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徽宗皇帝のブログ

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異常なメリトクラシー(能力主義)が過当競争と庶民貧困化と差別の温床
「春曲丼より混沌丼」から転載。
実に好記事で、私はマーク・サンデル教授という人物には関心が無かったが、これほどまともな考え方をする人物だと初めて知った。
ただ、毎度のことだが、記事タイトルを無理やりに天皇否定の言葉と結びつけると、どういう記事内容なのか見当もつかず、読まないままに終わってしまう。これは私が尊皇主義(であると同時に尊全人民主義でもある)だからというだけのことではない。

(以下引用)


ヤフーニュース より
上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
サンデル教授「バイデンが大統領選で勝っても、根本的な問題は消えない」
・・・中略・・・
サンデルの新著『メリトクラシーの暴政』(未邦訳)は、ここ数十年の革新派の政治を率いてきた人物たちにとって「心に響く」というよりも「耳が痛い」内容だ。サンデルに言わせると、革新派の政治家がグローバル化に対応するにあたってメリトクラシー(能力主義)の文化を持ち上げてしまったせいで、労働者階級の人々が当然のごとく怒りを抱き、それが今回のパンデミックへの対応も含め、惨憺たる結果を招いてしまったという。
格差が拡大し、社会移動が停滞するなか、「誰でもトライすれば成功できる」という呪文を唱える罠にはまってしまったわけだ。
サンデル教授に言わせれば、能力主義の文化は、勝ち組を傲慢にし、置いてけぼりにされた人たちに対して優しさを示さない社会を作ってしまったという。見下された人たちの不満と怒りから世界各地でポピュリズムの抗議運動が起き、それがトランプ政権を出現させたというわけだ。
サンデルが提言するのは、成功と失敗の概念を再考することだ。社会が分断され、人々がそれぞれの狭い世界で暮らすようになっているが、謙虚な姿勢をつらぬくことで、民主主義の経験をともに分かち合えるようになるはずだと語る。
・・・・・・中略・・・・・・
エリートは労働階級の人々を見捨てた
──パンデミックに対応する心構えが整っていなかったと指摘されています。どういう意味ですか。
かつてないほど社会が分断され、バラバラになっているときにパンデミックに襲われたからです。市場を重視する新自由主義的なグローバル化が40年続き、格差はとんでもなく大きくなっていました。成功と失敗に関する社会の見方のせいで、勝ち組と負け組の間に深刻な分断もできていました。
パンデミックでは、私たちがお互いを必要としており、高いレベルでの社会的連帯が必要だということを再認識させられました。しかし、社会に深い分断があったので、連帯心を発揮してパンデミックに効果的に対処することはできませんでした。
初めの頃は、「みんなで一緒に力を合わせよう」といったスローガンが連呼されていましたが、みんなで一緒に力を合わせたわけではありませんでした。ウイルスが広まっていくにつれ、最も多くの負担を強いられている人たち、より大きな犠牲を払っている人たち、最も多くの人命を失っている人たちというのは、過去40年間の経済発展のなかで置いてけぼりにされた人たちだったことが、だんだんと明らかになっていきました。
──グローバル化で勝ち組になっていた人たちは、ある意味、パンデミックの前から社会的距離を確保していたといえますよね。
そうなのです。グローバル化で勝ち組になった人たちは、パンデミックの前から、大勢の人が集まる場所や公共サービスの場、民主主義国の市民として集う公共空間に姿を見せなくなっていました。その意味では、すでに社会的距離を確保していたのです。
学校や公共交通機関、文化施設やレクリエーション施設などの普段の生活の場で、異なる階級の人々が同じ場所に集まる機会がどんどん減っていました。
──新自由主義的なグローバル化が推し進められた結果、エリートへの反発が高まり、それがトランプなどのポピュリズム運動の基盤になっていると指摘されています。
けれども、こうしたポピュリズム運動をよりよく理解するには、エリートたちが、繁栄から置いてけぼりになった人たちを見捨てた事実を押さえることが大事だとのことですが、それはどういう意味ですか。
人に対する態度を変えるのは、資産格差の問題をどうにかするのと同じくらい重要です。社会の頂点に立った人は、自分が成功できたのは自分の実力だと考えがちです。実力で成功したのだから、市場社会が成功者に配分するものを受け取って当然だと考えるのです。それは置いてけぼりになった人たちは自業自得だとみなす見方にもなります。
エリートから、そんな風に見下されれば、労働者階級の人々の怒りと不満が大きくなるのは当然でした。正当でもありました。ただ、その怒りと不満を利用し、人々の最悪の感情に働きかけた政治家がいたのです。
外国人嫌悪や超国家主義といった醜悪な感情に働きかけ、トランプの場合はそこに人種差別が追加されました。トランプなどの発言が醜いせいで、トランプなどを支持する人たちの訴えが正当だということになかなか気づけていません。
──主要政党、とりわけ中道左派の政党が、人々が抱えるこの正当な不安を感じ取れていなかったのですか。
人々の不満、怒りの文化的な要因に気づけていませんでした。労働者の高まりゆく怒りと不満の声が耳に入っていませんでした。グローバル化の唯一の問題点は、勝ち組から負け組への所得再配分が不充分なだけだとみなしていたところがありました。
しかし、これは単に正義と再分配の問題ではないのです。これは社会から承認されたい、社会的に尊重されたい、という問題でもありました。
 
成功の意味を再考すべき
──能力主義には暗黙のうちに人を見下すところがあったということですか。
能力主義は一見、魅力的な思想に思われました。それによると、グローバル社会で成功するのは、大学の学位を手にし、グローバル経済で競い、勝つための備えをした者、ということになります。ただ、高等教育を受ければ人は出世できると強調し続けたことには、暗黙の侮蔑もありました。
大学の卒業証書がなくて、新しい経済で活躍できていない人がいたら、それはその人の責任だということになってしまうからです。文句を言うなら自分に言いなさい、というような言い草です。
もちろん、中道左派の政党は、そんな言葉遣いをしていません。しかし、高等教育を受ければ人は出世できると強調することで発信していたメッセージは、まさにそれでした。米国では成人の3分の2が学士号を取得していない事実を考慮していませんでした。中道左派政党は、暗黙のうちに人を見下していたことに気づけず、いまその代償を払っているのです。
──低学歴者の蔑視は、最も許されてはならない偏見なのでしょうか。
低学歴者が、自分たちはアフリカ系米国人よりも差別の被害に遭っていると言うのは正当化できません。アフリカ系米国人は、いまも人種差別と人種隔離政策の負の遺産と闘っているわけですからね。しかし、労働者階級の白人男性は、社会が自分たちを尊重しなくなったと感じているのです。
──ヒラリー・クリントンに「嘆かわしい人たち」と言われていましたからね。
その通りです。クリントンのあの発言は重大な過ちでした。たしかにトランプは「嘆かわしい人間」です。しかし、トランプに投票した人の多くは、正当な不満を表明した人たちでした。
革新派は、トランプとその支持者を分けて考えなければなりません。オバマ(に2度投票した後、トランプに投票した人も多いのです。なぜなら、最初の頃のオバマは、従来の政治とは異なる別の政治をしてくれる政治家だと思われていたからです。
──成功の意味を再考すべきだということですが、まずどこから手をつけるべきですか。
まずは文化からです。人に対する態度を変えるのです。政治ではなくてね。成功者は、本当に自分の実力だけで成功したのかを問い直さなければなりません。もしかしたら、自分が育った地域社会、お世話になった教師、祖国、人生の巡り合わせ、要するに「運」による部分もあったことを忘れていないでしょうか。
人生において好運がいかに重要なのかがわかれば、謙虚な心も持てるかもしれません。いまの問題の一部は、能力主義の仕組みでエリートになった人たちに謙虚な心が欠けているところです。私はそれを「能力主義の傲慢」と言っていますが、その傲慢さに挑むのが重要な第一歩です。
──でも、どうやってそんなことができますか。
民主主義国の市民が分かち合う公共空間を作り直さなければなりません。民主主義国に相応しい暮らしに必要な市民のインフラを作り直し、階級が異なる人や生活条件が異なる人と出会えるようにするのです。市民社会を刷新して、活性化させていくのです。自分たちだけの狭い世界を壊して、ともに民主主義を実践していくのです。
──このパンデミックでは、一部のエッセンシャル・ワーカーの仕事の価値が認められました。これが労働の尊厳を回復するための一歩になるでしょうか。
その可能性はあります。なぜなら私たちは──なかでも在宅で働ける人たちは、リスクにさらされて働く人たちに、どれほど頼っているか、ということに気づかされたからです。
配達員や介護士、スーパーマーケットの従業員、清掃員、病院スタッフ。そういった仕事のステータスは必ずしも高くありません。もしかしたら、そうした仕事をする人たちの貢献の社会的価値を考え直すときがきているのかもしれません。
──能力主義はいいものだとされていますが、英国の社会学者のマイケル・ヤングが50年前にメリトクラシーという言葉を造語したときは極めて否定的な意味合いの言葉でした。なぜこの能力主義の概念が変質していったのですか。
面白いですよね。ヤングがメリトクラシー(能力主義)という言葉を初めて作ったのは1958年でしたが、これを理想の仕組みとして描くつもりはありませんでした。最初から、この仕組みの悪い部分が見えていたのです。
しかし、やがて政治家たちがこのメリトクラシーという言葉を使うようになり、あたかも能力主義が理想の仕組みであるかのように喧伝したのです。
レーガン政権以降、米国では、民主党も共和党も、私が言うところの「上昇のレトリック」を使ってきました。英国では、トニー・ブレアがわざわざメリトクラシーを理想に掲げました。オバマも「トライすればきっとできる」という表現を何度も使いました。
人を鼓舞し、人が成功するのを後押しする言葉であるかのように思えたのでしょうが、能力主義の闇の部分が見えていませんでした。私の狙いは、とりわけ革新政党に、そのことを見逃していた事実を気づかせることです。そして、それを理解できない限り、民衆の怒りを利用するポピュリズムに対抗できる政治を用意できないことをわかってもらうことです。
──トランプ政権誕生の前から民主党の支持層は労働者階級というよりは高学歴エリートになっていました。
政党の支持基盤の変化は興味深いです。社会民主主義の政党は本来、労働者と中流階級のための政党であり、彼らに支持されていました。従来は、富裕層と高学歴層が共和党に投票し、労働者が民主党に投票する傾向があったのです。
それが70~80年代から変わりはじめ、90年代の時点で、ビル・クリントンとトニー・ブレアが新自由主義的なグローバル化や金融の規制緩和を推し進めるようになっていました。その時点ですでに格差は拡大していたのですが、クリントンもブレアもそれを気にかける様子がありませんでした。
中道左派の政党は次第に、高学歴の官僚やビジネスエリートの価値観に自分たちを合わせていき、労働者階級の支持を失ったのです。いまでは大卒が民主党に投票し、低学歴者がトランプに投票しています。教育が米国政治を分断する最大の要因になっています。
──オバマが金融危機に対処したとき、ウォール街に怒りを示すのではなく、ウォール街への怒りを黙らせようとしていたところがあったと指摘されています。
オバマはクリントン政権時代に金融業界の規制緩和を進めた経済顧問を呼んで、金融危機に対処しました。根本的な問題を問わなかったのです。民主党政権がウォール街にやさしい対応をしたことに、右派・左派を問わず、多数の人が失望しました。
右派の間ではティーパーティー運動が始まり、左派の間ではオキュパイ運動が起こり、最終的にはそれがバーニー・サンダースの運動につながりました。この過ちがオバマ政権の残りの期間に影を落とし、トランプ大統領誕生の道を準備したのです。
──現時点では、民主党は「自分たちはトランプとは違うよ」としか言っていないように思えます。
たしかに、いまとは異なる選択肢として提示されているのは「私たちはトランプとは違います」ということだけです。もちろん、いま私たちが直面している危機のことを考えれば、それだけでも充分に魅力的ですけれどね。助かったという気持ちになれますよね。
しかし、それだけでは長期的には、革新派の政治を刷新していけません。仮にバイデンが大統領選で勝っても、根本的な問題が消えるわけではありません。
──民主党の大統領候補としての指名受託演説でバイデンは、メリトクラシーについて少し言及しました。「人には、それぞれの夢を、神から与えられた能力が許すかぎり追い求めるチャンスがあるべきです」と言いました。
それは昔から使われてきた言葉です。それ以上のことを言わないと、グローバル化から取り残された人たちに効果的に話しかけられていないという民主党の問題を克服できません。
──才能さえあれば出世できるという「社会移動」の観念はアメリカ人のアイデンティティの一部になっているように思えます。しかし、じつはこれはそれほど歴史のある概念ではないそうですね。
そうなのです。この考え方こそアメリカン・ドリーム的だと考えがちですが、じつはこの社会階層を上がろうとするレトリックが目立つようになったのは80~90年代からです。
それ以前では、アメリカン・ドリームといえば、条件の平等が広くいきわたっていることでした。市民が公共の空間に集まり、お互いに敬意を示すことでした。その頃のアメリカン・ドリームは寛大だったのです。ところが、この40年で、それが個人の立身出世だけを語るものに収縮していってしまったのです。

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