漫画や小説の映画化には、「映画センス」が必要だと思う。「映画センス」とは、その原作を映画にした時、どのようになるかという想像力だ。漫画や小説の名作は、そのジャンルとしての特性を100%発揮したからこそ名作なのであり、映画化してもそれ以上の作品にはならない。むしろ、それよりはるかに下回る作品になるということが分かっているのが映画センスの持ち主なのである。
たとえば、黒澤明の『椿三十郎』の原作は山本周五郎の『日々平安』だが、黒澤は原作の詐欺師的で貧弱な貧乏侍を、ひねくれ者だが知勇にすぐれた剣豪に変えている。これは「見る側の生理」を熟知した改変である。つまり、我々は映画の主人公に自分を同化させて見るのが常である。ならば、その主人公はカッコいい方がいいにきまっているのである。部分的にはカッコ悪くても、実は本質的にはカッコいいというのが映画主人公の原則だ。それが無くて、なんでわざわざ我々が映画館まで足を運ぶものか。
『明日に向かって撃て』のポール・ニューマンも、喧嘩は弱いし拳銃は下手、ほら吹きで、愛する女は他人に取られているという男である。でも、カッコいいのである。なぜなら、ポール・ニューマンが演じているからだし、その主人公が本質的にはカッコいいことが見る人には分かるように描かれているからである。一言で言えば、「性格がカッコいい」のだ。
ここまで、やたらと「カッコいい」を連発してきたが、もしかしたらこれは死語になっているかもしれないので注をつけると、もちろんこれは「恰好がいい」ということだ。
『座頭市』が、ある時代小説作家の随筆中のわずか一行の言葉をヒントに作られたというのは、有名な話である。
映画の作り手に必要なのは、そういう映画センスであり、人気漫画だから映画化しよう、とか、評判の漫画だから映画化しようというセンスでは、ヒットする作品は絶対にできないとここで断言しておこう。
たとえば、黒澤明の『椿三十郎』の原作は山本周五郎の『日々平安』だが、黒澤は原作の詐欺師的で貧弱な貧乏侍を、ひねくれ者だが知勇にすぐれた剣豪に変えている。これは「見る側の生理」を熟知した改変である。つまり、我々は映画の主人公に自分を同化させて見るのが常である。ならば、その主人公はカッコいい方がいいにきまっているのである。部分的にはカッコ悪くても、実は本質的にはカッコいいというのが映画主人公の原則だ。それが無くて、なんでわざわざ我々が映画館まで足を運ぶものか。
『明日に向かって撃て』のポール・ニューマンも、喧嘩は弱いし拳銃は下手、ほら吹きで、愛する女は他人に取られているという男である。でも、カッコいいのである。なぜなら、ポール・ニューマンが演じているからだし、その主人公が本質的にはカッコいいことが見る人には分かるように描かれているからである。一言で言えば、「性格がカッコいい」のだ。
ここまで、やたらと「カッコいい」を連発してきたが、もしかしたらこれは死語になっているかもしれないので注をつけると、もちろんこれは「恰好がいい」ということだ。
『座頭市』が、ある時代小説作家の随筆中のわずか一行の言葉をヒントに作られたというのは、有名な話である。
映画の作り手に必要なのは、そういう映画センスであり、人気漫画だから映画化しよう、とか、評判の漫画だから映画化しようというセンスでは、ヒットする作品は絶対にできないとここで断言しておこう。
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