書いている。「過去を理解するには、現在のことを知らない自分になり切る必要がある。事後の悟りの一切を排除して自分の脈拍にそのプレッシャーを感じなければならない」。歴史的な審判は、結果のみならず、選択肢にも考慮して下される必要がある。当時のトルーマン米大統領が週7000人の犠牲者を出し続けることを選び、原爆投下を回避していたら、味方の命よりも敵の命を思いやっていたら、われわれの大統領に対する評価は高まっていただろうか。
そうした状況下で2つの原爆が投下され、日本は敗れた。完全な敗戦である。軍事力に物を言わせて主張を通す傾向がある文化がなくなった現代の日本は、その完敗にも恩恵があったということを証明している。現代の広島は大惨事に直面した人間の回復力を証明している。確かなモラルや強い復讐への渇望でさえも寛大さへの障害にならないことを理解した米国の証でもある。そうしたことはある意味、寛大さの前提条件なのだ。
広島はあまりにも長きにわたり、ある種の左翼政治、暗黙の反米主義に塩漬けされた退屈な反戦主義と関連付けられてきた。これは残念なことだ。米軍が勝利という言葉を禁止し、米国の大統領が軍事力の行使を信じず、米国民が犯してもいない罪に罪悪感に苛まれている今日、われわれは広島の歴史から教訓を得るべきだろう。
広島の夜の明かりを見れば、その文化の穏やかさに気付くことだろう。原爆が投下されたことを神に感謝しよう。
(筆者のブレット・スティーブンスはWSJ論説室の副委員長)
http://jp.wsj.com/articles/SB10685294686418064255204581155343159278736
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