「私の闇の奥」というブログから転載。記事の書き手、藤永茂氏はたしか、理系の大学教授だった人で、現在、アフリカにおけるアングロサクソン支配の問題を中心に注目すべき記事を多く書いている。オバマの欺瞞性については、彼が大統領職に就いた直後から警告を発しており、世界政治への深い知識と見識のある人物の一人である。権力の飼い犬であるマスコミ知識人とはまったく異なる良心的知識人の代表と言ってよい。長い文章なので、その一部だけを紹介する。
日本の状況、世界の状況に対し、鋭敏な良心の持ち主ほど無力感や絶望感に襲われることが多いようである。私は、「汝の手に堪ゆることは是を為せ」(聖書の箴言より)というモットーで生きており、他人の評判とか評価、他人の愛情、他人の行動はすべて自分の努力ではどうにもなるものではないと思っているから、それらを気にすることもほとんどない。もう一つ、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと」という勝海舟の言葉も私の生活信条の一つである。それが、この世の不如意や不条理から精神を守る秘訣でもある。これを言いかえれば、大昔のアニメ漫画「ポパイ」で、彼が口癖として言っていた「俺は俺さ」ということだ。原文では「私は私が在るところのものである」という言葉だが、それは、他人のことをあんまり気にしすぎるな、ということである。建設的な批判が実を結ぶかどうかは「他人のこと」であり、我々はそれに関与できない。しかし、批判はそれだけでも世界を良くする役に立つのである。
藤永氏も、(あるいは、彼に似た性格の人々も)もう少し気楽にしたらどうだろう。この世は悪に満ちているが、それと同時に様々な善にも満ちているのだから。
(以下引用。記事前文後文省略)
人間そのものに対して決定的な失望を私に与えたのはイスラエルの行動でした。今の若い人々には想像もつかないでしょうが、ナチ・ホロコーストは私の世代の人間にとって大変な事件でありました。人間の残忍性、一つの人間集団がもう一つの人間集団に加えうる言語に絶する残虐の抹消されえぬ証拠であり、その認識にもとづいて、その悪を徹底的に糾弾し、その悪からきっぱりと手を切るという選択以外に人類が進む道はないと、私たちは思ったのです。それは平和主義の考えなどというよりも、もっと実存的な個人的心情のレベルで痛感したことでありました。ところがどうでしょう。シオニズムを信じる人々は、ユダヤ人が受難したホロコースト、あるいは、ショアーは全くユニークなものであり、ユダヤ人以外の人間集団に対してイスラエルがショアーに類似の苦難を与えてもかまわないという立場をとって何ら恥じる所がありません。このことは、パレスチナ人には、イスラエル建国の直後から分かっていたことだったのでしょうが、「アンネの家」などの仕掛けに騙され続けていた愚昧な私がそれにはっきり気がついたのは、この10年ほどのことに過ぎません。残りの持ち時間が少なくなった私がすっかり落胆し、腹立たしい思いに苛まれる最大の理由の一つは此処にあります。
しかし、人間の残忍性について腹の立つことは他にもあります。それは日本人一般の、罪を犯したと思われる人々に対する残忍さです。テレビのニュースでは、犯罪の容疑者のことを伝える場合、ほとんど例外なく、容疑者の男性を「おとこ」、女性は「おんな」と呼びます。私の耳には、これはひどい差別語に響いて仕方がありません。容疑者はあくまで容疑者であるのですから、えん罪の可能性もあります。ただ普通に「その男性」、「その女性」と呼んだらいいではありませんか。腹立て爺として、ついでに申し上げますと、この頃流行のいやな言葉使いに従えば、“呼んであげたらいいではありませんか。” このやにさがった言葉使いが内包する “思いやり”の欺瞞性に私は身震いすることがあります。近頃、もう死んでしまった親が生きているかのように装って、長寿の祝い金や年金を貰い続けるという罪を犯した人々がしきりとニュースになりました。詐欺は詐欺ですから処罰されるべきですが、あれほど大ニュースとして取り上げる必要があったでしょうか。こういう、こそ泥的な罪人たちがマスコミで嗜虐的にいじめられる一方で、大掛かりな公金泥棒は野放しです。
日本の状況、世界の状況に対し、鋭敏な良心の持ち主ほど無力感や絶望感に襲われることが多いようである。私は、「汝の手に堪ゆることは是を為せ」(聖書の箴言より)というモットーで生きており、他人の評判とか評価、他人の愛情、他人の行動はすべて自分の努力ではどうにもなるものではないと思っているから、それらを気にすることもほとんどない。もう一つ、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと」という勝海舟の言葉も私の生活信条の一つである。それが、この世の不如意や不条理から精神を守る秘訣でもある。これを言いかえれば、大昔のアニメ漫画「ポパイ」で、彼が口癖として言っていた「俺は俺さ」ということだ。原文では「私は私が在るところのものである」という言葉だが、それは、他人のことをあんまり気にしすぎるな、ということである。建設的な批判が実を結ぶかどうかは「他人のこと」であり、我々はそれに関与できない。しかし、批判はそれだけでも世界を良くする役に立つのである。
藤永氏も、(あるいは、彼に似た性格の人々も)もう少し気楽にしたらどうだろう。この世は悪に満ちているが、それと同時に様々な善にも満ちているのだから。
(以下引用。記事前文後文省略)
人間そのものに対して決定的な失望を私に与えたのはイスラエルの行動でした。今の若い人々には想像もつかないでしょうが、ナチ・ホロコーストは私の世代の人間にとって大変な事件でありました。人間の残忍性、一つの人間集団がもう一つの人間集団に加えうる言語に絶する残虐の抹消されえぬ証拠であり、その認識にもとづいて、その悪を徹底的に糾弾し、その悪からきっぱりと手を切るという選択以外に人類が進む道はないと、私たちは思ったのです。それは平和主義の考えなどというよりも、もっと実存的な個人的心情のレベルで痛感したことでありました。ところがどうでしょう。シオニズムを信じる人々は、ユダヤ人が受難したホロコースト、あるいは、ショアーは全くユニークなものであり、ユダヤ人以外の人間集団に対してイスラエルがショアーに類似の苦難を与えてもかまわないという立場をとって何ら恥じる所がありません。このことは、パレスチナ人には、イスラエル建国の直後から分かっていたことだったのでしょうが、「アンネの家」などの仕掛けに騙され続けていた愚昧な私がそれにはっきり気がついたのは、この10年ほどのことに過ぎません。残りの持ち時間が少なくなった私がすっかり落胆し、腹立たしい思いに苛まれる最大の理由の一つは此処にあります。
しかし、人間の残忍性について腹の立つことは他にもあります。それは日本人一般の、罪を犯したと思われる人々に対する残忍さです。テレビのニュースでは、犯罪の容疑者のことを伝える場合、ほとんど例外なく、容疑者の男性を「おとこ」、女性は「おんな」と呼びます。私の耳には、これはひどい差別語に響いて仕方がありません。容疑者はあくまで容疑者であるのですから、えん罪の可能性もあります。ただ普通に「その男性」、「その女性」と呼んだらいいではありませんか。腹立て爺として、ついでに申し上げますと、この頃流行のいやな言葉使いに従えば、“呼んであげたらいいではありませんか。” このやにさがった言葉使いが内包する “思いやり”の欺瞞性に私は身震いすることがあります。近頃、もう死んでしまった親が生きているかのように装って、長寿の祝い金や年金を貰い続けるという罪を犯した人々がしきりとニュースになりました。詐欺は詐欺ですから処罰されるべきですが、あれほど大ニュースとして取り上げる必要があったでしょうか。こういう、こそ泥的な罪人たちがマスコミで嗜虐的にいじめられる一方で、大掛かりな公金泥棒は野放しです。
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