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徽宗皇帝のブログ

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それがあんたたちの日々
私の大嫌いな池田信夫の小論だが、日本の学生運動史や左翼運動史の概観としてはコンパクトなので、内容の主観性はともかく、高校生レベルでも戦後の反体制運動の歴史が分かりやすく把握できる利点はあるかと思う。当時の学生運動の「スポーツ感覚」の指摘など、確かにそんな感じだったなあ、という部分もあり、まあ、少し眉に唾をつける感じで読めばいいかと思う。
できれば、革マルと中核の違いなども知りたいところだが、違いなど実はたいして無かったのではないかwww 少なくとも、味方同士が戦いあうという大馬鹿な運動をしてきた馬鹿たちの党派などにさほど意味があるとは思えない。

(以下「アゴラ」より引用)赤字部分は徽宗による強調(同感部分)。案外、赤字部分が多く、私は池田信夫の顔が大嫌いなのだが、考え方は似ているのだろうかwww 顔まで似ていたら絶望であるwww 資本主義が実は「無政府主義的」であるというのは卓見だと思う。新自由主義とは「小さな政府」を目指すもので、企業の営利活動を完全に野放しにする「法秩序の放棄」や「無道徳性」、つまり「無規範性」の点でまさに無政府主義に近いのである。企業や大資本家や外資に私物化された政府は無政府状態より悪質かもしれない。

 左翼はなぜ敗北したのか

 終戦直後の日本の知識人は、ほとんど左翼と同義といってもよいが、当時のアカデミズムの中心だった知識人の意見がまったく政治を変えることができず、既得権の擁護と対米追従しか政策のなかった自民党が戦後の歴史をつくったのはなぜだろうか。
 その最大の原因は、自民党が英米の保守党とは違って、良くも悪くもイデオロギーをもたないからだろう。それは特定の政治的主張のもとにあつまる結社というよりは、地元の面倒を見る政治家とその個人後援会の集合体であり、野党はこれに対抗できる集票基盤をもたない。
 この状況は、戦後70年たっても変わらないので、「平和憲法を守れ」とか「非武装中立」のような理念を対置しても、ほとんどの国民は関心をもたない。彼らの生活を改善する具体的な対案を左翼は出せなかったのだ。

全共闘運動というバブル

 学生運動は60年安保の敗北で勢いを失ったが、60年代後半の世界的なベトナム反戦運動と結びついて、学生運動が盛り上がった。それが各大学でできた全共闘(全学共闘会議)だが、これは全学連のような全国組織をもつわけではなく、自然発生的にできたノンセクト・ラディカルの集団だった。
 それは一種のバブルだったが、規模は世界的だった。フランスでは革命運動が政権を追い詰め、アメリカでも極左のマクガバンが大統領候補になった。当時は頭の悪い学生でも「反帝反スタ」とかいえば格好よく見えたので、「おれ意識高い」と見せるために、デモに行ったのだ。
炎上し煙を上げる大阪市大の時計塔に突入する機動隊員たち。隊員の多くは20代の若者だった=昭和44年10月4日、大阪市住吉区
 ノンセクト・ラディカルは、思想的にはマルクス主義とはいえない。当時、社会主義国の実態は学生にも知られるようになり、それが「地上の楽園」ではないことはわかっていた。60年安保のころは、それを「スターリニズム」と批判していたのだが、反スターリニズムを自称する党派も似たようなものだった。
 だから党派をきらう学生の集まった全共闘は、アナーキズムに近かった。それを支えたのは、ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)に始まった反戦運動の現状否定的な情熱だったが、全共闘が掲げた闘争の目的は学費値上げ反対といったプチブル的な要求ばかりで、何が実現すれば闘争に勝利したことになるのか、彼らにもわからなかった。
 ただ街頭デモで機動隊と闘うことには、スポーツのような快感があった。最盛期には、日比谷公会堂を埋め尽くす数千人の群衆が集まり、これだけいれば何かできるのではないかという気分もあった。しかし肝心の何をするのかが、はっきりしなかった。当初は「大学解体」というのが辛うじて全共闘運動の統一スローガンだったが、これも具体的に何をするのかは不明だった。
 60年安保のときと違うのは、貧しさがモチベーションになっていなかったことだ。それは当時もっとも熱心に読まれたマルクスのテキストが『経済学・哲学草稿』だったことでもわかる。ここで彼が論じたのは、労働者の疎外だった。それは世界的にマルクスの初期の文献が発掘されて研究が進んだという面もあったが、もっと大きいのは『資本論』でマルクスが予言した労働者の窮乏化という現象が起こらなかったことだ。
 戦後しばらくは日本も発展途上国に近い状況にあり、飢えと貧困を克服することが何よりも切実な欲求だった。資本主義は、限られた富を資本家が独占するシステムとして憎まれ、社会主義は「無政府主義的な」資本主義に代わって計画的に経済を運営することによってすべての人々を豊かにする経済システムだと考えられた。
 しかし60年代後半までには、そういう幻想も消えていた。労働者が不満をもったのは賃金ではなく、工場の単純労働で「疎外」されているという気分だった。これはヘーゲルやマルクスの「本質の対象化」という意味のEntfremdungとは違うのだが、世界的にそういうロマンティックな意味で使われるようになった。
 この時期にスターになったのがマルクーゼやハーバーマスなどのフランクフルト学派で、マルクーゼは資本主義を「寛容的抑圧」の体制と規定し、それに反逆する学生を支援した。彼らも既存の社会主義は批判しており、具体的な未来像を描いていたわけではないが、「資本主義も社会主義も人間疎外だ」という時代の気分には合致していた。
 しかしアナーキズムは、その定義によって組織として持続することがむずかしい。全共闘の中でも中核や革マルなどの党派が分派活動をやり、それに反発するノンセクトが離反して、1969年にピークを記録した全共闘運動は、5年もたたないうちに消滅した。
 私が大学に入ったのは、この学生運動の衰退期だった。キャンパスで白昼に殺人事件が起こり、犯行声明まで出ているのに、警察は家宅捜索もしなかった。公安は、明らかに極左が内ゲバで自滅するのを放置したのだ。彼らのねらい通り、内ゲバの激化とともに極左勢力は急速に衰退した。

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