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徽宗皇帝のブログ

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「特攻隊」と「コロナ自粛」の共通点
「現代ビジネス」著名記事(つまり、書き手が誰か明確な、責任を持った記事)の冒頭部分を転載。もちろん、この記事に完全に同意しての転載だ。
「自粛」の「要請」という語義矛盾については小田嶋師ほか何人かの人が言っているが、その二つの言葉の強引な結びつき(つまり、論理の無視)の結果、政府は起こった事態に何一つ責任は取らない、というシステムになっている。つまり、これは「意図的な政治戦略」なのである。「自粛要請と休業補償は一体でなければならない」という当たり前のことを共産党などが政府に申し入れているが、政府は無視し続けており、「補償」ではなく、「給付」つまり、政府から国民への「お恵み」だ、ということにしているわけだ。これも、「政府には補償責任はない」ということを含意させる、悪辣な意図だろう。

「自粛」と「要請」が矛盾する、という単純な論理すら考えようともしない国民が政府に簡単に操られるのは当然だろう。言葉を軽視する国民は論理を放棄し、感覚や感情やエゴイズムだけで行動するようになるのは論理的必然なのである。

(以下引用)



このままでは、コロナ自粛は「国民が勝手にやったこと」にされてしまう

政治の「責任」はどこにいったのか

「お前たちの志願である」

太平洋戦争時、神風特別攻撃隊の志願者を募るとき、玉井浅一中佐はこう言った。


「お前たちは誰より可愛い。だから一番可愛いお前たちを日本の歴史に其の名を載せて、悠久の神として祭ってやりたいのだ。この気持ちをわかって欲しい。ただし、これは命令ではない。あくまでもお前たちの志願である」(神立尚紀、大島隆之『零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争』講談社)


すべては「志願」だった。命令は存在しない。志願である。だから、上官の責任は存在しない。特攻隊員は志願し、死んでいった、とされる。

実際のところ特攻が志願だったのか命令だったのかという論争は脇に置くが、少なくとも当時の軍隊に置いてそれが「志願」と扱われていたことは事実だろう。


この構図を現代に当てはめるとどうなるか。


新型コロナウイルスでは「自粛要請」が行われているが、残念ながら多くの識者が指摘する通り、十分な補償が行われていない。「自粛」を「要請」するという矛盾した言葉遣いに現れているとおり、「飲食店は勝手に休業しているから補償は必要がない」ことされてしまうのだ。勝手に自粛しているのだから補償は必要ない。勝手に休んでいるのだから、生活を支援する必要はない。みんなそれぞれ「自分の意志で」休んでほしい。

〔PHOTO〕Gettyimages

政治が責任を負わず、国民・市民の行動は「志願」と読み替えられてこの国は回っている。


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