今日は目ぼしいニュースが無いので、昔書いた文章を紹介する。
世界をどう解釈すればいいかに悩んでいる青少年への新年のプレゼントである。
「青少年のための世界解釈入門」
その1 パースペクティブとは何か
パースペクティブとは「遠近法」の意味だが、社会についての知識の少ない若者の頭の中にある世界像は、狂ったパースペクティブで描かれていると言える。学校で学ぶ偏った知識(たとえば政治や経済における現実の悪の存在については、学校教育ではすべて無視されている。)、マスコミから流れる偏った知識が、そうしたゆがみを作るわけである。現実の世界について正しいパースペクティブを得るためには、多くの書物を読んで(漫画やインターネットなどでもいい)、自分の頭で判断し、それらの情報の中から、自分で世界像を作っていくしかない。マスコミに流された情報よりも、「流されなかった情報」の方が大事である。目に見える情報よりも、目に見えない情報の方が大事である。インターネットの裏情報の中には、読む人の世界観そのものを変えるような物凄い情報もある。我々は、インターネットの存在によって、かろうじて真実の世界とつながっていると言ってもいい。ただし、マスコミ情報にくらべればましではあるが、インターネットの情報にも無数の嘘があるのは当然だから、自分の頭で考えて、合理的だと思われる情報だけを仕入れていけばいいのである。
こうした、メディアを読み取る能力をメディア・リテラシーと言う。情報はすべて加工されている、というのがメディア・リテラシーの基本だ。加工された情報にも意義はある。マスコミ情報も、スポンサーや行政にさしさわりの無い部分では本物の情報を流すのだから、それももちろん情報源にしていいのである。民放とNHKではどのように情報の加工の仕方が違うかを比べるのも面白いだろう。新聞に関しては、現在は、まっとうな体制批判(つまり、歯に衣着せずに真実を述べること)のできる大新聞は存在しない。かえって沖縄の新聞の方がましなくらいだが、新聞の欠点は、官庁関係のニュースはすべて官庁が流す情報をそのまま流すことである。これは「記者クラブ制」と言われている。官庁関係以外でも、自社の独自取材で記事を書いている新聞は滅多に無く、共同通信から手に入れた記事を掲載している場合が多い。つまり、共同通信という水源を押さえれば、情報操作をすることは簡単なのである。また、国際ニュースについても、新聞はほとんどロイターやUPIなどから一元的に流されるニュースをそのまま取り次いでいるだけである。したがって、その通信社の所有者である国際資本家や、その代理人の政治家に都合の悪いニュースは決して流れない。だから、たとえば、イスラム社会でシーア派とスンニ派が互いに争い、殺しあっている、というニュースが日常的に流されても、それが正しい情報かどうかはわからない。そうした情報を信じさせることで利益を得るのは、白人のキリスト教(あるいはユダヤ教)社会なのである。「自爆テロ」にしても、それがはたして本当にイスラム原理主義者によるものかどうかは分からない。そもそも、それが本当に自爆テロなのか、ただの爆撃や時限爆弾による爆破なのかは、一般人には確かめようがない。イスラム社会が破滅して誰が利益を得るのかを考えれば、そうしたニュースは疑ってかかるのが当然である。「イスラム教徒の内部抗争」で不利益を受けるのは、明らかにイスラム社会そのものなのだから。これは、かつての左翼運動が「内ゲバ」で内部崩壊したのと同じパターンである。では、誰が内部抗争をさせているのか? それとも内部抗争に見せかけているのか?
その2 世界の近代から現代まで
現代の我々に関係のある範囲で、近現代史をたどってみよう。年号やら地名など覚える必要はない。一つの推理小説として世界を読み、「どのような犯罪があったのか。犯人は誰か。犯行の動機は何か」を考えようというのである。
犯行の動機は常に同じである。「利益を得るため」だ。では、世界史の様々な事件の中で誰が利益を得たのか。答えは、現在巨万の金を持っている人間たちである。それがどういった人々かは言わないが、政治はそういう連中のための道具にすぎない。世界史を表面的な政治的事件としてだけ見ていては、世界史の「意味」はわからない。政治は経済界の一部の人間の為にある、というのが世界の真実である。これまで政治の動機とされてきた政治的イデオロギーは、上の人間が愚民を「分割して統治する」ための手段にすぎない。それでは、近現代史を概観してみよう。
まず、近代の最初に「帝国主義」の時代があった。帝国主義とは、簡単に言えば、「国を巨大な帝国にしていこう」という思想である。他国と戦争し、侵略し、領土を拡張し、他国の資源を奪い取ることが帝国主義である。要するに国家が強盗になることである。これは当時としてはけっして恥ずかしい思想ではなかった。どの国も、自分の国が大国になることを夢見ていたのである。だが、当時の人々は、国が大国になれば国民全員が豊かになると錯覚し、大国になる過程で庶民の多くが戦場に送られ、殺されるという認識がなかった。あるいは、それを運命としてあきらめていた。実際には、戦争成金になった人間もいる中で、殺され損の無数の庶民がいたのであった。「千金の子は市に死せず」とは永遠の真実である。戦争で死ぬのは、兵士になるしかない貧しい庶民や、徴兵制で強制的に兵士にさせられた庶民だけである。大富豪の子弟が戦場に行った例は滅多にない。同じ軍人でも、大将軍などは危険な最前線には行かない。ベトナム戦争で死んだ米国の将軍はたった一人である。
現在の目で見れば、帝国主義は強盗の思想だが、帝国主義の巨頭であるセシル・ローズなどは、当時は偉人扱いされていたのである。つまり、「野蛮な」土人たちを打ち負かして、英国の領土を広げた立派な人であり、その行動は後進の国々が見習うべき行動とされたのである。これが当時の意識である。
18、19世紀から20世紀初頭までが「表向きの」帝国主義の時代であると言える。「表向きの」という理由は、実は現在のアメリカの行動は形を変えた(つまり、領土ではなく資源を奪うことが中心の)帝国主義だからである。
20世紀初頭までに西欧諸国は、アジアとアフリカの大半を植民地化した。遅れて文明国の仲間入りした日本も、この分捕り合戦に加わろうとして、朝鮮を併合し、台湾を領土とした。もっとも、それで国が豊かになったわけではない。単に領土を拡張しただけでは、実は国は豊かにならないのである。貧しい国を併合しても、領土が増えるだけで、利益は無い。国が豊かになるには、農工商すべての産業を盛んにするしかないのである。
もともとの貧しさに加えて日清・日露両戦争の出費でほとんど破産に近い状態になり、第一次世界大戦の軍需景気で一息ついた日本であるが、世界大恐慌で大きく打撃を受けた。特に農村部の困窮は悲惨そのものであった。そこで、今度は満州を分捕り、あわよくば中国(清)をも分捕ろうとして始めたのが支那事変(日中戦争)である。
一方、第一次世界大戦で敗れたドイツは、戦後の賠償の巨額さにあえぎ苦しみ、国民はその状況を変える可能性のある指導者としてヒトラーを選んだ。(ヒトラーが民主主義的手続きで総統になったことを理由として民主主義を批判する言論人がよくいるが、ヒトラーは暴力と威嚇と巧みな宣伝で政権を手に入れたと言うべきである。正しい情報が国民に与えられていないところでは、民主主義は機能しない。)
日本はドイツ・イタリアと同盟を結んでいたため、ヨーロッパ戦線に加わったアメリカとも戦うことになった。アメリカとの戦争が必至の状況で、日本は「卑劣な」真珠湾攻撃を行い、それまでは参戦に消極的だったアメリカ国民を戦争賛成で団結させてしまった。今ではほぼ常識に近いが、これはすでに真珠湾攻撃の暗号を読み取っていたアメリカ政府が、参戦の口実を作るために「先に殴らせた」のである。緒戦の不意打ちによる勝利以外には、国力に圧倒的な差がある日本がアメリカに勝てるわけはなく、日本は惨敗した。戦争末期には沖縄が本土防衛の捨石とされ、日本のお偉方たちは、安全な場所を求めて東京から長野県の山中に大本営を移そうとしていたこと(松代大本営)は覚えておいたほうがいい。国家の指導者というのは、そんな人間が多いのである。日本の敗北が確定してからも、日本政府が日本の国体(天皇制のシステム)をそのまま守ろうとして、降伏勧告を受け入れなかったために、広島・長崎の原爆の悲劇を招いたことも記憶すべきである。単に日本を原爆の被害者と考えている人が多いだろうが。つまり、当時の国家指導者は、何よりもまず日本国民に対する罪があるのである。その国家指導者たちの中には、戦後まで生き延び、政権中枢に返り咲いた連中も沢山いる。今の政治家の親や祖父にも沢山いるだろう。つまり、戦争で敗れても、必ずしも指導者全員が処罰されるのではなく、占領国の占領政策に都合のいい政治家や官僚は、そのまま残されるのである。
第二次世界大戦で日本・ドイツ・イタリアは敗北し、アメリカ・イギリス・ソ連・中国が勝利した。(他の群小国家は省く)その中でソ連は、日本との同盟を破って、戦争末期に突然参戦し、日本に大きな被害を与えたため、日本の保守派言論人の中には、ソ連を蛇蝎のごとく嫌う人が多いが、戦争に道義などあるものではない。信じるべきではない相手を信じた日本の政治家が馬鹿だっただけの話だ。そうした人々は、現在も日本の中に無数の米軍基地があり、アメリカに反抗できない状態が戦後60年を過ぎても続いていることをどう思うのか。
以上が第二次世界大戦あたりまでの近代史である。つまり、根本的には大国どうしが、領土と資源を争って喧嘩をしていただけである。もちろん、それ以外にも、戦争そのものも一つの「産業」である、ということもある。膨大な消耗をする軍隊という存在に、国民がすべての富を注ぎ込むのが、戦争である。その軍隊に物品を納入する商人や軍需産業にとっては、戦争は儲けのための一大イベントなのである。つまり、国民の大部分の懐から、わずかな一部分の人間の懐に巨額の金が流れ込むシステムであることが、戦争の本質だ。他国の富の獲得は、二次的三次的なものにすぎない。戦争に勝とうが負けようが、それで儲ける人間たちがいるのである。
第二次世界大戦後には、世界史に別の要素が出てくる。それは「資本主義」と「共産主義」の争いである。「社会主義」はこの両者の中間で、資本主義国家が社会主義的政策をとることもある。世界大恐慌の時のルーズベルトのニューディール政策は、社会主義的政策だと言える。狭義の社会主義は、生産手段を国有化することで、全国民に平等な福祉を与えようという思想である。広義には、自由主義経済を統制して、社会全体の経済活動を制御していくのが社会主義である。(自由主義経済とは、私流に言えば、「金のためには何をやってもいい」という思想である。政治は、放っておけば富裕者のための政治になっていくものだから、自由主義経済は、「自由」という言葉は美しいが、モラルを喪失した経済になるのが普通である。東洋のあらゆる「仁政」は、社会主義的であった。)
「共産主義」は、私有財産を否定する思想で、社会の上層にいる資本家にとっては、絶対に許せない思想である。そこで、彼らは共産主義がいかに悪辣な思想であり、共産主義者がいかに残忍な悪党であるかという宣伝(これには、とくにハリウッド映画が使われた。だから、まずハリウッドの中のマルクス主義者たちを「アカ狩り」によって追放した。)を繰り返し、全世界に「アカ」に対する嫌悪感を植えつけた。その一方で、ソ連のスターリンは大粛清などの非人間的行為によって、資本主義国家の宣伝を自ら裏付けたのである。
こうした資本主義国家と共産主義国家の対立を「冷戦」と言う。いつ戦争状態になるか分からない、という状態が、ソ連の崩壊する1990年頃まで続いたのである。実際に戦争はしなくても、いつ戦争になるかわからないから、軍備は絶えず増強され、戦いもしない軍隊も存続を許された。つまり、世界の軍隊と軍需産業にとっては幸福な時代であった。
しかし、ソ連の崩壊によって、資本主義国家の指導者や支配者たちは、新たな敵の創出を迫られることになった。敵もいないのに大きな軍隊を持つわけにはいかないからだ。そこで彼らがこしらえた芝居が9.11事件である。つまり、冷戦の代わりに「テロとの戦争」という名目が作られ、その口実のために世界貿易センタービルが破壊され、何千人もの人間が殺されたのである。(政治の裏側にいる権力者による同国人の虐殺である。)そして、「愛国者法」によって政府批判の言論を封じ、テロをバックアップしているという名目で、アフガニスタンとイラクが攻撃され、何万人もの、テロと無関係な庶民が殺された。ついでに言うと、かつての日本はアラブ社会では非常に好意を持たれていたが、アメリカに同調してイラク戦争に協力したため、当然ながら、今では評判は最悪である。
以上が、学校では教えない近現代史である。事件そのものは学校でも教えるが、事件の意味は教えない。権力者による不合理な、穴だらけの説明が、マスコミで何度も繰り返され、いつのまにかそれが真実として扱われる。ナチスの宣伝相のゲッペルス曰く、「嘘も百回繰り返せば真実になる」。これは現代の政治家たちの信条でもある。
「金のある人間は、より多くの金を欲しがる」これが、世界を動かす原理である。欲の無い庶民は、わざわざ人を殺してまで金儲けをしようとは思わない。他人の命を自分の欲望のために犠牲にできる人間が世界史を作るのである。
世界を見る最大のポイントは、「言葉ではなく、行動を見よ」ということだ。口ではいくらでもきれいごとが言える。これが世界を正しく見ることを困難にしている。「愛国者法」とは、実は国民弾圧法であり、「人権擁護法」とは実は人権抑圧法である。「障害者自立支援法」とは、実は「障害者の面倒は見ません」法であり、「共謀罪」とは、「罪を犯さなくても逮捕できます」法である。こうした、名目と内容の不一致が、官僚の得意技である。9.11事件以後にアメリカのしたことに対する口実は、あきれるほどお粗末なもので、そんな口実を信じている人間のほうが世界の少数派だろうが、「力は正義なり」ということで、今のアメリカに表立って反対できる人間は少ない。だが、はたしてそれがいつまでも通用するかどうかである。
その3 分割して統治せよ
現代世界を見るポイントの一つが宗教的対立と民族問題である。前章を読んだ人ならもうおわかりのように、これもまた人為的に作られてきたものだろう。なぜなら、それを利益とする人々がいるからである。対立とは、人々が複数のグループに分かれて争うことだ。その対立がなぜ別の人間の利益になるのか。それを示すのが「分割して統治せよ」という言葉である。
政治には「上からの政治」と「下からの政治」がある。かつては「上からの政治」しかなかったが、現代では「民主主義」という「下からの政治」があるとされている。これは「現代の神話」というべきである。昔も今も、政治には上からの政治しかない。民主主義という「下からの政治」は、いまだ実現されていない理想なのである。
愚かな大衆をいかにして支配していくか、というのが為政者の永遠のテーマである。その最大の発見が、ローマ帝国の、帝国支配の原理であった「分割して統治せよ」という政治技術である。
ローマ帝国は、異民族を征服し、それを支配下において巨大な帝国を作ってきた。しかし、それらの被支配民族は、常に帝国の圧制を逃れ、打倒しようと狙っている。そこで、「分割して統治」するのである。つまり、被支配民族の間に複数の政治勢力を作り、その間で対立させる。そうすれば、彼らのエネルギーは、支配者を打倒するよりも、対立する同じ民族の「敵」に向けられるのである。イギリスがその植民地のインドを手放した時も、同じ手法が使われた。インドはインドとパキスタンの二つに分裂させられたのである。そして、互いの中に仕込まれた工作員がテロ活動を起こすことで、互いに憎悪しあうようにさせられた。(現在のイスラム社会の「自爆テロ」も、おそらくそれと同じだろう。)アメリカが日本を独立させたときも、似たようなものだ。表向きは独立させながら、裏ではアメリカの援助で自*党が作られ、常にアメリカの意向を聞く集団が政治の主導権を握るようにしたのである。さらに、野党にも常に資金援助をする。また、野党の中に保守寄りの政党を作り、互いに争わせる。そうすれば、日本国内の政治は反米思想でまとまることはけっしてない。学生運動においても、日本の財界から援助を受けた一派が、運動を分裂させたのである。もちろん、その指示はアメリカから出たものだろう。こうして、権力の敵となるグループは、常に権力の手で分割され、統治されるのである。
かつて植民地であった国々で、もとの宗主国から政治的に完全に独立している国は実際には無い、と思われる。彼らは、自分たちで直接支配する代わりに、現地人を代理人として陰の支配を継続しているのである。もちろん、日本も同じだ。日本は植民地にはならなかったが、第二次世界大戦の敗戦で占領され、アメリカの属国となった。実は水面下ではそれが現在も続いているのである。その証拠が、「年次計画要望書」と呼ばれるもので、アメリカ政府から日本政府に与えられたこの指令どおりに日本の政策は決定されている。国会での議論は表向きの芝居にすぎないのである。たとえば、この「要望書」で実現した一連の「民営化」は、アメリカ資本が日本の資産を安く手に入れるためのものである。
そうはいっても、現実にアメリカという軍事大国に軍事力で対抗できない以上、アメリカの命令に従うしかないだろう、というのも現実的判断ではある。喧嘩で勝てない相手に喧嘩を挑むのは愚かではあろう。だから、とりあえずは、政治の世界の嘘とまことを見抜く目を持つことである。そうした人間が増えれば、いつかはそれが現実的な力を持つかもしれない。
さて、この章の冒頭に書いた、宗教問題と民族問題である。これが現代の社会での「分裂」の最大の要因であることを考えれば、やはりそこには、ある国民や民族が統一的な力を持つことを妨げようという意志が働いていると見るのが合理的だろう。特に、イスラム教は、「公正」と「喜捨」、「神の前の平等」を重視する宗教であり、資本主義国家の支配層からは非常に都合が悪い宗教である。「利子取得は不公正である」とする考えもイスラム教にはあるため、金融業を主な財産獲得手段とする大財閥にとっては、イスラム教の広がりは見過ごしにはできない。そこで、全世界的にイスラム教のイメージを悪化させるキャンペーンが行われている。それが毎日のように目にする「イスラム原理主義者によるテロ事件」の真実だろう。何より、これだけテロ事件が起きながら、その犯人がほとんど逮捕されていないというのは、これがCIAなどによる工作であることを示している。(アルカイダの指導者とされているウサマ・ビン・ラディンは、もともとCIAの工作員であった。)たまに逮捕されるテロ犯人も、冤罪か、芝居だろう。しかし、21世紀に入ってからの「テロとの戦争」に関しては、真実を隠すための工作が非常に粗雑なものになっており、素人でもインターネットで調べれば、ブッシュ政権がいかに大嘘をつき続けてきたかが分かるのである。その一例が9.11事件だ。
その4 9.11の真実
9.11事件の背後にアメリカ政府がいる、というのは、最も単純な事実から判断できる。それは、このハイジャックが複数の飛行機で同時に行われたことである。飛行機の搭乗の際のチェックは厳しい。それが、4.5機の飛行機で同時に成功するというのは、考えられないことである。これは、アメリカ政府のコントロールのもとでのみ行えることだろう。しかも、実行犯が当局の発表通りにアラブ人であれば、アメリカはもともと非白人への警戒心の強い社会であるから、チェックも厳しいはずだ。さらに、ハイジャックの武器として、金属製品は持ち込めなかったはずだから、武器にはプラスチックのナイフが使われたとされている。その程度の武器で、多数の乗客を制圧できるはずはないだろう。つまり、墜落した飛行機の乗客たちは、本当は墜落するまでハイジャックに気がついていなかったのである。おそらく、飛行機に遠隔操縦の自動操縦装置が組み込まれていたのだろう。飛行機がビルに衝突することをあらかじめ知っていた人間が、あの見事なビデオ撮影を行ったのである。
そのほかにも、たとえばビルディングの崩壊の仕方が明らかに内部爆薬によるビル解体の際の崩落の仕方であったこと、飛行機の衝突以前に、すでにビルの内部から噴煙が出ていることなど、さまざまな証拠によって、9.11事件の真相は、ある種公然の秘密となっている。
では、9.11事件は何のために起こされたか。それは、ブッシュ大統領が、この事件の直後に、これをテロ組織の仕業とし、「テロとの戦争」を宣言し、アメリカの決定に従わない国はアメリカの敵と見なすと言った、その演説が示している。繰り返しになるが、冷戦が終わった後、アメリカは軍隊の処置に困っていた。敵がいなければ、軍隊など無用の長物であり、しかも(政府にとって)残念なことに、アメリカ本国を攻撃できるほどの国家はもはやない。そこで、誰かが考えたのがイスラム諸国との戦いである。しかし、イスラム教であるというだけでイスラム諸国を攻撃することはできないので、イスラム教をテロ組織と結びつける案が出てきたのである。そのヒントが、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」だった。あるいは、早くから米政府の内意を受けて、この本が書かれたのかもしれない。
9.11の直後からブッシュの頭にイスラム諸国との戦いが頭にあったのは、彼が9.11事件直後の演説の中で何度か「十字軍」という言葉を使ったことにも示されている。最初から念頭にあったのは、テロ組織などではなく、イスラム諸国だったのである。
以上の説を信じるかどうかは各自の勝手だ。マスコミ報道と、この説とどちらが合理的か。私の判断の基準はそれしかない。なぜなら、情報はすべて加工されたものなのだから。
その5 軍産複合体
世界政治において、戦争は一つの産業である。それは失業救済の産業であり、軍需産業の存在理由である。特にアメリカでは膨大な軍事予算が組まれているため、その金額を減らすことには大きな抵抗がある。テロ組織は、集団とはいっても軍隊ではないのだから、テロ組織を相手の戦争というのは、本来はありえない。テロ対策は警察の守備範囲だろう。ところが、テロを相手の戦争のはずが、アフガニスタンやイラクといった国家を相手の戦争にすりかえられたために、9.11事件の犯人捜査は途中で放り出されたままである。つまり、アメリカ政府としては、9.11事件の捜査をしてもらってはむしろ困るということだ。9.11事件は、あくまでもアメリカが戦争をするための口実にすぎないのである。その目的は、軍隊の維持と、軍需産業の保護である。軍隊と軍需産業はほとんど一体化しているため、これを軍産複合体と言う。これは、政治における戦争の意味を明確に表す言葉だから、覚えておくほうがいい。
軍需産業が利幅の大きい産業であるのは、その購入先が国家だからである。武器の適正価格の基準は存在しない。軍需産業の言い値で国家は買い取るものである。だから、ほとんど戦争で役に立たない時代遅れの戦車や戦闘機に何億円という金が支払われるのである。特に、日本の武器購入は、アメリカの言いなりであり、アメリカを相手には戦争ができないレベルの旧式の武器を高価な値段で買わされている。現在でも実は日本は予算的には軍事大国の一つなのだが、戦争遂行能力は無い、と見るべきだろう。
その6 現在につながる歴史
歴史はもともと西欧では文学の一ジャンルであった。これは歴史を見る場合の基本姿勢として、現在でも有効だろう。歴史を学問と考えるからそのすべてが真実であるかのように錯覚する。もともと言葉で事実を正確に表すこと自体、不可能に近い。まして、部外者には知りえない歴史的事件を、なぜ学者たちはそれが事実であったかのように書くのか。
歴史とは、6割の事実と、2割の捏造と、2割の誤解と考えるのがいい。特に、捏造された2割に目を向けるべきである。そうした注意深ささえあれば、歴史ほど我々にとって有益な「学問」は無い。それは嘘を通して真実をも教えるのである。そういう意味では、歴史小説と、歴史の教科書との間に大きな開きは無い。我々は「自分にとっての真実」を探せばいいのである。それが、現在につながる歴史である。