"メモ日記より「政治・社会的随想」"カテゴリーの記事一覧
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#127 良き隣人としての軍隊
同じ本からあまり度々引用するのもなんだが、『本当の戦争』という本は引用したくなるような記事が多くて困る。
第二次世界大戦では、60日間の戦闘で生き残った兵士の98パーセントが精神的負傷者になり、残る2パーセントに共通した性格は「好戦的な性格」だったと言う。つまり、長く続く戦闘はまともな人格の人間をガイキチにし、残る2パーセントは最初からガイキチ、あるいはヤクザ的性格の異常者であったということだ。こうした好戦的な性格の人間は、人を殺すことが楽しくてたまらないという「生まれつきの殺し屋」であり、全人口の2パーセント(男性の3パーセント、女性の1パーセント)がそうだという。この2パーセントが、部隊の殺した敵兵の50パーセントを仕留めている場合が多いとのことである。つまり、当たり前と言えば当たり前だが、平時ならとんでもない殺人鬼になっていた人間が、戦場では英雄となるわけである。だが、一般の兵士は、人を殺すことに大きな抵抗感があり、軍隊という組織のもっとも大事な作業は、一般人を、「平気で人を殺せる人間」に作り上げることである。つまり、軍隊とは殺人訓練をする場所であるという当たり前の事実が、この平和な日本ではまともに認識されていない。こうした組織が「良き隣人」になりうるかどうか、考えてみれば良い。もっとも、軍隊を、我々の代わりに殺人をしてくれる感謝すべき組織であると保守派の言論人が言うなら、それも一つの考えではある。PR -
#126 誰のための戦争か
これも『本当の戦争』に記載されたことだが、味方同士の誤射による死傷は、全死傷者の15パーセントにも上るそうである。あの、米軍(多国籍軍)のパーフェクトゲームにも見えた湾岸戦争では、何と、失われた戦闘車両の77パーセントが、味方の誤射によるものだということで、大笑いである。米国政府によってコントロールされた官製戦争報道がいかに一面的なものであるかが分かるではないか。
この本にはいろいろと面白い(というか、不愉快な)情報が詰まっている。たとえば、1990年代の戦争での死者の、75ないし90パーセントが民間人であるという事実は、我々の時代の文明が、古代や中世よりも退歩していることを示している。古代や中世の戦争は、基本的に軍人・兵士だけの戦いであったはずだ。現代でも原則はそうだろうが、武器の発達により、一度に広範囲の人間を殺傷できるようになり、そうした武器は兵士と民間人を選別して殺すという器用なことはしない。また、現代の戦争では、おそらくそういう選別を最初からほとんど放棄しているのである。つまり、戦争が起こったという時点で、その当事国の全国民は生存の権利を奪われる。これが現代の戦争だ。それでも、あえて戦争を支持する連中の論理は何なのか。「人には生命より大事な誇りや名誉というものがある」とでも言うのだろうか。「愛国心」とやらのために国民が戦場に追いやられ、死んでいく。そして生き残った連中は彼らに感謝しつつ、ご馳走に舌鼓を打つ、というわけだ。 -
#125 戦争の実態
戦争について語ることの大きな問題は、語る人間が戦争の実態をほとんど知らないことだ。戦争について語って良いのは、最前線で戦った経験のある歩兵だけだろう。ゲーム感覚で相手を殺す戦闘機乗りやミサイルの発射ボタンを押すだけの人間には、本物の戦闘は分からないのである。まして、自らは戦場に行くことすらないお偉方や、愛国者ぶって好戦的言辞を撒き散らす保守派(体制擁護派、あるいは権力の犬)の文化人などに戦争を語る資格はない。それよりも、問題は、一般の民衆の大半は戦争の実態が分からないということだ。だから、ジャーナリズムの好戦的な言辞に踊らされて民衆が戦争に賛成し、戦争は始まる。クリス・ヘッジスの『本当の戦争』は、簡潔な一問一答形式で戦争の実態を説明した好著であるが、その中には、たとえばこういう事がある。ベトナム戦争の10年間で9万人の兵士が死んだが、戦闘で死んだ将軍は1人、大佐は8人である。つまり、実際に戦場に行った人間でも、お偉方はほとんど死ぬような場所にはいないということだ。また、同じくベトナム戦争で死んだ士官のおよそ4分の1は自分の部下の下士官や兵士によって殺されたものだという。上官の無能さによって部隊が危険にさらされることを回避する場合もあるようだが、日常の高圧的な上下関係から来る憎しみが戦場で表に現れたものも多いだろう。昔の日本の軍隊映画では、「弾は前から来るばかりとは限らねえぞ」と、兵士が棄て台詞を言ったものだが、これは洋の東西を問わぬ戦争の実態のようだ。 -
#119 過去と未来
一般的に、過去を語る者は考え方が後ろ向きで非生産的であるとされ、未来を語る者は前向きで建設的であるとされる。だが、これはまったくの誤りである。我々の現在のすべては過去の蓄積の上に成り立っているのに対し、未来とはまったく実現していない空中楼閣にすぎない。過去も未来も現在存在していないという点では同一であるが、その大きな違いは、過去は責任を伴っている事実であるのに対し、未来とは無責任な夢であり、未来についての発言に人は責任をとらなくて良いということだ。
「夢は必ず実現する」という言葉を人々は好む。Jポップの歌詞にはうんざりするくらい溢れており、教育者たちも子供たちにそう言う。書店に山積みされているハウツー的な人生論の本の趣旨も大半は「夢は必ず叶う」である。そして、そうした発言をする人々は、自分の発言に責任をとることはけっして無い。「夢が実現しなかったのは、その努力を怠った本人の責任である。それに、夢を信じて行動している間、彼らは幸福だったではないか?」 つまりは、こうした連中は、新興宗教の教祖と同じなのである。馬鹿な連中からお布施を巻き上げればそれでいいのである。このような「夢業者」はほかにもいる。
我々は自分のしてきた事、つまり過去について常に責任がある。官僚やジャーナリズムや企業がやたらに未来を語るのは、自分たちの様々な不始末という「過去」を忘れさせ、未来の夢で人々を釣るためである。(それが意識的行為であるかどうかは別の話だ。) -
#118 少年よ「大志」を抱け?
「少年よ大志を抱け」とは、言うまでも無く、札幌農学校の校長であった明治政府のお雇い外国人クラークが生徒たちに言った言葉だが、元の言葉とはニュアンスがやや違う。元の言葉は、「ボーイズ・ビ・アンビシャス」つまり、「少年たちよ、野心的であれ」であり、訳語の「大志」が、東洋的な人道主義的理想を感じさせるのに対し、「アンビシャス」には、世俗の金力や権力を目指す生臭い欲望への肯定が感じられる。もちろん、クラークもそのつもりで言ったのだろう。西欧人の彼から見れば、日本人には他人を蹴倒してでも自らの欲望を達成しようとする野心が欠けているように思われたのだと思われる。そのクラークの言葉は現代の日本において実現した。つまり、クラークは資本主義的先進国の尖兵として、日本人に野心、つまり「欲望の肯定」を教えたわけである。
それまでの日本人に野心が無かったわけではない。だが、封建社会においての野心とは、社会の上位層にしか縁の無い言葉であった。固定された身分制度のもとでは社会の下位層の者が野心を抱ける余地はなかったのだ。だが、現代はどうか。誰でも努力次第でどこまでも上に行けるという幻想が、資本主義社会を成り立たせる幻想である。その幻想によって人々は馬車馬のように努力するわけだ。しかし、それで成功するのは一握りの人間であり、しかもその大半は親からの遺産であらかじめ成功が約束された人間である。そうした社会で、過度の野心はその人の人生を常に焦燥感と不如意感・失敗感で満たすだろう。人にはそれぞれ生まれ持った器量や運命がある、という封建社会的諦念ははたして退嬰的なだけのものなのかどうか、考えてみる必要がある。 -
#108 経済システムとしての奴隷制度と植民地制度
奴隷制度や植民地制度は経済システムとしてメリットが少ないということを説明しよう。
まず、奴隷制度も植民地制度も、本質は同じである。つまり、他人を働かせて、自分は遊んで暮らそうという制度だ。そう言えば、資本主義だって同じではあるが、資本家は、「いや、自分は頭脳労働をしている。労働者百万人よりも私のほうが働いている!」と言うだろう。まあ、法の抜け穴を探すことだって立派な「労働」と言えないことはないし、他人の物を合法的に盗むことだって、「労働」かもしれないから、この点は追及しない。
奴隷制度や植民地制度は、制度の非人道性がより目立つという点で、資本主義よりは劣ったシステムである。つまり、遅かれ早かれ、死滅するシステムだったのだ。むしろ、奴隷制度が無くなるまで何千年もかかったことのほうが珍しいが、それはその不経済性を権力者に納得させるのに何千年もかかったということなのである。
第一に、奴隷には単純労働しかさせることはできない。奴隷に教育を与えてはいけないとは前回に書いた通りであるから。第二に、奴隷を監督し、労働を指示するのに専従する人間が必要である。第三に、奴隷には賃金を与える必要はないが、飯を食わせないわけにはいかない。子供の奴隷は労働年齢まで育てる必要もある。結局は、奴隷でない人間を安い賃金で働かす資本主義と、費用的にはそれほどの違いはないのである。
植民地制度は奴隷が国全体に置き換わったものと見ればよい。いずれにしても近代社会には合わないし、何より不経済なシステムなのである。 -
#107 道義と経済
あまり人の気がつきにくいことだが、世の中の出来事のほとんどは、経済的理由から起こっている。ところが、そこに「大義名分」が宣伝文句として加わると、本当の原因である経済問題は見えなくなってしまい、しまいには教科書や歴史書までも勝者の大義名分のオンパレードとなってしまうのである。人は、(特に集団としての人間は)自分の損になることは絶対にやらないものである。まして、権力者や金持ちというのは、何よりも権力や金を愛しているのだから、彼らが利他的行為をするというのは、それが何らかの意味で自分の利益となってはねかえる場合だけである。
たとえば、アメリカの南北戦争を奴隷解放のための「人道的戦争」だと思い込んでいる小中学生は多い。いや、大人でも大半の人はそう思っている。だが、あれは南部と北部の経済問題上の対立から生じた戦争なのである。それを奴隷解放のための戦争にすり替えたのがリンカーンで、いわば、太平洋戦争で日本が途中から「アジアの解放」を言い出したようなものである。戦争なんて、勝者の言い分しか残りはしない。先の大戦でドイツや日本が勝っていたら、ヒトラーや東条英機こそが英雄で、英米のチャーチルやルーズヴェルトは極悪政治家、悪魔、鬼畜として断罪されていたに決まっている。
というわけで、アメリカが奴隷制度をやめたのも、欧米諸国が植民地制度をやめたのも、実はそれが経済システムとしてメリットが少なかったからだけの話である。 -
#106 奴隷の作り方
ジョン・スタインベックの『アメリカとアメリカ人』の中に、奴隷の作り方について要を得た言葉があるので、紹介しよう。奴隷の作り方とは、奴隷を統制・支配する方法のことである。それには、奴隷自身に、奴隷制度を嫌わせないように仕向けることか、奴隷制度に抵抗しても無駄だと思わせることが一番である。
その第一の方法は、奴隷に、子供の頃から、お前たちは劣等で、愚かで弱く、無責任だと思い込ませるように洗脳を施すこと。第二は、抵抗を芽のうちに摘み取り、容赦なく罰すること。第三は、家族、友人を分散させ、同族が集まったり同族を作ったりさせないこと。第四は、(これがもっとも重要だとスタインベックは述べている。)けっして奴隷に教育を施さないこと。
この第四の点は、第一の点と結びついている。つまり、(これもスタインベックの言葉だが)教育によって必然的に質問と意思伝達が起きてくるからである。
質問とは、現状への疑問であり、意思伝達は、彼らが徒党を組んで反抗に立ち上がる契機だと考えれば、スタインベックが述べたこの四つのポイントは、権力が民衆を支配する手段として簡にして要を得た説明だと言えるだろう。これを「教育による洗脳」と、「マスコミによる洗脳」に置き換えれば、そのままで現代における人民支配の方法である。我々が奴隷でないなどと、誰が言えようか? -
#105 少数者による多数者の支配
「哲学的な目で人間社会を眺めたとき、もっとも驚くべくことは、少数者による多数者の支配が容易に行われていることである」というのは、デビッド・ヒュームの言葉らしいが、同じ疑問は多くの人が感じているだろう。たとえば、現代社会は、明らかに権力と癒着した大金持ちが、「合法的」ではあるが不正な手段を使って他企業を倒し、雇用者や消費者を搾取し、甘い汁を吸っているが、その状態を変えることができないのはなぜか。それは、権力に逆らえば、自らの生存が不可能になるという一般庶民の恐怖のためである。
権力による支配の基本にあるのは暴力である。社会の初期の段階では、武器や軍隊といった暴力手段を握ることが権力への道であった。あるいは、神の懲罰を背景として、宗教で人々を支配することも行われた。後者は暴力ではないが、暴力を匂わせた威嚇である。その暴力の主体が人間ではなく、神であるというだけのことだ。
暴力および、暴力を背景とした威嚇が権力の基本であり、やがてそれに法律とマスコミが加わってくる。法律とは、人民の権利を守る存在でもあるが、権力への反抗を封じ込める手段でもある。ほとんどの国で、警察や軍隊は、国民を守る存在ではなく、国民の反抗から権力者を守る存在である。そして、暴力行使の権利はすべて国家に握られ、国民が私的に暴力を行使すると、法律で処罰される。たとえば、高校生が決闘(ルールを決めて行う喧嘩)をしたということで警察に逮捕された事件があったが、これなどは、法の本質が国家(権力者)による暴力の独占であることを良く示した事件ではなかろうか。 -
#98 ヒトラーを研究せよ
ヒトラーとナポレオンの類似点は多い。どちらも新しい戦法によって連戦連勝したこと。どちらも最後に冬のロシアに侵攻することで自滅したこと。この2点だけでもそっくりだ。さらに、どちらも演出を重んじ、すぐれた演技者であったことも入れてもいい。だが、ナポレオンは今でも肯定的に描かれることも多いのに、ヒトラーを肯定する人間は皆無に近い。小室直樹が、彼の政治的、軍事的能力を高く評価していたと思うが、それ以外ではあまり見たことがない。というのは、ユダヤ人迫害という一事が、彼にとっての永遠の呪いになっているからである。ヒトラーを肯定すること、イコール、ユダヤ人迫害を肯定するものとして、逆に社会的批判の対象とされてしまうから、誰もヒトラーを肯定できないのである。私も彼のユダヤ人迫害を肯定する気はないし、人格的にも彼はギャングかヤクザのような人間だっただろうと思う。だが、彼の政治的、軍事的天才だけは認めるべきだろうし、彼を研究することは生きた政治や軍事の良いヒントを与えるはずである。ヒトラーの電撃作戦がなぜ、あれほど簡単に欧州を征服したのか、ヒトラーが思いのままに欧州を荒らしまわるのを、なぜ他国の政治家、政府は手をつかねて見ていたのか。それを研究し、理論として一般化するなら、それは未来の政治教科書の一つとなりえるはずである。単に、ヒトラーを一人の稀有な悪党として、ただの例外的存在としてとらえるなら、歴史を学ぶ意味は無い。政治には、本当は悪党も善玉も存在しない。政治力学があるだけなのである。