素晴らしい対談で、これほど戦争と人間の関係を深く語った対話は初めて読んだ。もちろん、私の管見の中での話であり、そもそも私は難しい論文など読む能力は無い。
「この世界の片隅に」のラストで、すずさんが、「なぜ最後まで(国民が全滅するまで)戦わないのだ!」と憤激する場面があり、この映画を「反戦映画」であり、すずさんはただの「戦争被害者」だと思っていた観客は驚いただろうし、私も(原作を含め)この場面に非常な違和感を感じたが、それを深く考えなかったのは、それは、自分の愛するすずさんというキャラクターが実は「戦争加害者(遂行者)」のひとりであり、あの戦争を推進した人々のひとりである、という事実から目を背けたかったからだろう。しかし、戦争とはまさにそういうものであり、否応なしに国民全員を「殺人犯(およびその協力者と教唆者)」にするものだ、ということだ。
(以下引用)対談者は富野由悠季と片淵須直。色字部分は徽宗による強調。
――世代を経て作品と思想との関係が変わった。『この世界の片隅に』がそれを象徴する作品であるということがよく分かりました。一方で、その作品に登場するキャラクターの描き方についてはいかがでしょうか?
富野: そういう質問はよく受けるのだけど、ワンパターンで腹が立ちます。なので、とてもイヤな回答を用意しています。これが届くかどうか分からないけれど、気になった人は僕がこれから紹介する本を読んでもらいたいと思います。
ソ連の赤軍にいた女性狙撃兵とすずさんは全く同じだったという感触を僕は持ちました。まさか、自分がそういう見立てをするとは思っていなかったのです。でも映画を観た後で手に入れた本があります。2015年にノーベル文学賞も授与されたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチさんが書かれた『戦争は女の顔をしていない』というタイトルの本です。
この本は第二次世界大戦に従軍した女性兵士、500人以上への聞き取りで構成されています。この本は各論で読んでしまうと、誤読してしまうので、僕の言ったことが分かるようになるためには「全部読め」という言い方をします。まるごと女性兵士の体験談を読むと、すずさんがまな板を持っている場面と、ソ連の女性狙撃兵が同じメンタリティーだということが分かったんです。
本当に「戦争は女の顔をしていない」。戦場の全ての行為が、沢山人が死ぬということも含めて全て男の仕事なんです。その中に女が交じって狙撃兵までやった。彼女たちが守るために戦った共産党体制下の戦後にあっても、優遇されなかった。むしろ「軍にいた女」はやはり差別を受けていた、ということまで明らかにされていきます。つまり、戦争というのはどういうことかというと、全てが男性的な行為のなかで行われていることであって、そんな中、100万人を超える女性たちが「打倒ナチス」や「共産主義礼賛」という信条で戦場に赴いていたのです。
そういう話を我々は一切知らない。女が軍隊にいた、というだけで「お前は軍隊に行って何をしたんだ」「なぜ狙撃兵となったんだ」という問い、つまり慰安婦ではなかったのか、と考える人が未だに多いんです。それはネット上で見つかるこの本を読んだ感想にさえ、そういった偏見に囚われて、メンタルなことをすくい取らない人たちがいるということに気がつきました。
我々の理解力というのはかなり酷いところにあるんですよ。すずさんがソ連の女性狙撃兵と同じメンタリティーを持って、呉の町で戦後まで戦っていた。戦っていたから、最後に喚くワンカット――彼女はうつむいているにもかかわらず、なんとカメラは下から見上げるカットになっている――があるのです。それは、女性兵士が戦後に評価されないという悔しさと全く同じなんです。それは反戦以前の問題なんです。こういう状況に男たちは、おんな子どもも放り込んで、それでも「戦争が正義だ」と平気で言える。そういう男の論理とは一体なんなんだろう。そういうことを『この世界の片隅に』という映画は伝えているんですよ。
「悲惨なシーンを見せること」あるいは「反戦だ! 権力が、ファシストが、ナチスが悪い!」と一杯主張するのが反戦映画・反戦なのか? そうではないんだということをこの映画は教えてくれています。
片渕: 総力戦。すなわち持てる要素を全部使って戦争をするのだという形は、第一次世界大戦で完成されてしまうわけです。そこでは同時に、市街地、一般市民に対する戦略爆撃も始まります。ドイツの飛行船ツェッペリンによるロンドン爆撃があり、それに対する反撃も行われるようになったのです。そういったことを食い止めるために、軍縮条約や不戦条約が結ばれたわけです。
今日本では憲法9条の問題が議論されていますが、これは明らかにパリ不戦条約から引き継いでいる問題です。むしろこれを批准しているはずの他の国が、この条約を履行しないのか、ということの方が問題だと思うんです。
そういった状況のなかで、もう一度それが起こってしまったのが第二次世界大戦です。この大戦は明らかに国家あげての総力戦であり、故に日本では国家総動員法がしかれましたし、その時に大政翼賛会が生まれました。これはそういう国家体制を作るのであれば、ドイツのナチの国家社会主義・ドイツ労働者党のようなものを作ればいいという風な発想が日本の政府のなかにもありました。しかし、これは日本の当時の憲法にも抵触してしまいます。つまり天皇が政治の大権を持っている時に、一党独裁は難しい。なので、大政翼賛会は政党ではなく「会」として成立させたわけなんですけれども、それは末端まで多くの組織を持っていて、大日本婦人会というがその1つなんです。
すずさんは、劇中ではよく割烹着を着た姿で登場するのですが、これは普通の家庭で着ている割烹着なんですけど、汚れ仕事をするための服装であるので、柄物とか色物の割烹着を自分たちで作って着てるんです。でも例外的に白いものを着るときがあって、それはこの「婦人会」の活動をする時に、皆で揃いで着ることになっている。つまりあれは、一種の制服であるわけなんです。
その時に、「大日本婦人会」と書かれた襷(たすき)をかける。劇中でもすずさんがもちろんその格好をして、なおかつ、近所の若い人が――彼はまだ17歳なんですが、本土決戦の兵力が足りないために、徴兵年齢が二十歳からどんどん引き下げられて根こそぎ動員された人なんですが――彼を見送るために日の丸の旗を持っていくんです。
つまり彼女は、明らかにそういう体制の一部であるわけです。当時の日本国内はいろんな職業が男性によって維持できなくなっています。男性が兵隊に行くことによって穴が空いてしまいますから、いろんなものが女性で埋められていくように、法的にも整備されています。男性の新規就労を禁じて、女性に道を空けるといった具合に。例えば電車の運転士であったりするわけで、劇中でも広島・呉の電車が出てきますが、女性の車掌だけでなく、女性の運転士も登場します。ラジオ放送のアナウンサーも男性から女性に切り替わっていきます。こういう女性たちが、戦後どうなったかというと、終戦と同時に男性が復員してくると職を奪われるわけです。そうやって、いろんなものを男性と同じようにして………それはつまり国家の一部なんだから、国家そのものが戦争をするんだからといって、戦わされる中に、自動的に「すずさん」という存在が組み込まれていくのは必然なんです。
ただ、すずさんもそうですし、その他の人もそうなのかも知れないんですけど、そこまで強い意識があったのか? という部分は曖昧かなと思います。彼女はどこかで自分を守るため、防衛するために、「こういうことをするのが、自分の戦いなんです」という言葉をいつしか吐くようになっていっている。その結果として彼女は終戦の時に、いつの間にかそういう言葉を吐き、そういう立場にたってしまった自分が――僕はある意味でいうと、そういう部分ではすずさんに肩入れしているところがありますが――薄みっともなかったので、泣いたんだろうなっていう風に思ったんです。
富野: 間違いなくそうだと思います。戦時下で窮乏生活が始まってきたなかでの、女性たちの意見のあり方というのは、かなり今で言えば「右翼的・国家的」です。僕の祖母も「大日本婦人会」の襷をかけた写真が何枚も残っています。そういうものを見ていた時に「ああ、彼女たちも自信を持って協力をしている」という姿が窺えます。それは軽薄なのか、という話に関していえば、そうだとは思えないのです。先ほどソ連の女性兵士のこともお話ししましたが、その本の中で女性兵士のほとんどが徴兵ではなく志願兵だったことが明らかにされています。そのくらい、ファシストに対して戦わなければ、ソビエトという国が滅んでしまう、という思いで必死になっていた。国を守るという意思に本当に燃えていたんです。なぜそう思えるようになったのだろうか、という問題はあります。その問題とは、すずさんが生まれ育ったあの時期というのが、第一次世界大戦後の軍縮というものがありながら、軍縮で協定を結んだために、呉で軍艦が作られることがなくなった時代なので、失業者が増えたんです。
片渕: あの家族はそれで「困ったねえ」って。
富野: そういうこともちゃんと描かれてますよね。そう考えていくと、国家運営――統治をするというのはそう簡単なことではなくて、やはり世論が軍縮をなぜ受け入れてしまったのかと、当時の外交官は袋だたきにあっています。つまり、今のトランプ支持派と反対派の間での対立のように、なぜそんな軍縮に応じてしまったのだ、日本は一等国から三等国になってしまった、といった世論があるのです。その世論だけを取っていくと、トランプ大統領が成立するんですよ。かつて日本はそういう時代もあったわけです。呉で産業がなくなってしまったら、皆が失業し、食えなくなってしまうだろう、というのはひょっとすると戦争をやる以上に酷いことなのかも知れない――そういう民意もあるわけです。その民意を非難できるか? と言えば、できません。だから本来はその前の時点から、そんな民間人が出てこないような、政治・経済の成り立ちをしなければならない。ものすごく簡単に言えばそういうことなのですが、第一次大戦から第二次大戦の合間の時期に、それができたのか? ということに関していえば、かなり難しかったのかも知れないとは思います。経済論の観点からすれば、日本はアメリカと戦争をするというところまで踏み切らざるを得なかったのかな、という国際情勢論もあるかも知れません。
だけど、やはり一番問題なのは、「経済が大事なんだ!」ということが、軍事産業を勃興させることになり、呉の人たちを食わせるようにすることが、次の戦争を呼ぶという風になったという流れで理解すると、「私は戦っていたんだ!」とすずが最後の土壇場で言うのは、負けそうになったからそんなことを言っているんだろう、という言い方もできます。
それもこれも「反戦思想」という言葉遣いを含めて、我々が戦争をしないためにはどうしなければいけないのか、ということを考えると、とても難しいことであると同時に、「戦争は女の顔をしていない」というタイトルが持っている意味を改めて考える必要があると思うんです。つまり、戦争という局面に入りそうになった時には、きっとそこには女性的な論理というのは入らなくなって、女性でさえも男にならざるを得ない。男の論理をもって戦わざるを得ない。僕の祖母も大日本婦人会に、リーダーとして参加していた立派な女性でした。このおばあちゃんの言説に則った時に、映りの良い写真が撮れる、といった状況が見えてきた時に、その婦人に対して「馬鹿か」と言えるか? そう簡単にそうは言えないし、右翼に染まって! とも言えない。つまり、そこに至るまでの統治の問題、そして国際関係の問題を考えないといけないんだ、ということです。「国際関係の問題」と言った瞬間に、我一人だけではないんだ、相手がいて、交渉相手がいてのことなんだ、という風に考えなければいけない。つまり日露戦争に勝って以後の、近代の日本において既得権益者と政治家たちが、どのようにものを考えていったのか、ということを追いかけていくと、まあ「むべなるかな」という部分と、「むべなるかな」ではない部分があるのだけど、少なくとも我々は第二次大戦が終わるまでのインテリジェンスをもってして、これ以後の統治・国際関係を考えてはいけないんだ、もう少し違う形で考えなければいけないんだ――つまり「女の顔」をもって考えなくちゃいけない、と教えられます。
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