投稿者 TORA 日時 2005 年 7 月 04 日 16:45:36: CP1Vgnax47n1s
株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu98.htm
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日本人は仏教徒なのになぜ先祖を拝むのか? 日本人が
信じている宗教は原初的祖霊信仰の「神道」なのである
2005年7月4日 月曜日
◆知ったかぶりの民主党・菅直人 中山善照 国際派日本人の情報ファイル
http://www.melma.com/mag/56/m00000256/
■菅直人の歴史観
菅直人は靖国神社を「明治以前は神道と仏教は混淆していた が、明治政府が廃仏毀釈を行い、靖国神社は国策によってできた『国家神道』であって、一般の神社と違う」と、いかにも知っ たかぶりを言い、これを前提に首相の参拝反対論を展開していた。おまけに何が言いたいのか、「廃仏毀釈して、仏教はどう なったんだ」と口走った。
■あまりに薄っぺら 菅直人の頭の中身
これは中高校生が教科書で習う表面的な歴史知識の域を出て いない。はからずも菅直人の歴史知識の頭の中身の薄っぺらさが暴露されてしまった。菅直人は、日本人でありながら、日本 人の宗教をまったく理解していない。こういう軽薄なリーダーを戴くから、民主党は政権がとれないのである。
■日本人は仏教徒なのになぜ先祖を拝むのか?
では菅直人に訊こう。 ライオンズやロータリーに、短期間ホームステイする交換留学生(ユースエキスチェンジ)という制度がある。あるクラブ が女子高校生をニュージーランドの家庭にホームステイさせた。ステイ先の家族が女子高校生に訊ねた。
「日本人は仏教徒なのになぜ先祖を拝むのか?」 この質問に女子高校生はまったく答えられなくて困惑したという。菅直人も答えられないだろう。ステイ先の家族はなかな かの知識階級を思わせる。仏教という宗教の本質を知っていなければこういう質問は出てこない。
■日本人は真の仏教徒ではない
菅直人よ、教授しておく。 おおかたの日本人はじつは真の仏教徒ではない。しかしそのことにまことに暢気ながら日本人自身が気づいていない。日本 国内だけで暮らすならこういったことは何の問題にもならない。 だが、いわゆる国際時代と言われるいま、こういったことを 外国人にきちんと説明できなければならない時代となった。日本人はいま誰もが「己自身を知る」ことを求められている。菅 直人は己自身を知らない。一般大衆ならいざ知らず、政党のリーダーとしては失格、薄っぺらすぎる。
■日本を形成する楯の糸は
国を織布にたとえてみよう。国を織りなす縦糸は歴史・伝統 といった時間軸である。これに対し、横糸は時代の思想、時代 の価値観、外来文化の影響といったものということになる。 じつは日本を形成している縦糸は「原始の糸」である。
それは「祖霊信仰」という糸である。西欧人はあるときから、 この縦糸を「創造神」という歴史時間を超越した糸に取り替えてしまったが、日本人はずっと太古からつづく祖霊信仰という 縦糸によって社会を織りなしている。そして、日本人の倫理道徳、社会形成はすべてここに発するのである。
日本人は、たぶん有史以前から今日に至るまでこの縦糸をまっ たく変化させていない。日本人は、世界の三大高等宗教と呼ばれる宗教の一つである仏教徒であるが、それは表面だけであっ て、日本人が信じている宗教は原初的祖霊信仰、すなわち広い意味での「神道」なのである。
■阿弥陀仏は西欧のゴッドと同じ
日本人は表面的には仏教徒である。宗派のうち、浄土真宗や 浄土宗など念仏系の信徒がもっとも多いが、この念仏系のご本尊は「阿弥陀如来」である。 阿弥陀仏はサンスクリット語で「ナーム・アミータ・ブッダ」の漢語当て字であり、その意味は、ナームは英語のネームに通 じて「名を唱える」ことであり、アミータは「量れない」という意味である。アは否定接頭辞でミータは英語のメーター、メ ジャー(量る)と語源を同じくする。「宇宙に普遍・量れない存在」が阿弥陀仏であり、これは西欧のゴッドとほとんど同じ 概念である。
しかしながら、日本人大衆は、毎朝仏壇に水と食物を供え、 灯明をあげ線香を焚いて拝んでいるが、それは宇宙の絶対的存 在である阿弥陀仏を拝んでいるのではない。ご先祖を拝んでい るのである。ご先祖の彼岸での幸せを願い、それを祈りを阿弥 陀如来に託しているにすぎない。以上のようなことは他宗派に おいても同じである。
■葬式仏教の正体
仏教受容によっても日本人の本質はまったく影響されなかっ た。いまでも平均的日本人は仏教の神髄や仏教哲学についてはひどくうとく、無関心でもある。 日本仏教は「葬式仏教」であるという批判がある。批判されても僧侶の方々は反論されにくかろうと思う。仏教哲学はおろ か、日常に活かす仏教の知識といったものすら僧侶から教えられることはまずない。だから日本仏教は葬式仏教であるとの批 判はあたっていると思う。
しかしながら、もっとよく観察してみると、信者すなわち平 均的日本人はそんなことを仏教に求めていないことがわかる。 じつは平均的日本人が仏教にもとめているものは、先祖のお祀 りなのである。日本人の信仰といえば先祖のお祀りにつきる。 仏教の根本は本来先祖のお祀りではない。
輪廻転生の肯定でもない。地獄と極楽の信仰でもない。そう いったものをまったく否定しているわけではないが、ともかく仏教の根本は祖霊信仰ではない。ところが日本人が興味をもつ ものは祖先のお祀りなのである。家々の仏壇に阿弥陀如来とか大日如来などの本尊が安置されているが、こういった本尊を拝 む日本人は皆無に近い。拝んでいるのはご先祖である。 「ホトケサマ」といえば死者のことでもある。お坊さんも葬 式と法事に忙しくて庶民を教導する時間などないだろう。これがいわゆる葬式仏教の正体である。
■神道に呑み込まれた仏教
言ってみれば、仏教は「広い意味での神道」に呑み込まれて いるのである。しかしながら、このことを大方の日本人自身が気づいていない。そして自分を仏教徒だとおもっている。だか ら、外国人に「日本人は仏教徒なのになぜ先祖を拝むの」と訊かれ、エッとおどろいてしまう。
■左翼思想に染まった菅直人
冒頭の女子高校生なら驚いてよい。そして、これを機会に自 分自身や周囲の人々の宗教心をよく観察し、宗教史をよく勉強 すればよい。だが、民主党の代表者・菅直人は左翼思想に染まっ ているから、素直に日本人自身を観察できないだろう。 「先祖は見えない世界からわれわれをじっと見ている。草場の 陰から見ている。祀りを欠かすとご先祖の罰があたる」いまで も日本人はこのように思っていて、毎日仏壇に食べ物と水を供 え、灯明と線香をあげて拝む。そしてこの行為が仏教であると 思いこんでいるにすぎない。
■大乗仏教の法衣はハンガーにぶら下げられたまま
ところがこういう祖霊崇拝の本質は仏教ではなく本来は原始 神道なのであった。仏教が入ってきて日本人は仏教思想の因果応報、極楽浄土などなどの概念を知ったが、それはそういう概 念の衣を身にはおった程度であって、日本人の本質的宗教観に何の変化もなかった。仏教という紗衣を通して神道という本体 が丸見えなのである。この世界はどのようなものかを説く哲学や悟りなどの大乗仏教の法衣はハンガーにぶらさげられたまま になっている。
■ラフかディオ・ハーンの観察
日本と日本人をよく観察した小泉八雲はその著「神国・日本 (Japan:An Attempt at Interpretation)1904年」の「仏教の 伝来」の項でそのことをつぎのように語っている。(概略) 仏教がほんとうに永久に変わらぬ変化を与えたのは、わずか に家庭における「祖先の祀りの形式」を変えたにすぎない。
しかも仏教に改宗した大部分の人たちも、改宗しながら同時 に昔からの神道の信仰を表明しつづけ祖先の礼拝を仏式にしたがって営みながら、神道の祭りを別に営んでいたのである。仏 教が日本文化にあたえた影響はじつに大きく、深く、多角的で数えきれぬものがある。
ただ不思議なのは、それほどの仏教が神道の息の根を永久に とどめ得なかったことにある。大乗仏教独特の教義、たとえば 涅槃の教義のごときものが一般に説かれたと思ったら、それは 大間違いである。(中略)こんにちでも大衆は涅槃という言葉 の意味などよく知ってはいない。
仏教は、神道をさらに押し広げ、細かく事分けて説くことに よって、つまりまったく新しく解釈することによって割り込もうと企てたのである。仏教は古い信仰(神道)を身ぐるみ承認 していたといってもよさそうである。
■歴史は先人の心情理解から
このような国民的信仰ベースがあったから、明治政府は神道 を国の代表宗教にしたのである。神道なら宗派の違いも超えられる。
菅直人よ、わかったか。明治維新は日本の国の原点に帰るル ネサンス運動でもあったから、神道に新たな光が当てられ、神仏が分離されたのは当然であった。だが明治政府は仏教を排斥 したわけではない。出したのは神仏分離令であり、廃仏毀釈をやったのは一部のはねあがり者にすぎない。
当時の先人たちには、西欧ナショナリズムや植民地主義に対 抗する意識があって、それが靖国神社に影響を及ぼしただろう。だが、それがどうした?あたりまえではないか。現代の価値観 でもって歴史を量るな。あんたの薄っぺらな頭の中身が丸見えになるだけだ。
菅直人よ、英国には「英国国教」があり、欧米諸国には「教 会税」があることぐらいご存じだろうな。靖国神社は日本が西欧と角をつき合わせた段階から、自然に、あるいは必然として できあがっていったものだ。GHQ命令によってそのポジションが解体させられたことに、日本人なら怒りの声をあげるべき なのである。
■無宗教慰霊とは聞いてあきれる
保守系の人の中にも、シナや朝鮮への政治的配慮から「無宗 教慰霊施設」をつくったらどうかとの声がある。バカも休み休み言え。「無宗教慰霊」という概念そのものが矛盾しているこ とになぜ気づかないのか。常識はどこに行ったのか。 心の底で英霊の怨念を畏れる日本人が、そんな無宗教施設にお参りす るはずがない。というより、無宗教慰霊施設を唱える者よ、英霊の怒りを怖れよ。
■世界の誇れる神道のおおらかさ
神道は教義をもたない。だから仏教徒であろうが、キリスト 者であろうが、靖国神社でそれぞれのやり方で祈ることができ る。お経をあげようが、賛美歌を歌おうが宮司に叱られること もない。
こんなおおらかな宗教が世界中のどこにあろうか。このおお らかさこそ日本文明の根幹をなすものであり、英霊を祀る靖国神社は太古の昔からのわれらの信仰を具現化したものなのであ る。
菅直人は、以上のような知識がなく、アメリカが押しつけた 極東軍事裁判史観と左翼史観に染められているから、頭の中身 がいつまでたっても薄っぺらなのである。民主党左派は非日本 人である。このような薄っぺらな頭の政党に絶対に政権は渡せ ない。
(私のコメント)
宗教問題となると私はよくわからないのですが、政治が絡んでくると問題にせざるを得なくなる。たとえばキリスト教一つとっても、アメリカにおけるキリスト教原理主義が政治に関与してくるようになったことを、イラク戦争がらみで論じた。その為にはキリスト教牧師のホームページを読んで見解を紹介した。だから宗教論争に入り込んでしまうと収拾が付かなくなる。
神道に関しても私は専門家では無いから、これまた専門家のホームページを紹介する程度で解説するような事は私の手に余る。しかしこれも中国や韓国からの首相の靖国参拝に対するクレームがつけられると政治問題化してくる。これらの問題の火付け役は国内にいる。その動機や目的はなんなのかは謎です。
もしこのクレームが東京裁判を裁いた連合国からついたのならよくわかる。絞首刑に処したA級戦犯を祀った神社に首相が参拝するということは、東京裁判の否定につながりかねないからだ。しかしクレームをつけてくるのはアメリカでもなくイギリスでもなくオランダでもない、交戦国ではなかった韓国や当時は国家としてなかった中国共産党だ。
東京裁判で7人も絞首刑にしてしまった以上、今さら間違っていましたともいえないし、連合国から見ても東京裁判は戦略的にまずかった。だから東京裁判以降で戦争を犯罪として裁く裁判は行われていないし、もしそんな裁判が行われればアメリカの大統領が一番裁かれなければならなくなる。
GHQが天皇制を残したのも、靖国神社を解体しなかったのも当時としては占領政策の都合によるものでしょうが、日本としては最悪の結果は免れた。それが面白く無いから中国や韓国はクレームをつけるのだ。中国や韓国は日本の天皇制や靖国神社を解体すれば日本が滅びる事をよく知っている。それと日本国内の反日勢力が手を組んだのだ。
◆八月十五日、靖国参拝に雨が降る。月刊「諸君!」2003年10月号掲載
http://nishimura.trycomp.net/works/005-1.html
小泉首相が就任前に自民党総裁選で公約していた終戦記念日の靖国参拝は、就任以来三度破られることになった。しかし、一方的に小泉首相を公約破りと非難できないのは、昭和六十年以来十六年間、橋本龍太郎氏を除き現職の首相九人が一度も靖国神社に足を踏み入れられなかったという異常事態に少なくとも楔を打ち込めたからである。小泉首相は年に一回は靖国参拝を行っている。終戦記念日の参拝は果たしていないが、現職首相の靖国神社参拝は、そういう意味で意外に高く評価できる行為なのである。(中略)
経済力を着実に付けてきた中国と九一年に国連加盟を果たした韓国が、靖国参拝を問題視して外交カードに使用してきた背景には、間違いなく日本の反日勢力の方針転換とリンクしていた。共産主義の末路を目にした日本の左翼勢力が時代遅れになった仮面を脱ぎ捨て、新たな <反日主義> とも言える仮面を装着することによって、新しい政治的な争点を急拵(きゅうごしら)えしたのだ。中国と韓国がその動きに呼応した結果、靖国神社は、従軍慰安婦、強制連行、教科書問題という捏造史観三点セットに、南京虐殺まで加えた外交カードに新たに挿入されたジョーカーになってしまった。そして、その動きを促進させたのが一部の日本メディアなのである。
(私のコメント)
一口に神道といってもいろいろ歴史的な展開や種類もあるのでしょうが、一時期のことを捉えて靖国神社を否定するのは間違いだろう。日本への仏教伝来よりもはるかに古くからの伝統があり、日本人の仏教も本来の仏教とはかなり違ったものであり、「仏教徒なのになぜ先祖を祀るのか」という疑問に答えられない人がほとんどだろう。
中国共産党による首相の靖国参拝批判は、唯物史観の共産主義から見れば当然なのですが、キリスト教の一部も同調しているからややこしくなる。しかし靖国神社を否定するようなキリスト教は日本で普及する事は無理だろう。普及するとすれば仏教のような形だけのものになるだろう。クリスマスや結婚式のキリスト教と変わりがない。
キリスト教にしても仏教にしても国が変わればいろいろ変化していく。いずれにしても歴史と伝統は大切にしていかなければならないし、神道もその上に立っている。靖国神社の神道の一部として大切にしなければ日本の背骨を否定する事になり精神的ダメージははかりしれないものとなるだろう。民主党の岡田代表や菅直人前代表は反日勢力と手を組むために靖国参拝を批判しているのだ。