"メモ日記「生活」"カテゴリーの記事一覧
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#79 宝石・ガラス玉・水の雫
私は、晴れた日も好きだが、雨の日も曇りの日も好きだ。大雨や台風は少々困るが、そんな日でも室内にいる限りは何も問題無い。「故郷の山に向かいて言うことなし」と啄木は歌ったが、「自然に向かって言うことなし」で、自然はすべて素晴らしい。空を見上げるだけで、誰にでも天然の名画が鑑賞できるのだから、何も大画家の絵を高い金を出して買うまでもない。いや、草の上に載っている一滴の露に、日光がきらめいて虹を作るのを見れば、その一滴の露は数億円のダイヤモンドにも勝ると思うのである。ダイヤよりもガラス玉のほうが美しいこともあり、一滴の水が美しいこともあるのである。
おそらく、私は、独房に閉じ込められても、独房の窓から眺められる小さな世界や風景、夜空や朝焼けを眺めて満足できると思う。このように金のかからない人間だから、私に金が無いのも当然と言えば当然だろう。ディッケンズがうまいことを言っていたが、その正確な表現は忘れたので、意味だけを散文的に書くと、「給料の範囲内で生活ができれば、それが幸福であり、生活できなければ、それが不幸なのである」。
さらに、蛇足的に言うなら、現代の人間の不幸の大半は、将来の不幸を先取りして悩む、妄想的不幸である。つまり、仕事を首になったらどうしよう、病気になったらどうしよう、年を取って体が利かなくなったらどうしよう、とあれこれ悩むのだが、そんな悩みは、不幸が起こってから悩めば十分であり、そのために現在まで台無しにするのは愚かだろう。PR -
#76 金銭の価値
世の中で、金の欲しくない人間はほとんどいないと思うが、なぜ金が必要なのかというと、それは金があなたに自由を与えるからである。何よりも精神の自由を。金の欠如は、精神の自由さえ奪うものなのである。我々は自分の財布の範囲でしか物を考えられないものだ。財布の中身が1万円の人間の思考は、半径500メートル程度、その辺のコンビニエンスで売っている物のレベルで終わる。財布の中身が1億円なら、日本全体が視野に納まるだろう。1兆円なら、地球全体が。官僚や政治家がまがりなりにも広い視野が持てるとしたら、それは彼らが国民の金を自由に使えるからだ。(使っていい、というわけではない。)
金が無くても想像を働かせて、広い視野を持つことは可能だ。マイク・ロイコか誰かのジョークだが、「私は亭主関白である。子供の進学とか、自動車や冷蔵庫や家の購入といった些事はすべて家内が決める。私は次の大統領を誰にすべきか、とかいうことを考える」といった感じで。(私もその一人で、家内は、私が稼ぐ金の使途について勝手に自分で決めている。私の裁量権は、私の頭脳の中の事だけだ。)しかし、金銭的限界という常識があなたの思考にストップをかけ、物を見えなくする。
だから、金は必要だ。それは、金に縛られないために必要なのである。しかし、残念なことに、そういう人間のところに金が来る気遣いは、決してない。 -
#51 役に立つ知識とは (注 真面目な意見です)
私の父親は、私が生まれたころはもうかなりな年齢で、子供への興味を無くしていたらしく、父親と話した記憶は少ないが、父親から学んだ知識で、今でも役に立っている知識がある。(学校で学んだ知識のほとんどはまったく役に立っていないのだが。)それは何かというと、麺類を噛んで食べる必要はない、ということである。それまでの私は麺類を食べるのが苦手で、数本の麺を口の中で噛んでいるうちに麺が口一杯になり、それ以上食う気も無くなるのが常だった。ある時、父親と外食したら、私がソバを食べにくそうにしているのを見て、麺類は噛まずに飲み込んでいいのだ、と教えてくれたのである。
これは、コペルニクス的転回であった。私は、飲物以外で、丸呑みしていい食べ物があるということを初めて知ったのであった。で、おそるおそる麺を噛まずに飲み込んでみた。ソバで窒息するということはなく、私は無事に食事を終えた。それも、いつもの半分以下の時間で、ソバにうんざりすることもなく、である。
それが中学生のころか、もしかしたら高校生のころだから、それまで私はいつもソバなどを食うのにいつも口の中でくちゃくちゃやっていたわけである。なぜなら、誰もソバの食い方を教えてくれなかったから。
人生で、二次方程式を使う機会は、おそらくほとんどない。しかし、ソバを食う機会は無数にある。ところが、それを教えてくれる人はほとんどいないのだ。そこで、今でも日本のあちこちでソバをくちゃくちゃやっている子供が無数にいるのである。 -
#41 生活の技術
我々が学校で教わることの9割は、試験に受かって就職する役には立つが、生きる上では無駄な知識である。医学や法学のように、学んだ知識自体がそのまま仕事に役立つ場合もあるにはあるが、しかし、それはむしろ例外に属する。
私がもしもう一度学び直すなら、自分をコントロールする技術を学びたい。たとえば、私は、夫婦喧嘩をした時、仲直りする能力や技術が無い。自分が間違っていれば、謝るのは簡単だが、相手が間違っているのに謝るというのは、私には死んでもできないことだ。いや、相手が包丁片手に脅したら、案外簡単に謝るかもしれないが、意識としては「死んでもいやだ」である。相手もこちらも謝らないのだから、家庭内冷戦が続く。
理性的には、いつまでも冷たい戦争をしているよりは、理を曲げてでもこちらから謝るほうがいい、とは分かっている。しかし、感情がそれを許さない。
つまり、我々は(あるいは、私だけか?)、自分の感情に逆らう行為は不可能なのである。身体的行為であれ何であれ、我々は自分が思う通りには行動できない。学ぶことでそれが可能になるのなら、ぜひもう一度学校をやり直したいものであるが、残念ながら、学校ではそれを教えてくれない。
私が学校を作るなら、そのカリキュラムには絶対に「嘘をつく技術」と「演技」を入れたいものである。それこそが、あらゆる人に必要な「生活の技術」だから。