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徽宗皇帝のブログ

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資本主義世界のロシア憎悪の底流と背景
「deeply japan」ブログがしばしば指摘している、ソ連軍によるユダヤ人強制収容所の解放の記事である。つまり、ポーランドはナチス支配下だったとはいえ、ドイツと同一歩調をとって、ユダヤ人虐待国家だったわけだ。
ヨーロッパ戦線への米国参加はドイツの敗北が決定的となった後の、「火事場泥棒」行為に近いと私は見ている。その「収容所解放」すら火事場泥棒的「演技」だろう。
現在のウクライナ戦争でのロシアとの対決姿勢の強いドイツとポーランドがかつてのナチス国家だったのは示唆的だ。ウクライナもナチス政権である。つまり、ナチズムというのは現在も世界政治の伏流なのである。その本質が西洋優越主義であることは何度か書いたが、「ロシアはアジアである」という意識が常に反ロシア主義の中にあると思う。と同時に、ソ連の末裔であるロシアは「社会主義」の匂いがすることがDSの気に入らないのだろう。つまり「資本家の敵」と見るわけだ。

(以下引用)



戦争末期に強制収容所の囚人を最初に解放したのはソ連軍でした。1944年7月23日、ソ連軍はポーランドのマイダネク収容所に入り、後に他の複数の絶滅収容所を制圧しました。1945年1月27日、アウシュビッツに入ったソ連軍の目に入ったのは、病気にかかり、衰弱した数百人もの囚人でした。ドイツ軍は、収容所から急いで撤退したため、囚人を置いていくしかありませんでした。また、34万8,820着の男性用スーツ、83万6,255着の女性用コート、数万足の靴など犠牲者の所持品も残されていました。


英国軍、カナダ軍、米国軍、フランス軍も収容所から囚人を解放しました。米国軍は、ブーヘンヴァルトとダッハウの解放を担当し、英国軍はベルゲン・ベルゼンに入りました。ドイツ軍は生き残っている囚人を収容所から一掃して、軍の犯罪のすべての証拠の隠滅を謀りましたが、連合国軍の兵士によって、数千もの死体が発見されました。ある米軍兵士によると、死体は「薪の束のように折り重なっていた」そうです。生き残っていた囚人たちも、骨と皮ばかりでした。


米国の軍事ジャーナリストであるビル・バレットは、ダッハウで見た様子について、「汚れた貨物列車に男性と女性を含むおよそ12体の死体を発見しました。彼らはずいぶん長い間、食事を取っていなかったようで、その生気のない手首はまるで爪付きのほうきの柄のようでした。この状況は、意図的に少量の食事しか与えられなかった結果なのでしょう...」と述べました。


連合国軍、医師、および難民救済ワーカーが、生き残っている囚人に栄養を提供しようとしましたが、囚人の多くは既に衰弱し切っており、食事を消化ことができず、助けることはできませんでした。連合国軍の努力にもかかわらず、多くの収容所の生存者は死亡しました。アウシュビッツで生存者として発見された囚人の半数は、解放後数日以内に亡くなりました。


生存者は、新たに得た自由にさまざまな反応を示しました。他の家族との再会に期待を寄せる人もいれば、親戚や友人の多くが亡くなったため、生きることに罪の意識を感じる人もいました。生存者の1人で、精神科医のヴィクトール・フランクルは、その困惑した気持ちを次のように表現しました。「私たちは、恐る恐る辺りを見回しました。現実を疑いながらお互いを見ました。そして、私たちは収容所から足を踏み出しました。このとき、私たちに大声で命令が発せられることもなく、暴力を避けるために素早く身を潜める必要もありませんでした。私たちは、「自由」という言葉を繰り返しました。しかし、まだそれを実感できませんでした。」

重要な日付

1944年7月23日
ソ連軍によるマイダネク収容所の解放

大規模なナチス収容所に初めて遭遇するのはソ連軍で、ポーランドのルブリン近郊にあるマイダネク強制収容所に到達します。ソ連軍の急激な進軍に意表を突かれたドイツ軍は、この収容所を取り壊して大量殺戮の証拠を隠そうとします。収容所の看守たちは、マイダネクの巨大な火葬場に火をつけますが、急いで撤退したためにガス室はそのまま残ります。ソ連軍は、後にアウシュビッツ(1945年1月)、グロース・ローゼン(1945年2月)、ザクスハウゼン(1945年4月)、ラーフェンスブリュック(1945年4月)、およびシュトゥットホーフ(1945年5月)の強制収容所も解放します。


 

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