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 お笑いの世界の人間は、単に笑いを取ることはできても、対象を貶めずに話題に「軽み」をもたらすような演出手法は持っていない。特に令和の時代のお笑い関係者は、相方なり共演者なりを泥まみれにすることでしか笑いを生み出すことができない仕様になっている。


 とすれば、彼らが「死」に軽みをもたらすことなど、できようはずがなかったのである。


 問題は、厚労省が「死」ないしは「終末期医療」という話題の重苦しさに真正面から対峙することを嫌って、その話題から逃避したことだ。


 あるいは、邪推すればだが、このお話は、老人医療ならびに終末期医療の予算削減を画策する厚労省が、延命治療の放棄に向けた議論の下地作りのために、吉本芸人の知名度と好感度を利用したということだったのかもしれない。


 だとすると、「人生会議」という、一見前向きに見えるこの名前は、実のところ、後期高齢者や重篤な患者の「人生」に適切な(ということはつまり「医療保険制度にとって過重な負担とならない」)タイミングでの「ピリオド」を打つための施策で、その「会議」の主たる議題は「適切な死」だったわけだ。


 ついでのことにもう一つの邪推として、「人生会議」での吉本興業の起用が、「総理案件」であった可能性について簡単に触れておきたい。


 11月にはいってからこっち、例の「桜を見る会」に関連して、「行政の私物化」「政治家の公私混同」「政権内外を席巻するネポティズム(縁故主義)の影響」といったフレーズが、連日新聞紙面を賑わせているわけなのだが、私個人の直感では、この案件にも同じ匂いを嗅ぎ取らざるを得ない。つまり、まるで畑違いの厚労省の仕事にわざわざ吉本興業の芸人が押し込まれた経緯に、官邸周辺と吉本幹部の蜜月の影響を感じるということだ。


 この夏、何人かの吉本興業所属のタレントが、反社会的勢力との取引や付き合いを取り沙汰されて、謹慎処分になった時点で、私は、彼らの雇用主である吉本興業が、明示的なカタチで責任を取っていないことに強い違和感をおぼえていた。もう少し具体的に言えば、会長や社長が辞任しないまでも、少なくとも、政府関連の仕事からは撤退するのがスジだと、そう考えていた。


 ところが、吉本興業は、五輪や万博の関連で様々な経路で請け負っている公的な仕事を従来どおりに受注している。行政の側も、まったくアクションを起こしていない。クールジャパン機構から提供されることになっている資金を返上する様子もない。


 で、今回のこの事態だ。


 私には自業自得案件にしか見えない。


 最後に「人生の最終段階」という今回のパワーワードについて、思うところを述べておきたい。これも邪推といえば邪推なので、あくまでも個人の感想として書き記すにとどめる。


 ACPを推進しようとしている最も積極的な論者は、「人生の最終段階」という言葉に、おそらく「治癒する見込みのない患者の延命治療」という意味をこめているはずだ。


 そういう人たちのアタマの中では、
 「何カ月か意味のない延命をすることだけのために、何百万円何千万円の医療費をかけるのなら、もっと若くて体力のある生産性の高い患者の治療に投入するべきだ」
 式の理屈が行ったり来たりしているのだと思う。


 大筋において、私は、彼らの主張を理解しないわけではない。


 ただ、「人生の最終段階」は、他人が思うほど計量可能な指標ではない。


 この言葉は、使いようによっては、どこまでも危険な尺度になるはずだ。


 寝たきりの患者を眺めている見舞客の立場からすれば、もう何カ月も一言すら発し得ない重篤な患者は、まさに「人生の最終段階」に到達した人間に見えるはずだ。


 でも、本人はそう思っていないかもしれない。


 家族の思いもまた別であるはずだ。