副島隆彦の学問道場「重たい掲示板」の最新記事(副島自身の投稿)だが、その中には米国がビッグテック5社を国営化する、という「米国の社会主義化」という驚天動地の話もあるが、まだまだ怪しい話なので、より事実に基づくと思われる下の記事(歴史的意義がある)を転載する。
「閔妃暗殺事件」は、浅田次郎が小説にしていたと思うが、事件そのものを日本人の大半はほとんど知らないのではないか。
(以下引用)
今日は、最後に、昨日の朝日新聞の記事を一本だけ貼る。
日本は、隣国の朝鮮王国(李朝、りちょう )の 王妃(おうひ)すなわち皇后である 閔妃(みんび)を「126年前の1895(明治28)年10月8日」に、ソウルの王宮である 景福宮(けいふくきゅう、韓国の皇居)に乱入して殺したのである。そしてその死体を辱めたうえで、裏庭で証拠隠滅のために焼いたという。なんという残虐なことをしたことだろう。 日本人は、そして、とりわけ、日本の右翼たちは、しっかりと、この事実を正面から考えなければいけない。
日本と朝鮮の歴史の中心にこの問題があるのだ。ここを通らないで、日本人が、朝鮮、韓国と隣国として付き合ってゆく道はない。 日本外務省も、もはや逃げ回らないで、隠しおおせない事実だと自覚して、国家としての日本がやったことを、正面から考えないといけない。なぜ、あれほどに、朝鮮民族が日本からの独立のために、激しい抗議行動と救国の戦いをはじめたか。その一番、大きな理由と原因は、閔妃(みんび)暗殺にある。
「いつまでも拉致問題ばっかりやって、北朝鮮と対決する」という、偽善極まりない今の路線を、日本政府は変更しないといけない。日本国民も、いやがらないで、「誰も、これまで、こんなこと教えてくれなかった」などと言っていないで、この問題を正面から受けとめなければいけない。 副島隆彦記
(転載貼り付け始め)
●「外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃(みんぴ)暗殺事件で新資料」
2021年11月16日 朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/ASPCH54VBPC6PTIL008.html
126年前の1895(明治28)年10月8日、日本の軍人らが朝鮮王妃を殺害した「閔妃(ミンビ)暗殺事件」で、実行グループの一員だった外交官が、事件翌日に郷里の親友に宛てたとみられる書簡が見つかった。「自分たちが王妃を殺した」と経緯が詳しく記されており、研究者は「事件の詳細を解き明かす貴重な資料」としている。
書簡の差出人は、現地の領事官補だった堀口九万一(くまいち)(1865~1945)。郷里、新潟県中通村(現・長岡市)の親友で漢学者の武石貞松に宛てた、1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の計8通が見つかった。
名古屋市に住む切手や印紙の研究家、日系米国人スティーブ長谷川さん(77)が古物市場で入手し、「朝鮮王妃殺害と日本人」の著書がある歴史家、金文子(キムムンジャ)さんが毛筆の崩し字を判読した。手紙がもともと保管されていたとされる場所や記されていた内容、消印、封書の作りなどから、本人の真筆とみられる。
8通のうち6番目の書簡は、事件翌日の同年10月9日付で、現場で自分がとった行動を詳細に記していた。王宮に押し入った者のうち「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸(ようや)く奥御殿に達し、王妃を弑(しい)し申候(もうしそうろう)」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と、王宮の奥まで押し入り、閔妃を殺したことを打ち明けた。「存外容易にして、却(かえっ)てあっけに取られ申候」と、感想まで添えていた。
事件は日清戦争の講和から約… (以下、有料記事)
ここから続き
事件は日清戦争の講和から約半年後のこと。宮中の実力者だった閔妃(みんび)は、講和直後に起きた三国干渉を機に、ロシアを頼って日本を排除しようとしていた。朝鮮公使に前月着任した長州藩出身の元軍人、三浦梧楼(ごろう)が主導し、実行グループは日本の外交官や警察官、民間人らだった。
金さんは「事件の細部や家族についての記述などからも、本人の真筆とみて間違いない。現役の外交官が任地の王妃の殺害に直接関与したと告げる文面に、改めて生々しい驚きを覚えた。いまだに不明な点が多い事件の細部を解き明かす鍵となる、価値の高い資料」と話す。
手紙の記述、後年の釈明と矛盾
堀口のものとみられる書簡のうち、事件の直前と直後に記された文面からは、関係者らの後年の記述とは異なる事件の経過もうかがえる。
事件は、ロシアに頼って日本を排除しようとした宮中の実力者・閔妃を殺害するため、国王の父・大院君(だいいんくん)を担いだ「親日派」のクーデターを偽装し、警護の名目で襲撃部隊が宮中へ押し入る計画だったとされる。堀口はソウル郊外の別邸に住む大院君を王宮まで連れ出すため、襲撃前に大院君を説得する役も受け持っていたといわれている。
見つかった8通のうち、5番目は事件前日の10月7日付。堀口は「過日より大院君と往復し詩文書函(しょかん)の応対度々有之(たびたびこれあり)」(原文はひらがなとカタカナ混じりの旧字体。以下同)と、大院君から贈られた漢詩を披露。だが、詩の内容は「何の事やら不分明」と打ち明けている。大院君を「朝鮮大一(だいいち)の(第一の)老英雄、話せる人なり」「滑稽(こっけい)洒脱(しゃだつ)何とも申様(もうしよう)なき狸爺(たぬきじじい)なり」と論評し、「近きに一大乱騒あらん」とほのめかした。
「この漢詩のくだりは重要だ」と歴史家の金文子さんは指摘する。
堀口は約40年後の1930年代、事件を回顧した複数の随筆の中で、大院君が事前に決起の野心を打ち明けたとする漢詩3首を公表していた。「しかし、今回見つかった書簡の漢詩とは全く違う。堀口はじめ関係者らは事件後、大院君が首謀者だったと主張したが、その言説が虚構だと証明する有力な手がかりだ」
6番目の手紙では、自分たちが「閔妃を殺した」と親友に打ち明ける一方、堀口はその2日後の10月11日には上司に促され、当時の外務次官・原敬(はらたかし。後の首相)に私信で事件を報告した。この私信では、堀口は事件を実際に目撃したと述べ、大院君の連れ出しに加わったことも認める一方、暗殺の場面は「王妃逝く」と、第三者のような表現をしていた。
これまでの研究で、堀口が事件の実行グループに加わっていたことは知られる一方、王妃を実際に斬殺した人物は特定できていない。計画を事前に知らされず、事件の処理をした現地の内田定槌(さだつち)・一等領事は、事件当日に原へ送った手紙で、王妃を斬ったのは「某陸軍少尉」とした。他にも複数の名が挙がっている。
一行は、計画を実行後、暗いうちに引き上げる予定だったとされる。だが、大院君が連れ出しになかなか応じなかったことと、二手に分かれた実行グループが行き違いになったことから、襲撃は夜明け後となり、凶行後に立ち去る一団は大勢に目撃され、日本人の関与を隠せなくなった。だが、今回見つかった書簡には、そうした不手際への言及はない。
金さんは「事件に関与した日本人の手記は多数あるが、虚実を取り混ぜた粉飾の多いのが実態。今回見つかった書簡は信頼する故郷の友人へ宛てた私信だけに、さらなる検証は必要だが、信頼度は高いとみられる」と語る。(編集委員・永井靖二)
事件の詳細解明へ「重要な鍵」
朝鮮半島との関係史に詳しい中塚明・奈良女子大学名誉教授(日本近代史)の話 昭和期との対比でとかく肯定的に語られがちな明治時代の日本軍だが、日清戦争も日露戦争も、朝鮮を侵略する過程で起きた。だが、現代の日本人にそんな認識は希薄だ。清やロシアへの勝利をうたった公刊戦史の陰で、日本が朝鮮半島で何をしたのか。閔妃暗殺事件も含め、その詳細を明らかにする研究はまだ緒に就いたばかりだ。事件から120年余を経て、当事者の手による一次資料が出てきた意味は大きい。彼らが現地の人々をどう見てどう振る舞ったのか伝える、重要な鍵になるだろう。
(転載貼り付け終わり)
「閔妃暗殺事件」は、浅田次郎が小説にしていたと思うが、事件そのものを日本人の大半はほとんど知らないのではないか。
(以下引用)
今日は、最後に、昨日の朝日新聞の記事を一本だけ貼る。
日本は、隣国の朝鮮王国(李朝、りちょう )の 王妃(おうひ)すなわち皇后である 閔妃(みんび)を「126年前の1895(明治28)年10月8日」に、ソウルの王宮である 景福宮(けいふくきゅう、韓国の皇居)に乱入して殺したのである。そしてその死体を辱めたうえで、裏庭で証拠隠滅のために焼いたという。なんという残虐なことをしたことだろう。 日本人は、そして、とりわけ、日本の右翼たちは、しっかりと、この事実を正面から考えなければいけない。
日本と朝鮮の歴史の中心にこの問題があるのだ。ここを通らないで、日本人が、朝鮮、韓国と隣国として付き合ってゆく道はない。 日本外務省も、もはや逃げ回らないで、隠しおおせない事実だと自覚して、国家としての日本がやったことを、正面から考えないといけない。なぜ、あれほどに、朝鮮民族が日本からの独立のために、激しい抗議行動と救国の戦いをはじめたか。その一番、大きな理由と原因は、閔妃(みんび)暗殺にある。
「いつまでも拉致問題ばっかりやって、北朝鮮と対決する」という、偽善極まりない今の路線を、日本政府は変更しないといけない。日本国民も、いやがらないで、「誰も、これまで、こんなこと教えてくれなかった」などと言っていないで、この問題を正面から受けとめなければいけない。 副島隆彦記
(転載貼り付け始め)
●「外交官「王妃殺した」と手紙に 126年前の閔妃(みんぴ)暗殺事件で新資料」
2021年11月16日 朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/ASPCH54VBPC6PTIL008.html
126年前の1895(明治28)年10月8日、日本の軍人らが朝鮮王妃を殺害した「閔妃(ミンビ)暗殺事件」で、実行グループの一員だった外交官が、事件翌日に郷里の親友に宛てたとみられる書簡が見つかった。「自分たちが王妃を殺した」と経緯が詳しく記されており、研究者は「事件の詳細を解き明かす貴重な資料」としている。
書簡の差出人は、現地の領事官補だった堀口九万一(くまいち)(1865~1945)。郷里、新潟県中通村(現・長岡市)の親友で漢学者の武石貞松に宛てた、1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の計8通が見つかった。
名古屋市に住む切手や印紙の研究家、日系米国人スティーブ長谷川さん(77)が古物市場で入手し、「朝鮮王妃殺害と日本人」の著書がある歴史家、金文子(キムムンジャ)さんが毛筆の崩し字を判読した。手紙がもともと保管されていたとされる場所や記されていた内容、消印、封書の作りなどから、本人の真筆とみられる。
8通のうち6番目の書簡は、事件翌日の同年10月9日付で、現場で自分がとった行動を詳細に記していた。王宮に押し入った者のうち「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸(ようや)く奥御殿に達し、王妃を弑(しい)し申候(もうしそうろう)」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と、王宮の奥まで押し入り、閔妃を殺したことを打ち明けた。「存外容易にして、却(かえっ)てあっけに取られ申候」と、感想まで添えていた。
事件は日清戦争の講和から約… (以下、有料記事)
ここから続き
事件は日清戦争の講和から約半年後のこと。宮中の実力者だった閔妃(みんび)は、講和直後に起きた三国干渉を機に、ロシアを頼って日本を排除しようとしていた。朝鮮公使に前月着任した長州藩出身の元軍人、三浦梧楼(ごろう)が主導し、実行グループは日本の外交官や警察官、民間人らだった。
金さんは「事件の細部や家族についての記述などからも、本人の真筆とみて間違いない。現役の外交官が任地の王妃の殺害に直接関与したと告げる文面に、改めて生々しい驚きを覚えた。いまだに不明な点が多い事件の細部を解き明かす鍵となる、価値の高い資料」と話す。
手紙の記述、後年の釈明と矛盾
堀口のものとみられる書簡のうち、事件の直前と直後に記された文面からは、関係者らの後年の記述とは異なる事件の経過もうかがえる。
事件は、ロシアに頼って日本を排除しようとした宮中の実力者・閔妃を殺害するため、国王の父・大院君(だいいんくん)を担いだ「親日派」のクーデターを偽装し、警護の名目で襲撃部隊が宮中へ押し入る計画だったとされる。堀口はソウル郊外の別邸に住む大院君を王宮まで連れ出すため、襲撃前に大院君を説得する役も受け持っていたといわれている。
見つかった8通のうち、5番目は事件前日の10月7日付。堀口は「過日より大院君と往復し詩文書函(しょかん)の応対度々有之(たびたびこれあり)」(原文はひらがなとカタカナ混じりの旧字体。以下同)と、大院君から贈られた漢詩を披露。だが、詩の内容は「何の事やら不分明」と打ち明けている。大院君を「朝鮮大一(だいいち)の(第一の)老英雄、話せる人なり」「滑稽(こっけい)洒脱(しゃだつ)何とも申様(もうしよう)なき狸爺(たぬきじじい)なり」と論評し、「近きに一大乱騒あらん」とほのめかした。
「この漢詩のくだりは重要だ」と歴史家の金文子さんは指摘する。
堀口は約40年後の1930年代、事件を回顧した複数の随筆の中で、大院君が事前に決起の野心を打ち明けたとする漢詩3首を公表していた。「しかし、今回見つかった書簡の漢詩とは全く違う。堀口はじめ関係者らは事件後、大院君が首謀者だったと主張したが、その言説が虚構だと証明する有力な手がかりだ」
6番目の手紙では、自分たちが「閔妃を殺した」と親友に打ち明ける一方、堀口はその2日後の10月11日には上司に促され、当時の外務次官・原敬(はらたかし。後の首相)に私信で事件を報告した。この私信では、堀口は事件を実際に目撃したと述べ、大院君の連れ出しに加わったことも認める一方、暗殺の場面は「王妃逝く」と、第三者のような表現をしていた。
これまでの研究で、堀口が事件の実行グループに加わっていたことは知られる一方、王妃を実際に斬殺した人物は特定できていない。計画を事前に知らされず、事件の処理をした現地の内田定槌(さだつち)・一等領事は、事件当日に原へ送った手紙で、王妃を斬ったのは「某陸軍少尉」とした。他にも複数の名が挙がっている。
一行は、計画を実行後、暗いうちに引き上げる予定だったとされる。だが、大院君が連れ出しになかなか応じなかったことと、二手に分かれた実行グループが行き違いになったことから、襲撃は夜明け後となり、凶行後に立ち去る一団は大勢に目撃され、日本人の関与を隠せなくなった。だが、今回見つかった書簡には、そうした不手際への言及はない。
金さんは「事件に関与した日本人の手記は多数あるが、虚実を取り混ぜた粉飾の多いのが実態。今回見つかった書簡は信頼する故郷の友人へ宛てた私信だけに、さらなる検証は必要だが、信頼度は高いとみられる」と語る。(編集委員・永井靖二)
事件の詳細解明へ「重要な鍵」
朝鮮半島との関係史に詳しい中塚明・奈良女子大学名誉教授(日本近代史)の話 昭和期との対比でとかく肯定的に語られがちな明治時代の日本軍だが、日清戦争も日露戦争も、朝鮮を侵略する過程で起きた。だが、現代の日本人にそんな認識は希薄だ。清やロシアへの勝利をうたった公刊戦史の陰で、日本が朝鮮半島で何をしたのか。閔妃暗殺事件も含め、その詳細を明らかにする研究はまだ緒に就いたばかりだ。事件から120年余を経て、当事者の手による一次資料が出てきた意味は大きい。彼らが現地の人々をどう見てどう振る舞ったのか伝える、重要な鍵になるだろう。
(転載貼り付け終わり)
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