世界的に最も信用力があるとされているイギリスのBBCは日本国の靖国神社を『戦争神社』だと報道しているのだが、亀井静香は『靖国神社は長州神社である』と主張している。
亀井静香のいっているように、確かに靖国神社の実体は困ったことに、長州(山口県)の氏神様程度で、日本人が拝む『日本国の神様』としては不適当。あまりにも政治利用がひどすぎるのである。
そして長州閥(安倍晋三等自民党政府)の政治利用が目に余るのは靖国以上に『天皇』であることは論を待たない。
亀井静香が喝破したように、まさに『玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とした』天皇の政治利用を長年続けている。
『靖国神社にもの申す 西郷ら賊軍もお祀りせよ!』2013年8月24日亀井静香
『靖国神社は長州だけの神社ではない』
『靖国神社には毎年参拝しているが、それは対外戦争で命を落とされた方への感謝と慰霊の心からだ。
しかし靖国神社そのものには、問題がある。それは参拝の是非やA級戦犯合祀などではなく、もっと根本的なものだ。』
『明治維新以来の日本政治の問題点が、靖国神社の歴史に凝縮されている。』
『そもそも、明治4年に東京招魂社として設立されて以来、靖国神社はお国のために命を落としてきた方々の霊を慰めるための施設だ。』
『お国のために戦った人間に差別などない。』
『しかし実際には、靖国神社には戊辰戦争で賊軍とされた会津藩はじめ奥羽列藩同盟の人々や彰義隊、西南の役を戦った西郷隆盛などは祀られていない。』
『勝てば官軍、負ければ賊軍だが、結果はどうであれ、どちらも国を想う尊皇の心ゆえに戦ったことに変わりはない。』
『大御心に照らせば、敵味方に関係なく、国を想う、尊皇の心を持ち、命を落としていった人々はすべてお祀りするべきだ。』
『結局、靖国神社は明治新政府内の権力闘争をそのまま反映した施設になっている。』『つまり、官軍である長州藩中心の慰霊施設、いわば長州神社というべきものだ。』
『大鳥居を入るとすぐに長州藩の大村益次郎像が立っているが、彼は彰義隊が立てこもった上野の山を睨みつけている。これが長州神社という性格をよく表している。』
『長州閥は天皇陛下を利用し、時に「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸と」しつつ、自らの権力を拡大していき、その帰結として先の敗戦があるとも言えるのだ。』
昔は日本軍(陸軍)を主力とする長州閥だったが、今は安倍自民党が引き継いでいる。そして、現在の天皇の政治利用の象徴的な行事とは、明治の絶対天皇制の帝国議会から続いている国会『開会式』であることは間違いない。
(マスコミが誰も報じない国会『開会式』の議事堂正面玄関に整列する全国会議員の不思議な映像)
『共産党出席で大きくマスコミに報道された国会「開会式」の裏事情』
1月4日、新年早々に国会の『開会式』が参議院で、衆議院議長が主宰して衆参の全国会議員が参加して開かれるが、今年は長年欠席していた日本共産党が参加したのでマスコミで大きく取上げられている。
何故参議院本会議場で開会式が開かれるかですが、参議院は貴族院の議場をそのまま引き継いだため帝国議会の時代の玉座が壊されずに残されている。(衆議院本会議場の議長席の後は何も無く扉になっている)
『開会式』には衆議院議員と参議院議員が参議院本会議場に一様に集まるが、席が足りないため、入りきらない議員は立席(立ち見)の場合もある。傍聴席となっている2階席まで使用する。(国会『開会式』は、主権者である国民が傍聴することはできない仕組みになっている)
1月4日の産経ニュースでは、『共産党が国会開会式に出席 なんと69年ぶり 天皇陛下に起立→頭垂れる』とのタイトルで、
『共産党の志位和夫委員長ら同党幹部が4日、天皇陛下をお迎えして開かれた通常国会の開会式に出席した。同党議員の開会式出席は昭和22年の第1回国会以来。これまでは天皇陛下のご臨席などを理由に開会式に出席していなかった。
志位氏や山下芳生書記局長らは開会式が開かれた参院本会議場の後方の座席に横並びになって着席。天皇陛下が議場に入られると起立し、開会のおことばを述べられている間は頭を下げて聞き入り、他党の議員と同様の対応をとった。』と報じている。
『マスコミが怖がって誰も報じなかった国会正門前の全議員総出の「お出迎え」と「お見送り」する北朝鮮も真っ青の珍光景』
国会『開会式』の前後には衆議院議員と参議院議員の全員が国会議事堂の正門前に整列して、最敬礼して天皇の『お出迎え』と『お見送り』をするのが帝国議会時代の恒例となっていたが、主権在民の民主国家である日本国と、それとは180度正反対の絶対君主制の大日本帝国との区別がつかない安倍晋三などの『ネトウヨ・B層・反知性』は現在でも続けていた。
今までの共産党が開会式の天皇臨席は憲法違反であるとして参加しなかったのは余りにも当然だったのである。何の不思議もない。
全議員が最敬礼して天皇の『お出迎え』と『お見送り』をする帝国議会時代の慣例が、主権在民の民主国家であるはずの日本国でも続いている驚くべき事実は、元電通で日本のゲッペルス宣伝相と揶揄されている世耕 弘成と、『ネトウヨ・B層・反知性』の代表である西村信吾の二人だけが世間に対して公にしているのは興味深い。
ただし、ウェブ上の文章(活字)だけで映像の類(写真)が何処にもない。(世耕や西村らは『天皇送迎写真の公開は危ない』と良く承知しているのである)
『志村建世のブログ』 2016年01月05日 『国会の開会式と国会散歩』で、『・・・天皇を迎えるときは、全議員が正門わきに整列するということで、かなり絵になる光景だと思うのだが、これがニュース映像になったのを見たことはない』の記述に興味をひかれ、探したら見つけたのが『松本純の国会奮戦記2012-10』代議士会/院内第24控室のスナップ写真の中にあった北朝鮮も真っ青な2枚の当該写真。こんな時にはインターネットは本当に便利である。
(松本議員のエピソードとしてWikipedia は2014年の第186回国会において、大臣、副大臣、政務官、補佐官、議長、副議長、委員長のいずれの要職にもついていなかったのみならず、質問、議員立法、質問主意書提出のいずれもなかったことが指摘された)
自民党のお馬鹿議員のサイト上で見つけた異様すぎる『写真』ですが、これでは善良な一般大衆向けのテレビや新聞などの普通のメディアが怖がって報道しないのは当然でしょう。不思議なのは共産党機関紙『赤旗』で、こんな美味しいもの(丸っきりの自殺点)が目の前に転がっているのに報道しないのは解せません。
もしも自民党の時代錯誤の恥ずかしい失点(奇怪で破廉恥な自業自得のオウンゴール)を『知らなかった』とすれば無能すぎるし、知っていて『報道しなかった』とすれば異様すぎる。いずれにしろ『タブーに挑戦しない』(なるべく喧嘩せずみんなと仲良くしたい)今の赤旗編集部ですが、残念ながら共産党機関紙としては失格である。
「混沌堂主人雑記(旧題)」で知った「逝きし世の面影」記事で、これは過去記事の引用部分である。
宗純氏は右にも左にも嘲笑的な態度で論評をするのでその立ち位置が分かりにくいし、文章も韜晦的であるので、なかなか理解が難しいのだが、「天皇制」には反対であるようだ。そして、現在の「象徴天皇制」にも反対でありながら、日本国憲法は守るべきだ、という意見のようなので、分かりにくい。「逝きし世の面影」をブログタイトルにしているのだから、日本の過去の時代の美点を称揚しているのだろうが、日本の歴史の中心にあった天皇は否定する、ということだろうか。
私などは明確に「明治以降の『天皇君主制』には反対だが、現在の『象徴天皇制』は江戸以前の天皇の伝統的な在り方に近く、伝統尊重主義者として天皇を尊重する」と考えている。
で、下の記事の国会議員が天皇を「お迎えする」写真だが、これは天皇が「日本国民の統合の象徴」である以上、当たり前であり、国会議員は「日本国民全体の象徴」に頭を下げているのである。そうでなければ、つまり、議員たちが天皇に敬意を表さないならば「日本の権力の最上位に国会があり、国会議員たちは国民に圧倒的に優越する」のが当然、ということになる。これは、「三権分立」の最上位に「立法」があるということの当然の帰結であり、「代議制民主主義」の根本的矛盾だ。ルソーが言う、「大衆は選挙の時だけ主権者で、選挙が終われば奴隷に戻る」である。
私は「象徴天皇制」はその矛盾を止揚する優れた政治システムで、日本という国にだけ可能な貴重なものだと思っている。ついでに言えば「代議制民主主義」は選挙を操作する人間によって権力が握られるシステムでもあり、世界に真の民主主義国家は存在しないのではないか、と私は疑っている。「選挙では選べない人間」が国民全体の象徴として適切であり、それが権威として権力と対峙する(権力の抑止力となる。あるいはいざと言う時の安全装置になる)システムが賢明である所以だ。
(以下引用)
宗純氏は右にも左にも嘲笑的な態度で論評をするのでその立ち位置が分かりにくいし、文章も韜晦的であるので、なかなか理解が難しいのだが、「天皇制」には反対であるようだ。そして、現在の「象徴天皇制」にも反対でありながら、日本国憲法は守るべきだ、という意見のようなので、分かりにくい。「逝きし世の面影」をブログタイトルにしているのだから、日本の過去の時代の美点を称揚しているのだろうが、日本の歴史の中心にあった天皇は否定する、ということだろうか。
私などは明確に「明治以降の『天皇君主制』には反対だが、現在の『象徴天皇制』は江戸以前の天皇の伝統的な在り方に近く、伝統尊重主義者として天皇を尊重する」と考えている。
で、下の記事の国会議員が天皇を「お迎えする」写真だが、これは天皇が「日本国民の統合の象徴」である以上、当たり前であり、国会議員は「日本国民全体の象徴」に頭を下げているのである。そうでなければ、つまり、議員たちが天皇に敬意を表さないならば「日本の権力の最上位に国会があり、国会議員たちは国民に圧倒的に優越する」のが当然、ということになる。これは、「三権分立」の最上位に「立法」があるということの当然の帰結であり、「代議制民主主義」の根本的矛盾だ。ルソーが言う、「大衆は選挙の時だけ主権者で、選挙が終われば奴隷に戻る」である。
私は「象徴天皇制」はその矛盾を止揚する優れた政治システムで、日本という国にだけ可能な貴重なものだと思っている。ついでに言えば「代議制民主主義」は選挙を操作する人間によって権力が握られるシステムでもあり、世界に真の民主主義国家は存在しないのではないか、と私は疑っている。「選挙では選べない人間」が国民全体の象徴として適切であり、それが権威として権力と対峙する(権力の抑止力となる。あるいはいざと言う時の安全装置になる)システムが賢明である所以だ。
(以下引用)
PR
コメント