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徽宗皇帝のブログ

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商業スポーツとオリンピック
広尾晃というスポーツライターのブログから転載。最初の一段落はサッカーと野球の話で、大筋であるオリンピックの話から少しずれるのでカットした。文章を書いているうちに、途中で思いついたことの方に興味が移ってしまうというのはよくあることで、私は小論文指導をしていた時は、全部書き上げたら、最初の一段落は思い切ってカットしてみるというのを勧めていた。書き出し部分は興が乗らない段階で書いているので、たいていはつまらない内容なのである。まあ、ブログの文章など頭の中の架空の相手とのお喋りの文章化にすぎないのだから、どうでもいいのだ。

下の文章を書いた気持ちはよく分かるし、オリンピックへの批判もその通りなのだが、資本主義社会ではすべてが金儲けということに収斂する運命なので、無駄な批判だと思う。当初のオリンピックが持っていたアマチュアリズムの墨守というのが、つまりは金儲け主義を入れない、ということだったのだが、その理念を取り戻すというのはオリンピックでの金儲けをやめろ、という主張なのであり、それは無駄な抵抗だろう。それに、オリンピックや商業スポーツそのものをいずれ人々は見放すだろうから、あまり焦ることはない。





(以下引用)




オリンピックには、オリンピック憲章という立派な条文がある。これは、いろいろな言葉がたくさん並んでいるが、大変複雑で、コンセプトに当たるものがなになのかはよくわからない。
しかし近代オリンピックの創始者クーベルタンは、こう述べている。

「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」

「参加することに意義がある」は、クーベルタンのことばではないとされるが、上のことばから導き出される「意義」ではあろう。

「差異を超える」「理愛し合う」「平和でよりよい世界の実現に貢献」というオリンピックの「理想」は、とっくに失われ、世界最大のイベントに成長するとともに、今ではアスリートによる国家間の「代理戦争」に成り下がっている。

理想と現実はもとより違うものだ。「何をきれいごとを言っている」と言われるかもしれないが、どんな事業でも「コンセプト」を見失うと、迷走するものだ。今の五輪は迷走状態にあると言っても良いのではないか。

もともとの五輪の考え方に代わって、あたかも正当性があるように言われ始めたのが「国威発揚」だ。国の威信を高め、国民を元気にするということだが、要するに「自慢をする」ということだ。
今の日本人は、インスタ映え、自撮り、などどうでもいいことを、臆面もなく自慢するようになった。みっともないことだと思うが、そういう国民性に変質したから「国威発揚」がますます大好きになった。躊躇がなくなった。
今のバカ騒ぎの背景には、自己愛が強く、承認欲求が異様に高まっている今の日本人のメンタリティがあるのだろう。
甲子園に行っても、プロ野球を見ても、そういう人が実に多いことがわかる。

これはオリンピックの精神とも、スポーツとも何の関係もない。もっとスポーツそのものを見つめるべきだ。そして勝者をほめちぎるだけでなく、敗者も含めた競技そのものを冷静に評価すべきだろう。

もう一度、五輪の「理念」「理想」を取り戻す必要があるだろう。



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