最近、人から貰った山本七平の本を数冊連続的に読んでいるのだが、今読みかけの「日本人的発想と政治文化」(日本書籍)の中に、こういう一節がある。色字にして引用する。
ある小学校のあるクラスで、その一人を懲罰としてすっ裸にしてさらし者にした。そして教師は、クラスの多数決によってきまったのだから、完全に民主的・自治的な制裁であると言ったという。
この出来事は山本七平の他の本にも出て来るが、よほど印象に残った話なのだろう。そして山本七平は次のように書いている。
もちろんこれは「民主主義」そのものの責任ではない。(中略)民主主義ーーその発生の原点を探れば、それをヘレニズムに遡ろうとヘブライズムに遡ろうと、その基本にあるものは前者は「法(ノモス)」、後者は「律法(トーラー)」の絶対化の意識である。この二つは発想が違う(徽宗注:後者は宗教に基づいているということだろう。)が、いずれも「公示された法」を個人の上におき、個人または集団による恣意的処罰は絶対に許さないのがその原則である。
私は山本七平のこの言葉に非常な疑いを持つので、この一文を書き始め、書きながら考察しようと思っているわけだ。
先に、現段階での「当座の考え」を書いておけば、私はこの小学校での「リンチ」は、完全に民主的・自治的な制裁であったという教師の言葉に賛成している。その善悪は別問題だ。
つまり、山本氏が「民主主義」の条件としている「法の支配」は、必ずしも民主主義の根本条件ではなく、民衆がその「大多数の意思」で何かを決定するなら、それが民主主義であり、民主主義とは常にこのように「非道・残酷な決定」を下す可能性を持つものだ、というのが私の考えだ。法がその場を支配しているかどうかは、決定的条件ではなく、単に「民衆が決定する」ことだけが民主主義の条件である。それは「多数決」という欠陥だらけの方法でしか問題を最終的に決定できない。その欠陥を補うのが、「倫理」の存在であって、「法」の存在ではないだろう。つまり、法の支配は、法を知っている者がその場の決定者になるだけのことだ。そしてリンチの場(問題解決の場)で法や倫理が機能するかどうかは、「議論」の徹底性による。素人の議論の場で大多数を説得するには、その場の参加者に「倫理」があるかどうかが最大の条件だろう。「正しい言葉には従う」ということが最低限の倫理である。
つまり、民主主義の前提条件とは「法の支配」ではなく、「倫理の有無」と「議論の有無」だ、というのが私の考えである。(もちろん、「国家の骨格」としての民主主義は「法の支配」が大原則だが、この小学校の話も「民主主義」なのである。私は「広義の民主主義」の話をしている。)
はたして、この小学生たちに「倫理」があり、「議論」は徹底的に行われたか。私にはそうだとは思えない。
なぜなら、この「被告」は女子だったことが、他の山本氏の本の中に書かれており、クラスの中の馬鹿な男子が「すっ裸で教壇に立たせること」を罰として提案したら、クラスの男子たちは大喜びで賛成しただろうからだ。そして、女子たちがこの「被告」を救うための弁論をするかどうかは、その「被告」が女子の間で同情され連帯意識を持たせる存在だったかどうかにかかっている。仮に嫌われ者だったら、この「被告」は弁護人も無しに、この裁判で求刑され断罪されるしかないのである。
私が言いたいのは、「民主主義」とは、こういう危険性を持つ「恐怖のシステム」であることを知るべきだ、ということだ。だが、それであっても、民主主義以上の政治システムは存在しないとも思う。プラトンの「哲人支配」は、その「哲人」をいかにして探し出し、君主として立てるか、という問題がある。「寡頭支配」も、議会制民主主義と大差はないだろう。民主主義より「権力者集団」が有利になるだけだ。
まあ、まだ考察すべきことはあると思う(たとえば「倫理」の問題など。)が、とりあえず、この問題の考察はここまでとする。
ある小学校のあるクラスで、その一人を懲罰としてすっ裸にしてさらし者にした。そして教師は、クラスの多数決によってきまったのだから、完全に民主的・自治的な制裁であると言ったという。
この出来事は山本七平の他の本にも出て来るが、よほど印象に残った話なのだろう。そして山本七平は次のように書いている。
もちろんこれは「民主主義」そのものの責任ではない。(中略)民主主義ーーその発生の原点を探れば、それをヘレニズムに遡ろうとヘブライズムに遡ろうと、その基本にあるものは前者は「法(ノモス)」、後者は「律法(トーラー)」の絶対化の意識である。この二つは発想が違う(徽宗注:後者は宗教に基づいているということだろう。)が、いずれも「公示された法」を個人の上におき、個人または集団による恣意的処罰は絶対に許さないのがその原則である。
私は山本七平のこの言葉に非常な疑いを持つので、この一文を書き始め、書きながら考察しようと思っているわけだ。
先に、現段階での「当座の考え」を書いておけば、私はこの小学校での「リンチ」は、完全に民主的・自治的な制裁であったという教師の言葉に賛成している。その善悪は別問題だ。
つまり、山本氏が「民主主義」の条件としている「法の支配」は、必ずしも民主主義の根本条件ではなく、民衆がその「大多数の意思」で何かを決定するなら、それが民主主義であり、民主主義とは常にこのように「非道・残酷な決定」を下す可能性を持つものだ、というのが私の考えだ。法がその場を支配しているかどうかは、決定的条件ではなく、単に「民衆が決定する」ことだけが民主主義の条件である。それは「多数決」という欠陥だらけの方法でしか問題を最終的に決定できない。その欠陥を補うのが、「倫理」の存在であって、「法」の存在ではないだろう。つまり、法の支配は、法を知っている者がその場の決定者になるだけのことだ。そしてリンチの場(問題解決の場)で法や倫理が機能するかどうかは、「議論」の徹底性による。素人の議論の場で大多数を説得するには、その場の参加者に「倫理」があるかどうかが最大の条件だろう。「正しい言葉には従う」ということが最低限の倫理である。
つまり、民主主義の前提条件とは「法の支配」ではなく、「倫理の有無」と「議論の有無」だ、というのが私の考えである。(もちろん、「国家の骨格」としての民主主義は「法の支配」が大原則だが、この小学校の話も「民主主義」なのである。私は「広義の民主主義」の話をしている。)
はたして、この小学生たちに「倫理」があり、「議論」は徹底的に行われたか。私にはそうだとは思えない。
なぜなら、この「被告」は女子だったことが、他の山本氏の本の中に書かれており、クラスの中の馬鹿な男子が「すっ裸で教壇に立たせること」を罰として提案したら、クラスの男子たちは大喜びで賛成しただろうからだ。そして、女子たちがこの「被告」を救うための弁論をするかどうかは、その「被告」が女子の間で同情され連帯意識を持たせる存在だったかどうかにかかっている。仮に嫌われ者だったら、この「被告」は弁護人も無しに、この裁判で求刑され断罪されるしかないのである。
私が言いたいのは、「民主主義」とは、こういう危険性を持つ「恐怖のシステム」であることを知るべきだ、ということだ。だが、それであっても、民主主義以上の政治システムは存在しないとも思う。プラトンの「哲人支配」は、その「哲人」をいかにして探し出し、君主として立てるか、という問題がある。「寡頭支配」も、議会制民主主義と大差はないだろう。民主主義より「権力者集団」が有利になるだけだ。
まあ、まだ考察すべきことはあると思う(たとえば「倫理」の問題など。)が、とりあえず、この問題の考察はここまでとする。
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