忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

終戦宣言後に起こった戦闘(樺太地上戦)と、住民の大量死
「逝きし世の面影」から転載。誤字は原文(NHK自身の番組要約か)のまま。


(以下引用)



(資料として全文掲載)
『NHKスペシャル 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』 8月14日 NHK

北海道の北に広がる大地サハリンは、かつて樺太と呼ばれる日本の領土だった。炭鉱や製糸業が栄え全国から人々が移り住んだ。昭和20年の夏、人口は40万に達していた。終戦後の8月20日にソビエト軍から艦砲射撃を受けた。3万5000人のソビエト兵が進行し住民を巻き込む地上戦が終戦後7日間も続いていた。樺太戦の犠牲者は5000人とも6000人とも言われている。その多くが民間人だった。日本軍の側も武器を捨てず樺太死守を掲げ戦った。十分な兵力が無い中、住民たちを戦闘員とし最前線に立たせた。若い女性の服毒自殺や家族の集団自決なども相次いだ。

北海道北部の占領を求めていたスターリンに対し、トルーマンはこれを拒否した。樺太師団は樺太死守の命令を守り戦闘を続けていく。8月20日、ソビエト軍は樺太で最大の上陸作戦を敢行。そのときの映像がロシアの資料館で発見された。家族6人で引揚船を待っていた藤谷さんは当時の体験を話した。樺太師団の鈴木参謀長はソビエト軍との交渉に臨んだが決裂。停戦の機会を生かせなかった。

太平洋戦争末期、アメリカを中心とする連合国と絶望的な戦いを続けていた日本。8月9日にソビエトが日本に宣戦布告し満州に進行を開始。南樺太でも戦闘が発生した。現在、北海道・札幌に住む山崎忠明さんは、樺太南部に住んでいた頃の思い出を語った。ソビエト軍の空襲で父を亡くし「下半身がなかったということだけは鮮明に覚えています」と話す。なぜ終戦後に多くの命が失われることになったのか。日本とロシア各地の公文書館で資料を発掘し、かつて樺太に住んでいた人を探し出し悲劇の真相に迫った。

真岡にはソビエト兵がなだれ込み、住民の集団自決が相次いだ。藤谷さんは付き合いのあった一家の自決を目撃した様子を語った。真岡の背後の熊笹峠には200人以上の日本兵がいたが、軍は豊原への進行を食い止めることを優先。住民を守ることはなかった。元軍曹の熊谷さんが当時の軍の方針を語った。置き去りにされた住民はソビエト兵の蹂躙を受けた。

8月16日。西海岸の町「恵須取」では幸福を受け入れた日本側が先制攻撃を仕掛けていた。上陸してきたソビエト兵にはまったく戦う姿勢は見られなかった。大槻順治元2等兵は「砂浜に上がって安心して鼻歌交じりで来るでしょ。それを撃つんだからもう余裕簡単なもんだよね」と当時を語った。この日本軍の攻撃が引き金となった。実は大槻さんはこの時、終戦の事実を知らされていなかった。恵須取では大規模な停電が発生し人々は玉音放送を聞くことができなかった。大槻さんは「一番大事な終戦のね その一言が入ってこないということはどういうことなんだって、ちょっと考えつかないんだね」と憤りを露わにした。

当時真岡に住んでいた松下さんの姉は、ソビエト兵の上陸直後に自決した。真岡郵便局に勤めていた姉を含む9人の女性が、職場で用意されていた自決用の青酸カリを飲んだという。その日、真岡では1000人が死亡。その後、師団本部のある豊原も空襲を受けた。樺太戦の犠牲者は5000人以上にのぼる。

樺太師団の本部に、終戦後にもかかわらず樺太を死守せよとの命令が届いた。武装解除の準備を進めていた鈴木康大佐は命令を受けた時の戸惑いを「泣いて終戦命令を下し各隊が涙と共に実行中の16日午後 軍命令が届いた。今頃何事ぞと怪しみ考えてみたが合点がいかない。電話で作戦就任に尋ねる。はっきりした回答は得られない」と綴っている。終戦直後に樺太死守がを突きつけた住民は戦火へと追い込まれていく。

8月22日、ようやく停戦が成立。樺太死守を命じていた札幌方面軍が、大本営の指示を受けて、ただちに停戦せよと命令を翻した。武装解除した樺太師団の鈴木参謀長は、後悔の言葉を残している。鈴木は12年間シベリアで抑留生活を送った。住民の多くは2年間、ソビエト占領下のサハリンに留め置かれた。

ロシア国立アーカイブには樺太師団に関する資料が残っており、女性や子どもまで借り出し国民義勇戦闘隊を組織し軍と共に戦わせる計画があった。住民をどう戦わせるのか、軍が念頭においていたのが沖縄戦で、樺太はその計画が実行された唯一の戦場となった。金沢正信さんは16歳の時に国民義勇戦闘隊に招集された。恵須取の最前線に送り込まれ、普段着ままなんの訓練も無しにゲリラ戦に投じられる。武器は家にあった熊撃ち用の古い銃だった。ある地域では国民義勇戦闘隊100人が命を落としたと記録されている。

ノンフィクション作家の保阪正康は、樺太戦の責任の所在は曖昧なままだと指摘。責任はどこにあるか、史実として何を語り継ぐべきか考えなくてはいけないと主張した。

樺太・真岡、現在のサハリン・ホルムスクを、姉を亡くした松下さんが訪れた。72年前に姉と別れた港で姉の思い出を話した。戦争が終わったはずの日本で戦火にさらされていた人々。この悲劇にどう向き合うべきか。

金沢さんが目撃したのは戦火を逃れる途中で命を落とした人の姿だった。南北450キロある南樺太。この道則を住民たちは引き上げ船が出る港を目指し南下した。その人々の群れがソビエト軍の戦闘機の標的となっていた。ソビエト軍に見つからないよう夜間に歩き続けた住民たち。石田桂一さんは「連れてあるけなくなっちゃって崖から落とすんですよね」「半狂乱になっている 女の人がいるわけですよ 髪乱して。地獄を見ているようなもんでした」と当時を語る。住民の逃避行に加わった金沢さんは「3歳 4歳の子どもが歩けるはずないんだよ。最後は自分たちでね手榴弾もらってきて集まって自殺したんだよ」と話す。
8月14日 NHK



拍手

PR

コメント

コメントを書く