"メモ日記「生活」"カテゴリーの記事一覧
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#280 不適切な訳語
私は、物を書くのが好きなわりには、知識が不正確で、その上面倒くさがりだから、ろくに知らない事でも調べないままで書いてしまう性癖がある。だから、書いたものを公の場で提出することがやりにくい。まあ、私の場合は、書くことで思考の整理をすればそれでいい、というだけだから、書いたものが永遠に埋もれても、それで文句はない。ただ、自分の不正確な知識が、自分だけのせいではないという場合は、少々問題だとも思う。それは、同じような誤解がそのまま社会に流通する可能性が高いからである。
具体的に言うと、エリオットの「客観的相関物」という言葉である。私は、これを、作者がある漠然とした心情や思想を作品として形成する際に、それを具体的な事物の形で表現することだと思っていた。たとえば、「寂しさ」をそのまま「淋しい」という心情語で表現するのではなく、「青い空を漂う雲」のような具体的事物で表現することであろうと。だが、これはその原語が「objective correlative」であることを知らなかったためである。もしもこの原語を知っていたら、「correlative」から「correct」をすぐに連想し、これは「適切な対応物」とするべきだと判断でき、エリオットが「『ハムレット』は、主人公の感情に対応するobjective correlativeが無いから失敗作だ」と言った、その趣旨を、最初から分かっていただろう。(現代では、インターネットのおかげで、無知がすぐにばれるから怖いことだ。)PR -
#278 禅とは何か
禅宗はもちろん、仏教の一派だが、これは仏教の中で特異な地位を占めている。他の仏教が、釈迦の教えを理解することにその努力を傾けるのに対し、禅宗はそうした他者依存を何より嫌う。つまり、「悟る」ことが目的なのであり、そのために邪魔ならば、釈迦も仏も不要なのである。これが「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺せ」ということだ。言葉を変えれば、仏とは自分自身が成るものであり、外部に存在するものではない、ということである。「お前たちの肉体の中に『無位の真人』がいる。まだわからない者は、よく見よ、見よ」という臨済の言葉はそれを表している。
では、悟りとは何か。それは心が外部によって脅かされることがなく、いかなる状況でもどっしりと落ち着いたものとなることである。これを心の「性(本性)」と「相(姿)」が一致した状態と言う。我々は日常的に心が動揺した状態にある。だから、不意打ちの打撃に対応できない。禅問答における一見意味不明の応酬は、実は、相手に不意打ちを与え、相手の境地を見るためであり、それがそのまま修行なのである。それ以外に特別な修行などはなく、日常生活がすべて修行なのである。食事も排便も修行なのだ。「徒然草」に、集団生活の決まりに従わない我が儘な坊さんの話がでてくるが、兼好がそれを賞賛しているのは、それが禅的には高い境地の表れだからだろう。「随所に主となる」ことができる人間こそが、禅的に完成された人間なのである。(1月8日) -
#221 眠れる財宝
私はクラシック音楽や古いジャズ、ポップスが好きなのだが、無知と怠惰のために、それらに対する知識があまりにも少ない。しかし、それは世間の人間も同様で、古典音楽や古いジャズ、ポップスについての知識が無い人のほうが絶対的大多数だろう。実は、ここに膨大な宝の山についてのヒントがある。つまり、新しい才能を探すより眠った文化遺産の発掘をしてはどうかということだ。これは商売としても成立する話だ。
クラシックの場合だと、たとえばベートーベンの交響曲だと第五番の「運命」と、第九番の「合唱(付き)」、後は第六番の「田園」くらいがせいぜい演奏されるだけで、それら以上の名作である第七番はほとんど演奏される機会が無い。いや、四番も八番もそれなりの名作であるのだが、我々がそれを聞く機会そのものがほとんど無いのである。演奏会などで聞く曲目というと、いつも同じような曲である。たとえば、ボロディンの「ノクターン」など、名曲中の名曲であるが、演奏される機会は滅多に無い。名高いベートーベンやモーツァルトですら、その無数の作品の中で演奏される品目はほんのわずかなのだから、それ以外の作曲家の佳作の大半は実際に演奏さえされないままに埋もれているのである。なぜ、芸大などの演奏会で、積極的に無名作品を発掘して演奏しないのだろうか。それでは切符が売れない、と言うかもしれないが、こうしたことからクラシック復興の機運が盛り上がる可能性は高いのである。それは他のジャンルでも同様である。
注:この文章を書いたのはだいぶ前だが、その後、「のだめカンタービレ」の大ヒットで、ベートーベンの第七番は飛躍的に知名度を上げた。 -
#212 臨死体験の正体
臨死体験には洋の東西を問わず、共通点があって、そのため真実であると思っている人が多い。だが、死と生ははっきりと隔絶しているのであり、死んだ人がこの世に戻ってきた例は無い。あるのは、死の寸前まで行った人が戻ってきた例だけである。では、そういう人々の臨死体験とは何か。簡単に言えば、夢である。それも、夢であることが意識されている夢、つまり覚醒前の夢に近い夢だ。夢が、起きている間の現実の変形であることはフロイド以来、よく知られている(これを見事に表したのが、アニメの「銀河鉄道の夜」である。あの中の銀河鉄道の車輪の音は、昼間の印刷所の印刷機械の音で、それ以外にも様々な昼間の印象が形を変えて夢に現れている。)が、臨死体験では、自分が死にかかったことが分かっていて、自分で夢を作っているのである。自分が自分の夢を作っているという意識が、自分の死体を上空から見下ろす自分の魂というイメージとなり、また、西欧にも日本にも共通した「死んだ後で川を渡る」というイメージにもなるのである。しかし、そこで自分がまだ生きていることの意識が生じて、その合理化のために川の向こうで、以前に亡くなった親しい人間、祖父母や亡き両親が自分に「元の世界に帰れ」と忠告するわけである。つまり、臨死状態というのは一種の気絶状態であり、眠っているのである。手術などでの臨死状態なら、実際に麻酔で眠らされている場合もある。その浅い眠りの中で患者が作っているのが臨死体験なのである。浅い眠りだから、患者の周囲での人々の発言なども聞いており、それが臨死体験の中で語られる、それだけのことだ。 -
#181 市民としての想像力
現代の様々な社会的出来事、事件や事故を考えると、その多くが想像力の欠如と無知から来ているように思われる。現代の人間は、無数の情報にさらされており、一見、過去の時代の人々より知識が増えているように見えるが、実はその知識は自分の仕事に関する狭い知識と、テレビから得た芸能・娯楽の知識にすぎない。特に欠如しているのが、他人の内面を見抜くという姿勢である。現代人がいかに騙されやすいか、というのは、様々な詐欺事件や新興宗教に入る人々を見てもわかる。もちろん、騙すテクニックそのものも進歩しているのだが、それ以前に、現代の日本人は他人の悪意というものに対して無防備であり、自分を騙そうとしている人々の存在そのものを知らないのである。これを社会的想像力の衰退と言っていいだろう。昔の人間はこれほど容易には騙されなかったはずである。想像力の欠如は被害者だけのことではなく、犯罪の加害者も、自分がこういう行動をとれば、こういう結果になる、という想像が無いまま、粗暴な犯罪を行う例があまりに多い。特に、若い人々が家族や他人を殺傷する事件において、加害者は、犯罪の「その後」を想像しているとは思えないのである。そのたった一度の行為で、自分の一生をふいにするという覚悟があって犯罪に踏み切ったわけではけっしてないのである。ただ、かっとなって、衝動的に犯罪を行っただけなのだ。こういう想像力の欠如は、現代の社会全体にはびこっており、あるいはこれこそが日本社会のすべての問題の根底ではないかとも思われる。 -
#161 物の価値と人間の価値
価値ほど主観的なものは無い。特に美術品の価値など、見る人によって天と地ほどに違うものである。それを利用して、美術品は様々な「錬金術」に使われる。たとえば、織田信長が茶道に凝ったのは、実は茶道具の「価値」が主観的なものであることを利用して、手柄を立てた部下への褒美とするためだったという。つまり、土地には限りがあるから、部下への褒美として領土を与えていたらいつかは追いつかなくなる。そこで、茶道具を領土以上に価値があるものだと思わせて、部下を操る道具にしたわけである。白人が土人にガラス玉をくれて貴重な物産を手に入れたようなものだ。
現代でも、美術品の価値があいまいであることを利用して、政治家への賄賂にすることが行われるという。税務署に対してはあまり価値が無いように見せながら、大金が必要な時は、いつでも金に替えられるわけである。
物質として見た場合の人間の原価は1ドル程度だと言われている。それを利用したショートストーリーがあって、神様が貧しい若者に、1ドル分の願いを叶えようと言う。若者はがっかりするが、翌朝目覚めると、その枕もとに、若者が憧れていた女性が座っていたという話だ。というわけで、人間の価値は金には換算できないのであり、それを金に替えようとするから、「お前たちの値段は1銭5厘(赤紙の郵送代)だ」などという人間蔑視の思想が出てくるのである。 -
#141 可哀想な生徒たち
私が不審でならないのは、大学レベルでの科学の研究内容は結構面白そうであるのに、中学や高校での理科はなぜあんなにもつまらないのか、ということである。いっそのこと、大学の授業に中高生を連れていけば、案外と科学に興味を持つのではないだろうか。中高生の理科離れを嘆く前に、理科離れをして当然の教育内容を再検討するべきではないか。これはもちろん、社会科も同じである。中高生にとって、理科社会科は嫌悪の対象以外の何物でもない。ただ、丸暗記の得意な生徒の中には、理科や社会科を得意科目としている生徒もいて、そうした生徒は自分ができるから、だいたいはその科目が「好き」でもある。しかし、客観的に見るなら、現在の中学高校における理科や社会科が子供にとって面白いはずはない。だが、理科や社会科は、ある意味では主要3教科以上に大事な科目なのである。理科は、我々の住むこの世界についての知識を与え、社会科はもちろん、この社会の知識を与える。どちらも、大事な知識である。一生、一言も喋らない可能性のある英語や、現実人生ではまず使うはずのない数学の勉強よりも大事なくらいである。しかし、問題は、それが子供にとってはまったく「面白くない」ことである。ならば、理科や社会科の内容をがらりと変えて、子供が興味を持ちそうなトピックだけを教えればいいではないか。理科や社会科の目的は、将来、理科や社会科の教師や大学教授になる人間を作ることではない。しかし、現在の学校教科書は、まるでその前提で作っているかのようである。 -
#131 不幸の循環
私は理科が苦手な人間で、中学の理科でさえも理解できない。中学1年生の娘の学校の宿題で、「被子植物と裸子植物の違いを説明しなさい」と言われても、さっぱりわからず、父親としての権威も面目も失う有様だ。だが、言い訳に聞こえるかもしれないが、自分が中学1年生の時に感じたのは、なぜそんなことを自分が覚えなければならないのか、という疑問であった。将来、生物学者、植物学者になるならともかく、被子植物と裸子植物の違いを知ることが自分にとってどんな意味があるのか、さっぱりわからなかったのである。もちろん、高校に受かるためにそれが必要だとは知っていたが、まったく興味の無い植物の分類やら形態やらを覚えることには多大な苦痛を覚えたものである。だから、試験が終わると同時にそんな知識はさっさと頭から追い出してしまった。それが、実はほとんどの中学生の実態ではないだろうか。まあ、成長して理科の教師になるような人間は、そうした理科の内容に興味を持てたのかもしれないが、いったいどこをどうすれば被子植物と裸子植物の相違に興味が持てるのか知りたいものだ。で、理科の教科書や参考書は、「理科が苦痛でなかった人間」が書いたものばかりだから、どの参考書も子供にとっては面白くもなんともない、読むのが苦痛になるだけの本ばかりなのである。これは理科だけの問題ではない。社会科にしても、子供がけっして興味を持つはずのない内容を、読み、覚えることを子供に強要するだけだ。これは子供の最大の不幸である。 -
#114 英語的国民性
記念写真を撮る時、昔なら「はい、チーズ」と言って撮ったもので、フーテンの寅さんが、間違えて「バター」などと言うギャグがあったりしたが、今は「1+1は?」と聞いて「ニー(2)」と答えさせたりする。これはもちろん、「チーズ」も「ニー」も「イ」の音を出す口の形が、笑う時の口の形であるからだが、では、英語国民はこのような場合、何と言うのだろうか。
昔、「笑っていいとも」に、あるアメリカの女優(ジェイミー・リー・カーチスという女優だ)が出演したことがあったが、その女優はインスタントカメラを持参していて、舞台を写真に撮ろうとする観客を逆に記念撮影した。その行為自体のユーモアにも感心したが、その時、彼女が言った言葉が忘れられない。彼女は、観客席にカメラを向けて何と言ったのか? それは「スマイル!」という命令だったのである。なるほど、相手の笑った顔を写すのだから、「笑え!」と命令するのは理にかなっているが、何と言う端的な発言だろう。日本人の持って回ったようなやり方にくらべて、大雑把というか、ストレートというか、……。しかし、これが英語国民の国民性ではないかと思うのである。目的を達するための最短距離は何かと考え、それを実行する。その際に、相手がどう思うかなどは考慮する必要はない。なぜなら、相手は自分ではないのだから、いくらこちらがどう配慮しようが、その反応は予測と一致するとは限らない。相手が不快感を表明したら、その時点で交渉し、調整すればいい、というのが、英語的国民性だと私は思っている。こうした国民は、ビジネスの世界では確かに成功しやすいと思われるが、友人にはあまりなりたくないものだ。 -
#85 納戸の骸骨
英語のことわざの中には面白いものがいくつかあるが、私の好きなのは、「どの家庭の納戸にも必ず骸骨が一つはある」という奴だ。納戸ではなく、押入れとでも訳すべきかもしれないが。要するに、どの家庭にも、家庭内暴力とか、娘の売春とか、幼児虐待とかいった、世間には言えない秘密が一つ二つはあるということだ。最近では、本物の骸骨を隠した家庭も日本では多いようだが。
家庭というものは、社会の最小単位である。ということは、そこはすでに社会なのだ。そこで対人関係の軋轢があるのは当然で、犯罪のかなりの割合は、家族に対する犯罪なのである。しかも、その犯罪は外部の目には触れにくいだけに、いっそう不気味なものになる。フロイトは、「不気味なもの」という論文の中で、ドイツ語のハイムリッヒ(慣れ親しんだ)が、しばしばその対義語のアンハイムリッヒ(不気味な、なじめない)と同じ意味に用いられることに着目しているが、家庭というものは、その中に居る人間にとっては確かに慣れ親しんだ場所である。だが、その家庭の外部にいる人間からは、しばしば不気味な、なじめないものになるものだ。誰しも、新しい知人の家に初めて行った時の居心地の悪さは経験があるだろう。そこは、自分の知らないルールや習慣で物事が動いている異世界なのである。だから、そんな場所でうっかり納戸や物置の戸を開けてはならない。そこには骸骨があったりするのである。