"メモ日記より「政治・社会的随想」"カテゴリーの記事一覧
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#191 人間を幸福にする日本というシステムの構築
「人間を幸福にしない日本というシステム」をどう変えれば、人間を幸福にするシステムが作れるのか。その土台は「士農工商」である。つまり、道義のある人間が社会をリードし、生産者が尊重される社会を社会全体の目標としていくことである。具体的な政策として考えられることは、「土地国有制」と「相続税100パーセント制」である。土地は資産形成の最大の要素だから、それを私有させるのは不公平である。国が管理し、使用者から使用料を取るのが良い。住宅としての使用は、なるべく低廉にすればいいが、過度の面積の使用は制限するのだ。また、財産を子孫へ相続させようという欲望が人間の強欲と過度な蓄財の原因だから、相続税は100パーセント、つまり、死ねばすべて財産は国が没収するのが良い。ただし、残された遺族の生活費として、一律に一定金額を支給し、教育費や成人段階での開業資金なども国が支給・融資すれば良い。細部の議論はあろうが、原則はそういうことだ。
さらに、いかに日本だけで人間味のある政策を実行しようとしても、経済は国境に制限されないから、政策がそこから崩壊するだろう。したがって、日本は「鎖国政策」をとるべきである。日本と商売がしたければ、高い関税を覚悟でやることだ。もちろん、アングロサクソンの利益保護のためのさまざまなインチキ国際機関からは脱退する。国際連合からも脱退する。日米安保条約も破棄である。北朝鮮の国際政治戦略を見習って、日本も核武装すれば、他国の政治的干渉を跳ね返すこともできるだろう。
これが、日本をまともな社会にするための私の考えだ。もちろん極論だし、穴だらけの考えだが、方向としては間違ってはいないと思っている。PR -
#190 社会人落ちこぼれ
近い未来の日本社会を考えた場合、最大の問題は、「社会人落ちこぼれ」の問題である。日本がアメリカの後を追って、完全に第三次産業社会になった場合に生じるのがこれだ。第三次産業の中でも流通や商品売買の分野などではまだ非熟練労働者の存在価値はあるが、第三次産業の中でももっとも金になる分野である「法律」「医学」「金融・証券」「情報産業」などでは、高学歴の人間しか必要としなくなる。つまり、こうした社会は大量の「不要な人間」を生み出す社会なのである。高学歴でなくても、芸術やスポーツなどでは才能が物を言うが、そうした才能も無く、高学歴を身につけていない大量の人間をどうするか。これが日本がこれから直面する問題だ。これを私は「社会人落ちこぼれ」問題と言っている。現在の「ニート」や「フリーター」はその魁である。社会人落ちこぼれが社会人の過半数を占め、彼らが低賃金にあえぐ一方で、少数のエリートが高い収入を手に入れて贅沢な生活をする、「天国と地獄」状態が、日本の未来である。これはアメリカの現在だ。ついでに言うなら、現在、社会の上層にいる人々は、自分のコネをつかって子供を一流の大学に入れ、一流の企業に入れるだろうから、彼らの子孫は安泰である。つまり、日本は完全な身分社会となるのである。 -
#189 機会損失という考え方
「機会損失」は経済学もしくはビジネス用語の一つで、二つの選択肢がある場合に、一方を選ぶと、もう一方を選んだ場合の利益を得る機会が失われるという考え方だ。つまり、一見利益を上げているように見えても、実は機会損失による不利益のほうが大きいかもしれないということを考えて選択せよ、ということだ。この考えは日常生活でも成り立つ。たとえば、ナサニエル・ホーソンのある短編に、旅の途中の青年が寝ている間に、その青年の周辺で起こる出来事(そのほとんどが、青年の運命を変える可能性のある出来事である。たとえば、美しい少女が寝ている彼に恋をする、とか、大金持ちの老夫婦が彼を養子にしてみようと考えるとか、強盗が彼を殺して金を奪おうと考えるとか。)を描いた作品がある。目覚めて彼は自分の周囲で起こった出来事を知らず、旅を続けるのだが、実は我々の周辺でも、自分の知らないところで様々な機会損失があり、また危く危機を逃れていたという可能性もあるのである。
現在の日本では、青少年に与えられる文化はほとんどが日本製の文化である。特に音楽関係ではそうだ。これは、日本の大衆音楽が進化したという面もあるが、それよりもマスコミ関係者が、外国文化を摂取することをやめてしまったということによる。日本の若者は自国文化以外の優れた文化を知らないままで一生を過ごしていくのである。この機会損失は大きなものではないだろうか。 -
#177 情報の洪水と民衆支配
人間の最大の欠点は、飽きやすく、忘れやすいことである。しかも日本人にはその欠点が強い。その日本人にテレビと新聞を与え、毎日毎日膨大な情報を流したらどうなるか。どんなに重大な出来事でも、新たな事件の前に忘れられていくのは目に見えている。あなたはそうでないと言えるか。少なくとも私は、もはや三日前のニュースさえも記憶に残らなくなっている。どのような不祥事も、それに対して誰がどう責任をとったのか分からないまま、記憶から消えていく。これは為政者つまり政治家や官僚にとっては実に望ましいことである。あらゆる政治的失敗に対し、何一つ責任を取らなくていいのだから。たまに責任が追求されるとしたら、それはスケープゴートにすぎない。日本のマスコミが流すニュースのほとんどは官庁から出されるニュースである。ならば、たまに政治家や官僚の悪事がマスコミに流れたとしても、それは官庁側が「こいつはしょっぴいていい」と許可した身内の中の小鼠にすぎないのは自明である。あるいは、U教授の痴漢事件のように政治的に邪魔な存在をフレームアップ(でっちあげ)で逮捕させることもある。
古代ローマでの民衆支配の方法は「パンとサーカス」であったと言う。現代の政府は民衆に福祉というパンを与えることなく、ただ情報操作というサーカスだけで真面目な問題から目をそらさせることに成功している。まさしくかつて大宅壮一が言ったようにテレビという手段が「一億総白痴化」をもたらしたのである。
(注:この一文は自民党が政権を失う前に書かれたものである。) -
#166 社会の遠近感
「自分と仲間以外はみな風景」というのは、現代の若者について述べた宮台真二の名言だが、実は若者が社会から切り離された存在であるというのは、日本では昔からそうなのである。そもそも、学校で学ぶことのすべてが、社会から見事に切り離されている。学校で学ぶことが社会に出て役に立つなどと考えている生徒はほとんどいないだろう。彼らは、高校受験・大学受験のためにそれが必要だから学んでいるのである。最も社会とつながっているように見える英語の勉強にしても、大学を出ても英会話一つできないのである。まして、大方の生徒にとって、数学や物理など、何の役にも立ちはしない。しかも、学校では、教師が政治的発言、すなわち社会批判をすることは暗黙のうちに禁じられているから、現実の悪は、教育の世界では存在しないものとされているのと同じなのである。つまり、教育の世界で子供は現実の社会から切り離されたフィクショナルな生活を送っている。こうした生活を送る子供たちが、社会に対し、現実感が持てなくなるのは当然だろう。しばしば、子供が思いがけない事件を起こすが、その原因には、この「現実感の無さ」があると思われる。彼らにとって現実は現実ではないのだ。だから、「切れる」と、平気で突拍子も無い行動ができる。
学校だけが現実ならば、それなりに覚悟もできるが、彼らも馬鹿ではないから、その背後にどす黒い現実社会があることは知っている。得体の知れない「現実」への不安が、彼らを破壊的行動へと向かわせるのではないか。かつての子供として、私にはそう思われる。 -
#150 恥と罪
神を前提としなくても日本にはモラルがあった。その手品の種は「世間体」である、というと、威厳も何もあったものではないが、実際そうだったのである。ルース・ベネディクトの「菊と刀」によって、日本人の「恥の意識」は西欧人の「罪の意識」に比べて一段劣るもののように見なされるようになったが、はたしてそうなのだろうか。まず、恥と罪と、どちらが人間にとって根源的な感情かというと、これは明らかに恥の感情である。世界中のどの民族でも、恥の意識の無い民族は無い。極端に言えば、動物にすら恥の意識はあると私は思っている。犬や猫を観察したことのある人間なら、彼らの行動に羞恥心やプライドを感じ取った経験が必ずあるはずだ。しかし、罪の意識となると、これは動物にはけっしてありえない。なぜなら、罪とは常に「立法者」を前提としてのみ生じる感情だからだ。これは西欧のように、古代から法と契約によって生活してきた民族に特有の感覚なのである。そして、罪の前提となる立法者への信頼が失われれば、罪の意識は機能しなくなる。そのような脆弱なものの上に人間の生活を成り立たせるためには、当然、罪を犯した者への厳重な処罰が必要になる。一方、恥の意識に基づく社会秩序においては、個人に内面化された美意識が彼を自動的に悪(醜行)から遠ざける。社会の構成員が、罰への恐怖から悪を避ける社会と、悪や醜行への嫌悪感からほとんど無意識に近い形で悪(醜行)を避ける社会と、どちらが優れた社会だろうか。だが、今や、日本の社会からは恥の意識も、行動における美意識も失われた。それは金がすべてという思想のためである。 -
#149 神無き社会のモラル
哲学の課題はいかにして個人および人類の幸福を実現するかである。その問題に答えない哲学は無意味だ。たとえばニーチェによって人類(あるいは西欧人)の視野は拡大した。その意味で彼は重要な哲学者だ。しかし、彼は人類にとって必要な哲学者であっただろうか。彼によって人類は幸福になったかと言えば、答えはノーだろう。その点では、ほとんどあらゆる近現代の哲学者は無意味な存在である。
現代における哲学者の課題は、「神を前提としない、いかなる倫理が可能か」に答えることである。現代人はもはや神を信じていない。しかし、ほとんどの西欧人は、神を前提とせずには倫理は不可能だと考えているのである。だから、彼らは日本人が神を信じていないというと、日本にはモラルは無いのか、と考えてしまうのである。これはもちろん大きな誤解で、大半の日本人は大半の西欧人よりも道徳的にすぐれている。いや、すぐれていたのである。現在はそのモラルも怪しくなってきているが、かつての日本人は神をも仏をもあまり真剣に信じてはいないのに、世界でも稀なモラルのある社会を作っていた。その日本人なら「神無き社会のモラル」の可能性について深い考察ができるはずだ。しかし、日本の哲学者は西欧の哲学の輸入とライセンス販売をする商売人だけである。ドストエフスキーの作中に言われた「神がいなければすべては許される」というテーゼに対し、哲学者はどう答えるのだろうか。 -
#134 悪い奴ほどよく眠る
前に、人間の2パーセントは好戦的(ヤクザ的)性格の人間だと書いたが、この比率はかなり正しいと思う。50人に一人、つまり、およそ学校の1クラスに一人くらいの割合で、こうした異常性格者がいるというのは、大多数の人間の経験則に合っているのではないだろうか。1学年が10クラスなら、学年全体では10人のヤクザ的人間、すなわち不良がいるというのは、私自身の経験には合っている。言っておくが、こうした不良というのは、青春ドラマなどで美化されるような、そんな存在ではない。将来は犯罪者間違いなし、どころか、在学中から暴力行為、強姦事件を起こすような、そんな連中のことである。そうした不良は、ある意味では力を持った存在であり、大人に平気で反抗するから、女生徒の中には(不良を美化した青春ドラマの悪影響で)彼らにあこがれたりする連中も多い。もちろん、こうした異常性格者は男には限らない。中学でのいじめなどは女の子のほうがよほど陰湿で激しいものらしい。しかし、その場合でも、中心となるのは一握りの異常性格者、サディスト的人間で、後の連中はその手下として引きずられて悪事に加担しているだけだ。問題は、こうした異常性格者の中には世渡りの才能をも兼ね備えた人間が結構いることで、それが話術の才能などに恵まれていると、教師やタレントになって世間にもてはやされたりもする。かつて悪(ワル)だったことも、そうなると何のおとがめもないばかりか、勲章のようなものになるのである。K元総理の祖父などもヤクザだったらしいが、ヤクザでも代議士になれる社会なのだから、この風潮も当然の話ではあるが。 -
#129 バランス・シート的思考
人間性の根本的欠陥として、我々は物事を一面的に見てしまう傾向がある。これを利用したのが様々な手品で、手品師が右手で何かをしているときには左手にトリックがある、というのが手品の原則だ。マスコミや政治のトリックも同様で、マスコミがくだらない問題をトピックにしている時は、必ず真の重要な政治課題が裏でこっそりと推し進められていると考えたほうが良い。我々のやるべきことは、人間性のこのような欠陥を常に意識し、物事をバランス良く眺める習慣をつけることである。
バランス・シートとはもちろん会社の経営状態を表す表の一つだが、「貸借対照表」とも呼ばれている。つまり、その会社の資産と負債を表の左右に並べたものだ。この左右が釣り合っていれば、その会社は健全だということになるが、この考え方は面白い。我々は普通、借金が無く、資産だけがある状態を健全な状態だと考え、そうなろうと努力する。しかし、本当は「借金も財産のうち」なのである。なぜなら、借金は資産の形で自分の懐に残っているからだ。たとえば、国の借金である国債は、様々な社会資本となって国民の財産として残っている。使われた金だけを考えるから、それが無駄に消費されたように思うのである。もちろん、その過程でいろんな人間が金の一部を自分のポケットに入れるから、それに怒る気持ちは分かるが、国債の使途の大部分は一応は有益なものだ。そうしたバランス・シート的見方をするなら、問題は借金ではなく、金の使い道にあると分かる。 -
#128 勝つってそんなにいいことか?
人生の目的が他人に勝つことであるような人間というのは、一種の異常者ではないかと私は思っている。ところが、我々のこの社会は、そうした「好戦的な性格」を奨励しているのである。学校とは、表向きには「みんな仲良く」を標榜しながら、実際には「他人に勝て」を子供に教え込む「ダブルバインド(二重拘束・矛盾した指令)」の社会である。「頑張って」試験の順位を上げよと子供に言い、「頑張って」スポーツの試合に勝てと子供に言う。「試験の順位なんてどうでもいいよ。前より君自身が少しでも物事を分かるようになれば十分だ」と言う教師は滅多にいないし、「試合に勝つ必要はない。ゲームを楽しみなさい」というスポーツ指導者などほとんどいない。「いや、俺は子供に『楽しめ』と言っている」と言う指導者も、その本音は、自分の指導しているチームや子供が好成績を残すことしか頭には無い。子供は敏感だから、そんなことはみんな知っているのだ。こうして、「勝たなければ無意味だ。勝たなければ自分は無価値だ」という思想が子供たちの心を汚染していく。もちろん、事は学校だけの話ではない。我々の社会全体が「競争は正しい」「勝利に向かって努力しない人間はクズだ」という思想の社会なのである。しかし、人間、それが楽しければ自然と努力するものであって、勝利はべつに努力の唯一の原因や報酬ではない。そうしたのんびりとした努力、いや目の前の物事自体を楽しみ、結果としての勝利には重きを置かないような人間が増えることが、このぎすぎすした社会を居心地のいい社会に変えていくのではないだろうか。