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徽宗皇帝のブログ

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前回記事の続き
東京五輪の開催をめぐり、逡巡のうちに日々を過ごしていた僕が、友人の勧めで手にしたのが『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅・山本敦久編、航思社)だった。 
 この本にはスポーツを、オリンピックを、その本質から捉え直そうとする重厚かつ深遠な論考が収められている。どれも読み応えがあり、恥ずかしながら僕はこの本を読んで初めて知った事実がたくさんある。中でも特筆すべきは、オリンピックを真っ向から批判している現役のアスリートがいたことである。ノルウェー出身のプロスノーボーダー、テリエ・ハーコンセン選手だ。

 IOCが国やスポンサー、選手に求める欲求が非常識で受け入れ難いとして、彼は1998年長野オリンピックの出場をボイコットした。スノーボードの歴史や文化に対する敬意が一切存在しないIOCを自分たちは必要としないという意思を表明したのだ。
「オリンピックでは、自分の荷造りすらさせてもらえない。あらゆるメディアを統制したいという理由から、ソーシャル・メディアでさえ自由に使わせてもらえない国もあるようだ。スポンサーにも統制される。急にコカ・コーラやマクドナルドを宣伝しなければいけないことになる。なんでこんなことに付き合わなければいけないのか、僕には理解できない。」

 ここだけを読めば自由への希求が彼をそうさせていると思われるが、本質は別のところにある。次を読めば彼が抱いている危機感の射程の遠さに思いが及ぶだろう。

「(……)オリンピックのせいでハーフパイプは過去十年ほぼ何の変化もしていない。同じ形式で、同じパイプで、選手がどんなことをするのかさえ簡単に予想できてしまう。
 ひどく停滞しているんだ。三位、あるいは三位とは言わずとも、どうしたら入賞できるかを選手達は把握している。アクションスポーツが築きあげてきた自発的創造性がそこには存在しない。」

 スノーボードの一種目であるハーフパイプ全体の競技レベルの停滞を彼は憂いている。その要因として、入賞を目標に、高得点を目指してミスなく滑ることを最優先にするときに失われる「自発的創造性」を挙げ、過度な競争的環境がパフォーマンスの向上を阻害することを危惧しているのだ。
 共同体内での競争相手にいかにして勝つのかに腐心するのではなく、勝ったり負けたりしながら互いに切磋琢磨することで、その共同体が全体としてより高みに至ることを彼は望んでいる。スポーツが単なる精神修養や身体訓練、名声や金を得るための手段ではなく、その本質にあるアートな部分を彼は全力で守ろうとしている。彼が抱く問題意識はとても高い。

 ラグビーにおいても各チームの戦い方が画一化しつつあるように僕は感じている。競争に勝つことだけが主題になれば効率的な戦法が選択されるようになる。リスクを伴うチャレンジングな姿勢はその陰に隠れ、その状態が続けばいつのまにかラグビー界全体がシュリンクしてゆくのは自明だ。戦術の進化と画一化を見極めることは容易ではないが、少なくとも勝利至上に傾きすぎないようアンテナを張っておくことは不可欠だ。テリエ・ハーコンセン氏の言う「自発的創造性」が発揮できる環境を守ること、そのためには関係者一同が目の届く範囲で点検し続けなければならない。
 自発的創造性こそがスポーツ選手にとって醍醐味だ。この意味でスポーツはアートの要素を含んでいる。勝敗を競い合うのはあくまでも副次的なものに過ぎない。

 話をオリンピックに戻す。
 オリンピックが金まみれなのは今さらいうまでもないことで、これをとぼけてみせるほど僕はナイーブではない。ただそれを知った上でもまだオリンピックを支持する人たちはいる。

「それなのに人びとはオリンピックを支持する。なぜか。マネーを手に入れるため、そして手っ取り早く名声を得るためにオリンピックが必要だと考えているからだ。それがたとえ四年に一度、一人か二人の選手にしか起こらないことだと知っていてもそうなのだ。そして、オリンピックがスノーボードを僕たちの手から奪い取ったということを忘れないでほしい。」

 自身が行うスポーツをオリンピックから守るために彼は声を上げた。彼にとってはもはやオリンピックはスポーツの祭典などではない。スポーツの本質であるアート性を稀釈し、スポーツそのものを骨抜きにするイベントとして憎んでさえいる。スポーツとオリンピックは別離してしまったというハーコンセン氏の主張に僕も同意する。

 オリンピックは巨大公共事業の口実となり、国民の税金を堂々と私物化するための体のよい名目だ。国民統制、監視強化、ナショナリズムの動員など、資本家や権力者によって蹂躙されている。「アスリートファースト」という耳当たりのよいフレーズは、これらを隠すために用いられているに過ぎず、競技者なきところでオリンピックは開幕から運営までが決められていくのだ。

 同書の中で池内了氏は「スポーツはもはやオリンピックを必要としない」と述べている。テリエ・ハーコンセン氏の主張と照らし合わせると、これまで抱いていた様々な靄が晴れて腑に落ちる。
 そういえば僕の周りにいる生徒や学生たちは、それほどオリンピックに興味を示していない。個人的な憧れは抱きつつも、ここではないどこかよその世界での出来事かのように現実と切り離して、クラブ活動や各スポーツ活動に励んでいるようにみえる。おそらく彼女たちはスポーツに含まれるアート性に魅力を感じ、「自発的創造性」の発揮を楽しんでいるのだと思われる。

 これからはオリンピックのしがらみがないところで、ラグビー指導やスポーツに関する研究を粛々と行っていくことにする。オリンピックを必要としないスポーツのあり方を模索し、それを発信していきたい。


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