では、なぜ権威と権力が大嫌いな日本人が、あれほど権威と権力に弱いのか。これは、明白に自己保身のための「面従腹背」なのである。本気で尊敬も尊重もしていないが、偉そうな存在には頭を下げておく。日本人とはそういう「リアリスト」であるわけだ。キリスト教を信じてなくてもクリスマスという行事は採用し、神道を信じてなくても初詣には行く。仏教を信じてなくても葬式はお寺に頼む。それは、すべて「そうしとけば安全だしメリットもある」からにすぎない。
これは、不正直そのものであり、いわば生活が欺瞞の上に成り立っているのだが、社会の中で生きるというのは、もともとそういうものであるわけだ。だが、そうした社会から生まれないものは「革命家」であり、生じないものも革命である。つまり、日本人は賢いからこそ、すべて「予測」して行動してしまい、なかなか冒険をしない。突出した偉人は出にくい民族だろう。
(以下「in deep」から引用)*「神戸だいすき」記事に一部載っていたので所在を知った。
このダントツぶりは、すごいと思いませんか?
日本は、「権威や権力が今より尊重される将来が来ること」について、
・良いと思う人 → 4.7 %
・悪いと思う人 → 76.1 %
という、他のどんな国とも比較にならないほど、「権威と権力が嫌い」なのです。
2位は、「スウェーデンの憂鬱」について書きましたこちらの記事で取り上げさせていただきましたスウェーデンですが、それでも、
・良いと思う人 → 22.5 %
・悪いと思う人 → 50.2 %
と比較にならない差です。
(中略)
第二次大戦後に西洋人主導で進められた現在の日本社会のスタイルは、私たちに合っていない。
権威と権力が大っ嫌いな私たちには合っていない。
少なくとも、戦前は「権威と権力が大っ嫌い」という考え方に則って日本人が生きていたことは、渡辺京二さんの『逝きし世の面影』などにも数多く出てきます。
たとえば、19世紀には西洋では「権威の頂点」だった「宗教」というものに対しても、日本人は以下のようなものでした。
渡辺京二著『逝きし世の面影』より
1871年に来日したヒューブナーはこのように記した。「私はこの国(日本)の有力者たちに信仰を持っているかどうか幾度も尋ねてみた。するといつも判で押したように、彼らは笑いながら、そんなことは馬鹿らしいと答えるのだ」。
バードは1878(明治11)年の東北地方縦断の際、久保田(現秋田)の師範学校を見学したが、校長と教頭に対して生徒たちが宗教について教えられているかどうか尋ねると、二人は「あからさまな軽蔑を示して笑った」。
「われわれには宗教はありません。あなたがた教養のおありの方々は、宗教は偽りだとご存じのはずです」というのが教頭の答だった。
リンダウは、「宗教に関しては、日本人は私の出会った中で最も無関心な民族である」と言う。日本には数多くの寺社があるにもかかわらずそうなのである。
日本では僧侶は「いかなる尊敬も受けていない」。
仏教と神道の区別もはっきりしない。民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」。しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。
何に対しても、権威には、この態度だったと思います。
(徽宗注:容量のため以下省略)
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