まさに、ここに書かれている通りで、権力というものがいかに恐ろしいものか少し知るようになると、権力者と非権力者とは「身分が違う」ようなものだ、とすら思える。
権力の末端にいる人間ですら、非権力者に対しては、武士と町人くらい違う。いや、実際、公務員というのは自分たちを「武士階級」と考えているのではないかwww だから、その「武士特権」に文句をつけられると激怒し、報復するのである。「切り捨て御免」の世界は、実はまだ続いているのだろう。
その「身分階級の違い」を一般人がもっとも感じるのが、警察に対してである。権力の恐ろしさを体現する存在だ。
しかも、これからは「共謀罪」が成立し、どこかに散歩や花見に行っただけで「犯行現場の下見」である、とされて逮捕処罰されかねない時代が来る。
(以下引用)
自分のやっているネットラジオでもさんざんに語ってけれど、『桶川ストーカー殺人事件』という本を読んでわなわなとなっていた。警察の横暴を綴った実録本である。なので、続けて、同じ清水潔記者の書いた『殺人犯はそこにいる』という本も注文して夢中で読んでいたのである。
ここで詳しくこれらの本の内容を説明することはしない。前述のネットラジオを聞いていただければ『桶川ストーカー殺人事件』の本の概要は知っていただけるだろうし、『殺人犯はそこにいる』につても、また機会があればお話しようかと思う。
この両方の本に共通して徹底的に描写されているのは日本の警察の偉さである。
偉いといっても、偉大であるとか、立派であるとか、尊敬に値するなどといったものではない。
日本の警察は、ただただ偉いということだ。
警察がクロといったものはクロになる。そして警察が悪と決めたら最後、証拠がどうあれ悪なのだ。容疑者といっても、容疑者とされている根拠すら希薄な相手に、平気で拷問のような取り調べを行ったりする。そのうえで罪悪感もゼロ。疑われる方が悪いってなもんである。
警察官と関わりになって、多少なりとも理不尽な目に遭わされた経験のある人間ならば、おわかりかと思うけれど、一般市民としては警察に逆らうことなんてまるで出来ない。
そのほとんど逆らえない事に挑戦し続けているのが『桶川ストーカー殺人事件』や『犯人はそこにいる』の著者の清水記者である。それがどれだけの労力を払わなければならないことなのかは、著書の内容から切々と伝わってくる。そしてそれでも警察権力に完全に抗うことは無理なのである。
そもそもなんで警察官というのはこれほどまでに偉いのだろうかと単純に疑問だ。警察官だけではなくて、検察官も、裁判官もであるが。
ようするに、政府から、何某かの権限を与えられている機関というのは、それだけで偉いということなんだろうけど、権限というのはそれが大きければ大きいほど、行使には慎重になるべきなのが、本来のあるべき姿なのだと思う。ところが、その権限を、自らの利益の誘導に行使するならば、それはそくざに強大な権力になる。
人間はそれほど立派な生き物ではないから、わりと簡単に権限を行使したりしてしまう。だから日本という政府の中にはたくさんの権力集団がいて、お互いの縄張りを守るために睨みを効かせているというよろしくない状態が生まれている。その中でも警察権力というのは相当に強力であるし偉さの上位にいる。
なにせ前述の本の中にもあるのだけど、本部長クラスが登場すると、即座に会話の舞台が銀座の料亭とかになる。
我々は「県警のトップとかなんだからそらそうだろう」とか普通に考えがちだけど本当にそうか?
なんで「国の法律を取り締まる仕事を担っている組織のかなり上の方の階級にいる」というだけでそんなに優遇されなくちゃならんのか。ほとんどの国民が一生涯縁のないであろう銀座の料亭で接待されるのが、本部長なら当たり前というのは一体何なのか。
解釈としては、本部長なんてのは、警察という権力組織の大幹部であるから、たいへんな権力者であるから、これの機嫌を損ねてしまうととんでもない事になりかねないということだ。つまり、警察ってのは、与えられた権限を、好き放題に振りかざして当たり前、という感覚を国民が普通に共有しているってことだ。
だから、ちょっとでも利にさとい人間ならば、警察関係者を、平民よりも十段も二十段も上に置くわけだ。
まるで時代劇における牢名主である。
まあ、もっといえば、時代劇に出てくる奉行所の与力や同心なんかでもあるのだけど。
与力や同心ってのはお侍である。かつては、お侍は、農民や町民よりも上の存在として法で規定されていた。与力なんてのは、お侍の中でも上位に位置する旗本であったりするわけなので、農民にとっては神の如き偉さである。そういうのが規定されているのが身分社会である。
現代的な法律のなかでは、警察官は平民よりも偉い存在であるとはどこにも規定されていない。
ただ権限が与えられているに過ぎないのだが、その権限の行使によって、平民よりも常に上位に位置できるとしたら、それはもう平等でも何でも無いんじゃないかと思えるのだけど。
もちろん現代社会において「平等の達成」なんてものは、いまだに実現していない永遠の事業であることはわかっている。
けれど、建前や理想としても平等なんてのはなくて、「警察の偉い人」にはへーこらするのが普通。警察本部長は銀座の料亭が普通。なんて感覚は、なんだかなあと思うのであるけど。合法ヤクザなんていう言葉が生まれるのは必然なんではないか。
アメリカの警察官が「危険な犯人を射殺しても良い権限」を拡大行使して、気に入らない(有色人種など)を平気で射殺するなんて話もすごく怖いけれども。
ここで安易に「アメリカに比べたらマシ」なんて結論に至っては何も見えなくなるわけで。
(徽宗追記)参考までに
たけたけ @taketake1w 4分前
#共謀罪 (#テロ等準備罪 ) 元検事の#落合洋司 弁護士 「サイバーテロも現行法改正などで対処できる。共謀罪がないと取り締まりに穴が生じるという状況ではない。逆に共謀罪があってもテロの未然防止には役に立たない」pic.twitter.com/y0aakVumgs
#共謀罪 は危険な戦前回帰! 《戦前のように、人が集まって話し合うだけで罰せられる社会につながりかねない。 新たな「共謀罪」を柱にした組織犯罪処罰法改正案がきのう閣議決定された。戦後民主主義社会の基底にある内心の自由を危うくする恐れを拭いきれない》 今朝3/22京都新聞社説より
- 戦前戦時中の治安維持法でも政府は一般国民には適用するはずないと言ったナチスドイツの時も一般人には適用しないとヒトラーは言ったしかし最後はドイツの右翼でさえ迫害を受けた。 右も左も関係無く降りかかる。
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