"『組織悪』についてのメモ"カテゴリーの記事一覧
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いずれ書くかもしれない「組織悪」について、今朝の睡眠覚醒時の浮遊思考を書いておく。
そのポイントは、「武家社会の組織悪」で、内容をおおまかに言うと、「人を死に向かわせる方法論としての武士道」であり、「常に帯刀することの意味」であり、「御恩と奉公の非対称性」である。最後のものは、「武士における奉公とは、死を甘受することである」ということで、これが「武士道」の本質だ、ということである。その象徴が武士の帯刀だ。もちろん、これは『葉隠』で「武士道とは死ぬことと見つけたり」と夙(つと)に道破されているが、山本常朝がこのテーゼを完全に肯定的に言っているのに対し、私は「日本人の奴隷根性」の起源のひとつとして批判的に考察するつもりだ。
と同時に、この考察は自国の軍隊によって帝国が崩壊したローマ帝国(前の戦争の時の日本も同じだ。)にも通じる、「政府崩壊のパターン」の考察にもなるだろう。つまり、「軍事集団を核とする政権(政府)は自己崩壊する」というテーゼが、徳川幕府の崩壊から見られるのではないか。それは当然、軍隊とは生産組織ではなく、庶民からの富の移転(収奪)がその生存基盤だからだ。
これは軍隊だけに限らず、「社会上位集団が自分たちの利益だけのために社会からの搾取を行っている国家は腐敗し弱体化する」と言い換えれば、すべての国家に言えることである。
つまり、これは「組織悪」の根本思想であり、その「組織」は有形で名前を持つ組織には限定されないということだ。
たとえば「武家」とか「貴族」とかは一般的には組織とは見做されないが、その階級を階級と意識し、その利益を最優先とする意思がある以上、それは一種の組織なのである。一見、個人としてしか行動し、思考していないように見える人間(そう思っている人間)も、実は常に「階級の利益」を最優先させている。公務員は公務員階級の存続と利益を最優先し、医者は医者の、学者は学者の階級の利益を最優先させる。これが「見えない組織」である。見えない組織には無言のルールと無言の威嚇があり、いわゆる「ポジショントーク」は、そこから生まれる。PR -
「組織悪」がなぜ生じるかと言うと、組織設立の当初の目的がいかに人道的であり正義にかなっていても、いったん組織が出来上がると、その最大の優先ポイントが「組織防衛」になるからである。EUなどもその例。国家という組織も同じ。「国家を守る」という名目で、歴史上のほとんどの戦争は行なわれた。だが、実際には「国家」ではなく、「上級国民」(の利益)を守るのが本当の理由だったのは言うまでもない。会社も同様であり、株主の利益、会社役員や経営陣の利益を守るのが最優先課題となり、モラルは無視される。(少し古いが「豊田商事事件」などはその露骨な例だろう。)官僚の最優先事項が公務員(特に高級官僚)の生活防衛であることはよく知られている。311以降の日本破壊(特に政治破壊)は、「原子力村」という無形の組織を守るのが最優先事項となったのが最大の理由である。(「無形の組織」という概念は考察の価値あり、か)
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【論じるためのキーワード(基本思想など)のみメモ。】
無責任な立場であってこそ「自由な言動ができる」「真実が言える」ということ。(無署名ブログでの発言など)
「天皇無責任論(無答責論)」は、実は天皇の機能を(善悪両面で)最大限に発揮するものかもしれない、という仮説。
「日本無責任時代」の植木等がいた時こそが日本が最大に輝いた時代であったこと。「責任」論が日本を委縮させ、衰退させたこと。
(他人の責任追及に厳しく、自分自身の責任からは逃げる「気軽な人道主義者」たち)
「ポジションの圧力」とは「責任」と呼ばれるものであること。それは度し難い恐怖と罰を伴うこと。
政財官界の上級国民は「責任」から常に逃れること。その体制が完璧に作られていること。 -
いずれ、書けたら書きたいな、と思っている、私の組織論である『組織悪』についてのメモを少しずつ書いていこうかと思っている。私は自分のブログをメモ代わりにも使っているからだ。ノートなどに書くと、なぜかあまり発展していかないのだ。ブログなどに残しておけば、案外と見直すことも多く、そこからまた考えが発展したりする。
第一に、「ポジション」の持つ「否応なしの強制力」のこと。
これは、ジョージ・オーウェルがその自伝的エッセイ「象を撃つ」の中で書いている出来事らしいが、彼が警官としてビルマに赴任した時、民間人が飼っている象が発作的に暴れ出し、警官の出動が要請された。彼が現場に行った時には象の発作は治まっていたが、周りにいるビルマ人たちは、彼が象を撃ち殺すことを期待して眺めていることを彼はひしひしと感じたのである。そして、彼が象を撃たないと「白人の威厳が損なわれる」ことを彼は直観し、そして逡巡した後、象を撃った。
「二千もの群集の意思が、いやおうなく私を前に押し出すことを私は感じた。東洋における白人の支配の空しさ、虚ろさを私がはじめて理解したのはまさしくこの瞬間、こうしてライフルを手に立っていたときだった。銃を持って武器なぞない原住民群衆の前面に立つ白人、それが私だった。まるで舞台の主役のように見える。しかし現実にはその逆だ。私は後からついてきた黄色い顔たちの意志によって、前後左右思うままあやつられる人形にすぎない。この瞬間に私はわかったのだった。白人が専制者と化すとき、彼が破壊するのは実は自分自身の自由なのだと。」(「帝国主義の解剖学」第2章より)
ここには、示唆的なことが幾つかあるが、そのひとつは「ポジション自体の強制力」であり、それはそのポジションにいる人間の人格も良心も超えた力をしばしば持ち、しかもその強制力は必ずしも「上から」のものばかりでなく下からの圧力もあるということである。
なお、ここで私は「ポジション」という言葉を使い、「地位」とか「役職」とかは書いていない。それらすべてを包含するのが「ポジション」という言葉で、日本語で言えば「守備位置」、つまり、まさに野球用語としてのポジションである。それは「攻撃担当」の面も無いではないが、「自分が守備するテリトリー」というのが組織論での「ポジション」の適正な用法になるかと思う。「攻撃」はむしろ「プロジェクトチーム(当面の優先問題解決チーム)」が担うだろう。
ポジションは、そこを守る個人の「人格も良心も超えた強制力を持つ」ことがしばしばある、というのが私が言いたいことだ。いわゆる「ポジショントーク」という言葉(概念)は、それを明確化してくれた貴重な言葉だと思う。
なお、上記引用文の赤字部分は、ここでは深く論じないが、帝国主義論を超えて、より一般的な組織論としても妥当する、とだけ言っておく。地位(ポジション)は、どんな高位のポジションでもそのポジションに就く人間の自由(自由意志)と人格を破壊する、ということだ。