残念ながら、「国家」の中ではトラシュマコスは自説の展開の中で自己矛盾を重ね、議論的には敗北する(これは作者プラトンの恣意的操作だと思う。)が、私は「正義の実態」という点では彼の説が否定されたとは思わない。そして、その「実態」をいかに理想に近づけて、その理想を実現するかが政治学の最終的な課題だと思う。言うまでもないが、マルキシズムは資本主義を富者と貧者の闘争としただけで、かえって社会を悪化させたと思う。彼以前の「空想的社会主義」こそが、真の社会主義への道だったのである。
誰かが書いていたが、西洋の科学は未だに善と悪の区別すらできていない、というのは、科学というものの根本が善悪と無関係だからだが、その科学こそが今や人類を危機に陥れているのである。はたして科学は善悪と無関係と澄ましていていいのだろうか。また、社会を良化するのが使命のはずの政治こそが社会を悪化させているのである。日本でも米国でも英国でも欧州諸国でも政府というのは今や悪の巣窟ではないか。そこではまさに「正義とは強者の利益」でしかないのである。つまり、それが法(存在しても守られない)とモラル(上級国民には最初から存在しない)という手綱を無くした資本主義の当然の結果なのである。
プラトン[編集]
プラトンは、ソクラテス以前の自然哲学が抱いていた関心を離れて、人間および人間社会の正しさというものを体系的に論じた人物である。彼の正義概念は『国家』においてソクラテスの口を借りて論じられており、彼によれば正義とは、個人あるいは共同体の中で調和が完成されていることに他ならない。ここでプラトンは、正義には個人の正義と国家の正義があると述べているけれども、そのあり方は基本的に一致するとされる[3]。個人の正義と国家の正義という一見異なるように思われる正義が一致するのは、プラトンによれば、国家は究極的には個人の集合体であり、個人の性格に由来しない国家の性格というものは存在しないからである[4]。まず国家の正義について見ると、国家の正義とは、民衆、兵士そして支配者がそれぞれの職分を全うすることであると定義される[5]。つまり、生活に必要な物を生産する民衆、国家を守護する兵士そして全体の監督にあたる支配者が、各人に割り当てられた仕事を果たすこと全体を指すのが、国家の正義という概念である。そこでは、「自分のことをするだけで、余計な手だしをしないのが正義である」と言われる[6]。次に個人の正義について見ると、それは国家の正義の縮小版であると理解することができる(あるいは国家の正義が個人の正義の拡大版であると理解することができる)。すなわち、魂および身体を監督する支配者としての知恵、魂および身体を外敵から保護する勇気、そしてそれ以外の能力がお互いの役割を侵犯せずに調和のとれた形で自己の責務を果たす節制、これらの3つの徳が実現するとき、個人は全体として正義に適った存在となる[7]。このように、プラトンは、自己に相応しい仕事や職分を果たすことが正義であると考えており、アリストテレスの正義論のような単なる財産関係・懲罰関係を超えた人生観と結びついている点が特徴的である。
アリストテレス[編集]
アリストテレスはプラトンの弟子であったが、プラトンのイデア論を厳しく批判したのみならず、正義論についても師と袂を分かつことになった。アリストテレスは、正義という概念をまず広義における正義と狭義における正義とに区別して、広義における正義とは徳全般の別称であるとした。他方で、狭義の正義概念については、さらにこれを2つに区別した。狭義における第一の正義概念は、配分的正義と呼ばれ、「各人に各人のものを」という後世において格言となったものである。この正義は、報償であれ罰であれ各人が各人に相応しいものを受け取ることを要求する。そして、この受け取る量は、各人の相応しさに比例して増加減少するため、配分的正義は比例的計算に服する(例えば、2倍働いた人は給料を2倍受け取るべきである、という価値判断はこの配分的正義に属する)。第二の正義概念は、矯正的正義と呼ばれ、ある人が自己に相応しいものを奪われたとき、あるいは自己に相応しくないものを持っているときに適用される。ある人が自己に相応しいものを奪われるときとは、典型的には例えば窃盗による財産減少が考えられる。逆に、自己に相応しくないものを持っている人とは、盗人がこれに当たる。
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