「月刊『日本』」上の山崎行太郎と佐藤優の対談の一部で、佐藤優氏が沖縄独立の可能性について述べた部分を転載する。(直接の元記事は「阿修羅」より)
私自身は基本的には沖縄独立論には与しない。なぜなら、現在の沖縄の文化は、多少の琉球文化の色彩はあるにせよ、その9割以上は日本文化であり、日本文化を母として育った人間がそこから離れることにはデメリットが大きすぎるからである。しかし、普天間基地移設問題に見られるような沖縄への差別待遇が今後も続くようなら、沖縄の人間は沖縄独立を現実的選択肢の一つと考えるようになってくるかもしれない。
実際のところ、普天間基地一つがたとえ県外や海外に移設したところで、沖縄の基地負担はそれほど軽減されるわけではない。普天間基地問題は「本土対沖縄」という基本問題の象徴にすぎないのである。沖縄の人間が望むのは特別扱いではない。沖縄を養子ではなく本当の子供として認知してくれということなのである。もちろん、佐藤優氏の発言中にもあるように、「日中両属」の歴史が沖縄にはあり、本土支配層の意識や無意識の中に、「あそこは日本ではない」という考えがあったために、現在の沖縄問題があるのだろう。しかし、「日中両属」は、日本の支配層が琉球を経済的に利用するためにそうさせてきたのである。要するに、「宗主国アメリカ対属国日本」のミニチュア版が「宗主国日本対属国琉球」であり、琉球が沖縄になった現在でも沖縄は実は支配層の目からは「異国」なのである。
しかし、再度言うが、現在の沖縄の人間は日本文化の中で育ち、精神は日本人以外の何者でもない。したがって、私は沖縄独立論にはそれほど魅力を感じないのである。たとえ独立によって政治や経済で自由な選択が可能になると言われようが、本土の人間が支配しようが沖縄の人間が支配しようが、支配者と被支配者の関係は変わることはない。かえってこれまで以上に暴虐な政治が行われる可能性だってあるのである。それよりは、2009年の「無血革命」によって日本がこれから変わる可能性に賭けるほうが、まだ期待はできるだろう。もっとも、菅政権はアンシャンレジュームの復活であるという疑いはかなり濃いのだが。
(以下引用。最初の「佐藤」の太字のみ補足。)
佐藤 本来、沖縄にはあまり「沖縄」としてのアイデンティティーは希薄です。久米島であり、座間味島であり、渡嘉敷島といった、島ごとのアイデンティティーは濃厚ですが、沖縄という行政単位に対する帰属意識は希薄なのです。ところが、大江裁判、教科書問題という、本土(内地)から中国や韓国に対するような視座で批判されるようになった結果、「沖縄」という意識が醸成されつつあり、これは、放っておけば、沖縄独立論につながります。私はソ連崩壊の過程でどのようにバルト三国が独立したかを見てきましたが、同じことが沖縄でも起きる可能性があると思っています。その土地のエリート五十人ぐらいが独立を本気で考えれば、独立に振れてしまうのです。知事が総理になりたいと思い、渉外部長が外務大臣になりたいと思い、県会議長が国会議長になりたいと思い、県会議員が国会議員になりたいと本気で思うようになると、案外独立は早く実現します。
外務省というところで行政官をしていた悪い癖で、損得を勘定してしまうのですが、沖縄が独立した場合、尖閣諸島のガス田とEEZ(排他的漁業圏)の漁業権による収入で、クウェートのような国家として、沖縄は独立可能でしょう。そして、そこにほぼ確実に中国が介入してきます。こうした実務的なことも踏まえて、今の一部保守論壇の沖縄に対する態度というのは危険だと思うのです。
――沖縄の独立がありうる、ということですか。
佐藤 そうです。沖縄で気をつけなければいけないのは、あそこには、本土と異なり、易姓革命思想があるということです。もっと平たく言えば、長いものには巻かれろ、という感覚があります。沖縄は歴史的にも、中国の冊封体制と日本の幕藩体制との間で揺れ動いてきました。琉球王国は、幕藩体制のなかでの「異国」だったのです。このため、沖縄の歴史書である『中山世譜』は漢文体、『中山世鑑』はかなを交えた読み下し文で書かれています。このことからもわかるように、歴史も中国と日本の間でふたまたをかけています。日本と一緒にいる方が得だから日本に所属しているけれども、今回のような教科書問題などを契機に、日本と一緒にいてもろくなことはないんじゃないか、天命が変わりつつあるんじゃないだろうか、という流れが起きてもおかしくありません。これをなんとしても食い止めなくてはならない。
大田実海軍中将が玉砕にあたって東京に送った電文は「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜ることを」と結ばれていますが、大田中将が心配していたのは、まさに今のような状況なのではないか。これは情緒的なものというよりも、ものすごく計算されたもので、沖縄を日本につなぎとめておくためには特別の配慮が必要なんだ、ということだと私は解釈しています。
私自身は基本的には沖縄独立論には与しない。なぜなら、現在の沖縄の文化は、多少の琉球文化の色彩はあるにせよ、その9割以上は日本文化であり、日本文化を母として育った人間がそこから離れることにはデメリットが大きすぎるからである。しかし、普天間基地移設問題に見られるような沖縄への差別待遇が今後も続くようなら、沖縄の人間は沖縄独立を現実的選択肢の一つと考えるようになってくるかもしれない。
実際のところ、普天間基地一つがたとえ県外や海外に移設したところで、沖縄の基地負担はそれほど軽減されるわけではない。普天間基地問題は「本土対沖縄」という基本問題の象徴にすぎないのである。沖縄の人間が望むのは特別扱いではない。沖縄を養子ではなく本当の子供として認知してくれということなのである。もちろん、佐藤優氏の発言中にもあるように、「日中両属」の歴史が沖縄にはあり、本土支配層の意識や無意識の中に、「あそこは日本ではない」という考えがあったために、現在の沖縄問題があるのだろう。しかし、「日中両属」は、日本の支配層が琉球を経済的に利用するためにそうさせてきたのである。要するに、「宗主国アメリカ対属国日本」のミニチュア版が「宗主国日本対属国琉球」であり、琉球が沖縄になった現在でも沖縄は実は支配層の目からは「異国」なのである。
しかし、再度言うが、現在の沖縄の人間は日本文化の中で育ち、精神は日本人以外の何者でもない。したがって、私は沖縄独立論にはそれほど魅力を感じないのである。たとえ独立によって政治や経済で自由な選択が可能になると言われようが、本土の人間が支配しようが沖縄の人間が支配しようが、支配者と被支配者の関係は変わることはない。かえってこれまで以上に暴虐な政治が行われる可能性だってあるのである。それよりは、2009年の「無血革命」によって日本がこれから変わる可能性に賭けるほうが、まだ期待はできるだろう。もっとも、菅政権はアンシャンレジュームの復活であるという疑いはかなり濃いのだが。
(以下引用。最初の「佐藤」の太字のみ補足。)
佐藤 本来、沖縄にはあまり「沖縄」としてのアイデンティティーは希薄です。久米島であり、座間味島であり、渡嘉敷島といった、島ごとのアイデンティティーは濃厚ですが、沖縄という行政単位に対する帰属意識は希薄なのです。ところが、大江裁判、教科書問題という、本土(内地)から中国や韓国に対するような視座で批判されるようになった結果、「沖縄」という意識が醸成されつつあり、これは、放っておけば、沖縄独立論につながります。私はソ連崩壊の過程でどのようにバルト三国が独立したかを見てきましたが、同じことが沖縄でも起きる可能性があると思っています。その土地のエリート五十人ぐらいが独立を本気で考えれば、独立に振れてしまうのです。知事が総理になりたいと思い、渉外部長が外務大臣になりたいと思い、県会議長が国会議長になりたいと思い、県会議員が国会議員になりたいと本気で思うようになると、案外独立は早く実現します。
外務省というところで行政官をしていた悪い癖で、損得を勘定してしまうのですが、沖縄が独立した場合、尖閣諸島のガス田とEEZ(排他的漁業圏)の漁業権による収入で、クウェートのような国家として、沖縄は独立可能でしょう。そして、そこにほぼ確実に中国が介入してきます。こうした実務的なことも踏まえて、今の一部保守論壇の沖縄に対する態度というのは危険だと思うのです。
――沖縄の独立がありうる、ということですか。
佐藤 そうです。沖縄で気をつけなければいけないのは、あそこには、本土と異なり、易姓革命思想があるということです。もっと平たく言えば、長いものには巻かれろ、という感覚があります。沖縄は歴史的にも、中国の冊封体制と日本の幕藩体制との間で揺れ動いてきました。琉球王国は、幕藩体制のなかでの「異国」だったのです。このため、沖縄の歴史書である『中山世譜』は漢文体、『中山世鑑』はかなを交えた読み下し文で書かれています。このことからもわかるように、歴史も中国と日本の間でふたまたをかけています。日本と一緒にいる方が得だから日本に所属しているけれども、今回のような教科書問題などを契機に、日本と一緒にいてもろくなことはないんじゃないか、天命が変わりつつあるんじゃないだろうか、という流れが起きてもおかしくありません。これをなんとしても食い止めなくてはならない。
大田実海軍中将が玉砕にあたって東京に送った電文は「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜ることを」と結ばれていますが、大田中将が心配していたのは、まさに今のような状況なのではないか。これは情緒的なものというよりも、ものすごく計算されたもので、沖縄を日本につなぎとめておくためには特別の配慮が必要なんだ、ということだと私は解釈しています。
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コメント
1. 意図的な何かを感じぜずにいられない
TVでは特に目立つNHKお天気画像で現れる日本列島地図の縮尺が間違っている。
「琉球列島」と「北海道」の縮尺だけが日本列島に比ベて縮小されていて不自然である。
例えば沖縄本島(沖縄島)だけの南北の長さは九州島の南北の長さ250キロメートルのおよそ半分の107キロメートルはあるが、画面では4分の1の大きさになっている。不愉快だ。
かつて「日本列島の地図と琉球列島の地図各々で縮尺を表示するか、または双方とも同じ縮尺で表示すること」-と、この問題は10年前までには学校教科書でもすでに片付いていたはずだがまた元に戻ってしまっている。
「琉球列島」と「北海道」といえば「独立」がくすぶっているだけに意図的な何かを感じぜずにいられない。
「北海道」については実際の大きさのほぼ半分の大きさのNHKTVの画像なので、これはもう一目瞭然。
参照:http://blogs.yahoo.co.jp/motomurayasuhiko