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徽宗皇帝のブログ

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能登「復興」の欺瞞性
「東海アマブログ」からの孫引き転載だが、非常に優れた記事で、これほど克明かつ被災者に寄り添った記事は稀だろう。
私の意見は、能登はガザ化している、ということだ。住民は完全に国(政府)から見捨てられている。国は彼らが死に絶えるか自費移住するのを待っている。(政府と国は別だが、国民がその政府を選んだということは、国民全体に責任があるのである。)
あえて言えば、なぜ善良なる「能登『復興』応援団」は、被災者たちが死ぬのを、あるいは極限状態にいるのを座視しているのか。東海アマ氏も、住民の移住反対という点では、政府と同じ「住民は餓死するまでそこにいろ」一派なのである。
能登の「復興」は可能であると私も思う。だが、政府は「資本主義の論理」でしか復興させる気はない。つまり、一部の人間のカネ儲けになる形でしかやらないのであり、その間に被災住民の大半は死ぬか、極貧状態で他所に移住し、能登は「新しい移民(外国人含む)」により、今の能登とは違う世界になるだろう。当然、珠洲原発は「賛成多数」で新設される。

(以下引用)

 復旧の原動力となる生産者たち 能登地震被災地の石川県輪島市 被災者の手足縛る旧態依然の制度 地方切り捨て政治による人災 長周新聞 2024年9月4日
 https://www.chosyu-journal.jp/shakai/31603

  能登半島地震によって大規模な被害を受けた石川県輪島市(人口約2万2000人)は、奥能登ではもっとも大きな街だが、震災発生から8カ月経った現状は復興どころか応急処置もまだ終わっていない。

 石川県内では能登地方を中心に7万5000棟をこえる住宅が被害を受け、輪島市では約1万棟が全半壊したが、公費解体の進捗率は6%に止まっている。珠洲市と同じく隆起や土砂崩れによって通行できる道路も限られており、経済活動は麻痺。手つかずのまま放置された倒壊家屋が道路を塞ぎ、いまだ上下水道が使えない地域もある。
 また基幹産業である漁業や漆器製造業などの生産拠点が壊滅しており、再開時期は見通せていない。なにが復旧の足かせになっているのか――現場で実情を聞いた。

 地震で海底地盤が隆起した輪島市や珠洲市では、主要産業である漁業施設が大きなダメージを被った。県内最大の漁獲量を誇る輪島港には5~10㌧級の漁船が約200隻所属しており、市内で約1000人の漁業者がいる。
 能登半島外浦には豊かな天然礁が広がっており、まき網、定置網、刺し網、底引き、一本釣り、延縄など多種多様な漁が営まれてきた。素潜りを専門とする海士漁も伝統的に盛んで、現在は全国最多の約130人の海士がいることも特長だ。

 だが、地震で海底が1~1・5㍍隆起したため船が動かせなくなったことに加え、岸壁が大きくひび割れて段差ができ、魚の出荷に不可欠な荷さばき所や製氷施設、給油施設などが破損し、元旦以来、8カ月間漁が再開できていない。
 輪島市内の他の漁港も状況は同じで、4㍍も地盤隆起した門前地区では港内の海底が剥き出しになり、漁船が港に入ることもできない。

 輪島市にとって漁業は重要な基幹産業であり、食品加工業や飲食業、小売業などの関連産業の裾野は広く、観光客で賑わった「輪島朝市」でも漁師たちがその日に獲ってきた魚介類は名物だった。漁業の再開は、漁業者だけでなく、地域経済再建のためにも急がれる課題となっている。

 だが、「まったくはかどっていない」と元漁師の年配男性は輪島港の浚渫工事の様子を見つめながら苦々しい表情で語った。
 「政治や行政の考え方はわからないが、魚を獲って生きている漁師からすれば1日でも早く沖へ出たい。だが、海底の浚渫工事はサルベージとユンボの2台だけ。
 運搬船も2隻しかないので天気のいい日も1日に3~4時間動いたら終わり。風が吹いたら休みだし、土日も休業。こんな速度で今年中に終わるのか? と思わざるを得ない」という。

 現在は、港外側の区画で海底を掘り下げる浚渫工事が完了し、すべての漁船をその区画に移動し、メインとなる船だまりの浚渫が始まっているが、こちらの方が面積は広く海底隆起も激しい。
 さらに冷凍冷蔵施設、製氷施設、荷さばき場、岸壁の補修工事も終わらなければ漁業の再開にはつながらない。本格操業にはほど遠い現状だ。

 年配漁師は「岸田首相も2回来たし、先日は小泉進次郎も来た。馳知事も懇談会には来て“やれることはやります”というが、何も事態は動かない。
 港内の岸壁や道路も割れて車も走れなくなっているが、“ここは県、ここからは市の管轄”といって一切手がついていない。

 輪島市内の生コン業者が被災しているためコンクリを調達できず、生コンは時間が経つと固まってしまうため2時間以上かかる金沢市内からは運べないという。今は穴水市から30分かけて生コンを運んでいる。
 道路条件が悪い、宿泊場所がない、食事ができない…などいろいろ理由を並べるが、専門業者に聞くと、今では海水を真水に変えて生コンを作る装置もあり、国が本気になれば1カ月もあれば港は直せるという。
 自衛隊などの船上生活ができる船を活用しても解決できるはずだ。だが国も県も一向に急ぐ気がないのだ」と話した。

 すでに被災から8カ月経つなかで、家も失い、漁の再開も見通せないことから70代以上の高齢の漁師たちが10人ほど船を処分したという。
 漁再開が長引けば長引くだけ、再び立ち上がるエネルギーが削られていく。それはそのまま輪島の町の復興の力を奪っていくことになると誰もが指摘する。

 漁師たちもじっと待っているわけではない。自宅を失いながらも、それぞれ解体や道路補修の作業員、警備員などのアルバイトをやったり、組合として国に掛け合って舳倉(へぐら)島や七ツ島の震災ガレキの撤去、海底調査などの仕事を作ってしのいでいる。

 舳倉島・七ツ島は、輪島市の沖合48㌔に位置する小さな島で、輪島の漁師の主要漁場だ。
 漁期に漁師や海女たちが移り住んで漁をおこなう舳倉島には30~40軒の家があったが、地震と津波でその多くが倒壊した。輪島港が使用不能となり定期船も動かないため、「漁師がやらなければ島を片付ける人がおらず、廃墟の島になる。漁師の仕事としてやらせてほしい」と国に陳情し、国はこれらの作業に対して日当1万6000円(船を出せばプラス2万円)を支払うことを確約。
 解体現場などでアルバイトができない女性や高齢の漁師たちが中心になって、毎日何㌧ものガレキや切れた網や壊れた漁具を回収、運搬し、港で仕分け作業をおこなっている。

 「漁師は漁ができなければ仕事がなく、生きていけない。若い人も輪島を出て行ってしまう。だから漁師の生活を守るため、みんなで仕事をして食いつないでいる」「輪島の漁師は数は多いが結束力がある。
 これまで暮らしていた漁師町が全壊し、みんな避難所や仮設住宅にバラバラになった。間借り生活で3カ月も4カ月も仕事がなく、ただじっとしていたらストレスでノイローゼになるし、血圧も上がって弱った。ガレキ撤去ではあっても、ようやくみんなと顔を合わせて仕事ができるようになって気が晴れる」。
 そう語りながら、浜でテキパキとガレキの仕分けをする漁師たちの顔は晴れやかにも見えた。

 70代の男性漁師は「自宅が半壊し、金沢にいる子どもから“金沢に来ないか”といわれたが、船がある以上漁師を続けるために輪島に残った。今は八畳一間の仮設住宅に3人家族で暮らしている。こたつと布団を敷いたら歩く場所もないほど狭く、隣との仕切りはベニア板1枚。冬は寒く、夏は暑い。自分も気が滅入っているが、このままでは避難所や仮設住宅に押し込められた高齢者たちの災害関連死が増えてくるはずだ。

 舳倉島のガレキ撤去作業には、高齢者をはじめ多いときには100人が出てやるし、海女たちは海底のゴミ回収や調査をやっている。自分たちのことだからみんな必死になって働く。業者待ちの輪島市内よりも解体の進捗も早いのではないか」と実感を語った。

 「輪島沖は北と南の海流がぶつかり合う県内有数の好漁場だ。漁の傍ら遊漁船も出しているが、1日ででヒラマサ30本、ブリ40本は釣れるほどの入れ食い状態になる。それだけ豊かな海だから、輪島の漁業者は後継者不足とは無縁だった。
 だが今後、漁船が沖に出られるようになっても、魚を受け入れる市場施設とその機能が元に戻るかどうかが大きな課題だ。水揚げがないためすでに運送会社2社のうち1社が撤退し、漁協の職員も若手は金沢の本所に移っている。

 輪島で住む場所も定まらず、生活がままならない状態が長引けば長引くほど、彼らは戻ってこなくなる。
 大敷網(定置網)などの乗組員には何の生活補償もないため、乗組員たちはみんな土木などの仕事に就いており、いざ漁を再開しても戻ってきてくれないのではないかという心配がある」

 「これだけ自分たちの街や港が破壊されたのに、何もすることがないことほど辛いものはない。だから仕事ができることがうれしい。今は漁師なのに魚が食べられない。これまで獲ってきていた魚もスーパーで買わなければならず、しかも輪島の魚がないぶん価格が高騰しているから買う気にならない。
 自分たちは元の値段を知っているから。鮮度も落ちて生臭い魚はとても食べる気にならない。漁業が再開できないことで生産者と消費者が一番泣かされている」

 「漁ができないのは死活問題。今は金沢市内の集合住宅で暮らしており、作業があるときに2時間かけて通っている。ずっと海士漁をやってきたが、この歳では丘で雇ってくれるところもなく、船を潰すにも300万~400万円かかる。
 小規模漁師は漁協の共済にも入っていないので収入補償もなく、昨年度の資材費の返済についても留保されていないから頭を抱えている。
 国の融資制度で借り入れをしても返済できる保証もない。このガレキの仕事も“今日で終わり”といわれて打ち切られたら、明日からどうやって食べていくかだ。港の修繕を急いでもらわないと漁師はいなくなってしまう」

 「11月初旬には、カニ漁やタラ漁が解禁になる。それに命をかけている漁師もいる。カニ漁では1日当り500万~600万円も水揚げできる場合もあり、それが輪島の地域経済にも波及してきた。
 海士漁でも1回の漁で3~4㌧水揚げする。そのためにも漁港施設や漁協の機能を再建が急がれる。だがこの工事のスピードでは年度内の漁再開は難しい。輪島は漁がなくなったら間違いなく寂れてしまう。魚が食べられないなら能登には誰も観光にも来ない。県や国はそのことをどれだけ重要視しているのか」

 漁師たちの置かれている境遇もそれぞれだが、漁再開まで時間がかかればかかるほど状況は厳しくなるため思いは切実だ。
 元漁師の男性は「石川県の国会議員はすべて自民党安倍派だ。富山出身の馳知事(元国会議員)は人数の多い安倍派ではポストがないから要領よく森喜朗(石川県根上町出身)に抱えられて知事選に出た。

 能登の自民党は農林族の別の候補者を応援したが、能登の人口は10万人程度だから多勢に無勢で負けてしまった。森喜朗が能登復興で存在感がないのも、その子分の馳知事が上(うわ)の空なのも、能登は取るに足らないという考えがあるからではないか」「首相も知事もメディアを引き連れて出てきても何も現場を見ていない」と怒りを込めて語っていた。

 炎天下の解体現場で旗振りをしていた男性漁業者は、「家が全壊したので、今は仮設暮らしをしている」という。
 「朝市通りの焼け跡だけは、月末に岸田首相が視察にくるということで最優先で解体を急いでいるようだが、市内全体ではまだ通常の暮らしをするにはほど遠い状況。他にも総裁選に出る自民党議員など政治家がたびたびやってくるが、“お前らは一体何をしに来たのか”といいたくなる。

 革靴を履いて、ノリのきいたシャツに背広を着て、のぞき込んでいく。ここは顔売りのための場所じゃない。総理大臣も役所には来ても解体現場など足を運んだことすらないのではないか」と吐き捨てるように語っていた。

 生産現場も交通インフラの復旧も遅れ、生業が成り立たないため、市内では経済活動もまだまともに動き出していない。市内商業の中心である朝市通りを含む市街地では、車道も歩道も隆起して波打ち、商業ビルは倒壊し、民家は崩れたり傾いたままで、健全さが保たれている建物の方が少ない。
 段差や穴ができたり、隆起で盛り上がった道路、崩れた家々やビル、垂れ下がった電線などを慎重に避けながら人や車が行き交っている状態だ。

 わずかにコンビニやドラッグストア、地場スーパーが時短営業をしているが、品物が高かったり、品数も限られており食材を仕入れるのも一苦労だ。そのなかで、一度は廃業を決めたものの「市内に食べる場所がない」「再開してほしい」という市民の要望に応えて開業した地元ラーメン店などが貴重な存在となっている。

 国や県は「北陸応援割」と称して数億円の補助金を出して観光客誘致をアピールしているが、輪島をはじめとする能登被災地では、営業可能な宿泊施設は軒並み土木業者の作業員が使用しており、観光需要の受け皿はない。空き家などを借り切って寝泊まりする作業員も多く、ボランティアに至ってはテントで野宿生活をしているのが実態であり、外向けの“復興”キャンペーンとのギャップは激しい。

 そのなかで震災前まで朝市通りで「輪島朝市」として露天を出していた商店主たちは、8月10日から地場スーパー「ワイ・プラザ」の一角を借りて仮営業を始めた。店主たちに聞くと「避難所や仮設住宅でじっとしているわけにはいかない」「売り物は限られているが、被災を免れた在庫を集めて朝市を再開しよう」という話になり、動ける商店主を中心にして金沢などの市外の人々の協力を得て各地で「出張朝市」を始めたという。

 輪島朝市は1000年の歴史があるといわれ、震災前までは、鮮魚、海産加工物、野菜、食品、輪島塗などの工芸品など190人が所属していたが、仮営業が再開できたのは30店舗ほどだ。

 組合長の男性は、「朝市通りでは建物の下敷きになって3人が亡くなった。私たちは露天商なので、店舗がまるごと焼失した振興組合の店主の人たちに比べたらまだ被害が軽い方だと思うが、それでも車中泊や避難所暮らしで商売どころではなかった。

 うちの店は海産加工物を扱っているのだが、輪島をはじめ能登の漁業が再生していないので原料の魚が値上がりしたり、手に入らなくなっている。共同仕入れ、共同加工で乗り切っていこうと思っているが、やはり街全体が復活しなければ朝市もない」と話す。しばらくは県内外のイベントなどで「出張朝市」として出向いていくことにしているが、「やはり地元での再開が待ち遠しい」という。

 「漁師の店」を切り盛りする女性は、「震災前までは男たちがその日に海で獲ってきた魚介類を並べていた。夏はノドグロ、鯛、カレイ。冬はズワイガニ、甘エビ、黒エビ、イカ…冬は雪かきをしながら、38年間路上で売ってきた」とのべた。

 「今は自宅が被災して、ブルーシートをかけても雨漏りする家で暮らす日々だ。“一部損壊”なので市からは5万円の支援金しか出ないから大赤字だ。それでも家にじっとしていたら気が滅入るし、かごんでいたら体調が悪くなる。今は漁ができないから魚がなく、在庫の干物を売っている。漁がいつになったら再開できるのか心配している」と話した。

 家族で製造した輪島塗の箸や漆器を売る高齢の店主たちも「家も工場も倒壊してしまったが、解体しても建て替える資金はない。輪島塗は箸1本作るにも何週間もかかる。分業制なので、漆職人、刷毛職人、塗り師、蒔絵師など一つでも欠けたら作ることができない。
 その工程がすべて復興できなければ輪島塗の文化は廃れてしまう」「仮設住宅暮らしで先のことは何も見えないが、ここに来て市場の仲間やお客さんと会話ができるだけで安心感があるし、気が晴れる。

 能登には豊かな山や海があるので、味噌と塩さえあれば食べ物はなんとか自活できるが、住居や道路など大きなお金がかかる問題は個人ではどうしようもない。それを考えると気が重くなる」と話していた。

 「震災当日は、初売りのために大量に仕入れていた卵を雪を溶かした水でゆで卵にしてみんなに配った。
 食べ物がなく、水もないから大変だった」と語る出張販売のパン屋さんもいた。自宅や工場などを失った人たちだが、みんな明るく、お互いに支え合い、励まし合いながらコミュニティの復活と朝市の再建のために汗を流していた。能登に息づく人々のたくましさを感じさせる光景だ。

 「能登も日本の一部だぞ!」――現場ではそんな声も聞かれた。震災直後には注がれていた全国からの関心やメディア報道も時間とともに薄れ、街の状況はほとんど変わっていないのに公的支援は期限通りに着られていく。
 「台風被害や南海トラフ地震などが起きれば、能登からは一斉に業者がいなくなり、置き去りにされていくのではないか」「このままでは5年後に能登にどれだけの人が住んでいるのか」と多くの住民たちが心配を口にしていた。これまでも過疎地として切り捨てられてきた実感があるからだ。

 輪島市で道路補修作業に携わる土木業者の男性は、「阪神淡路や熊本と比べて、能登半島は一方からしか入れない悪条件がある。唯一の幹線道路である『のと里山海道』も、復旧したといっても崖崩れに土嚢を積み、迂回路や片側交互通行も多く残されており、あくまでも仮の応急処置だ。
 夜は危なくて走れない。宿泊も食事する場所もないので、私たちも食材を金沢から運びながら昼夜を分かたずに作業をし、とりあえず走れるようにした。まだまだ復旧もほど遠いのに、国は“復旧は終わり、復興の段階”と見なして工事契約も一般競争入札になっている。

 予算も少ないし、急がなければいけない工事なのに工期も延びる。日本中でこれだけの震災や災害を経験しているのに、この条件下でどのような工事をすべきなのか、どうすれば安全な復旧ができるのか、行政側に考え方がまとまっていないのが問題だ」と指摘していた。

 「たとえば仮設住宅にしても2年で住宅問題が解決するわけがないのに入居期限は2年。能登はとくに高齢者が多く、自力で家を建て直すことなど無理に決まっている。だが国には過疎地にできるだけ金を使いたくないという考え方がある。手を差し伸べるべき弱者を助け、地方を大事にするという制度がない。
 これほど復旧が遅れているのは、ただ地震の被害が酷かったというだけでなく、これまで地方を切り捨ててきた政治の延長線上に起きていることだ」と語気強く語った。

 奥能登で解体作業をおこなう業者の男性は、「解体ガレキの分別が厳しくなり、ガレキのくずを手作業で分けなければならず、しかもガレキ集積場所まで運ぶのに往復2時間半かかる。家にもよるが1カ月で2~3軒さばくのが精一杯だ。
 人手がその分必要になるが、その人件費は度外視されているため赤字の工事になる。それでも私たちがやるのは、私も奥能登の出身だし、ここで働いている作業員もみんな地震や津波で家を失った同じ地元の被災者たちだからだ」といった。

 「だが、ゼネコンと1次下請がピンハネして、解体作業員も県外から連れてきており、県内業者よりも多い。当初は東北や熊本での経験者でチームを作るといっていたが実態は違うし、なぜか地元業者の受注額よりも高い。
 県外業者を否定するわけではないが、なぜ被災をして仕事を求めている被災者たちを雇わないのか? と思う。

 地元の人間は家や人間を知っているし、自分たちの故郷のためだから一生懸命に働く。それだけ片付くのも早い。そういうチームを組織することで復興も前に進むはずだ。地元の人間が集まると“俺たちに全部まかせてくれといいたい”“みんなで直談判しよう”という話にもなる」という。

 奥能登の被災地では、事業所の多くも閉鎖され、「仕事がない」という理由で地元を離れる現役世代や「自分たちも何ができることはないか」という高齢者の声もよく聞かれる。地理的条件で業者やボランティアの数が限られて復旧が進まないのならば、漁業者に対する施策のように、地元に残った被災者を復興のために積極的に雇用し、国がそれ支える仕組みづくりが求められる。

 別の解体作業員の男性も「珠洲ではゴミ集積場所の管理にさえ地元の人間がいない。ゴミをどこに運ぶのかの案内なら誰でもできるのに、県外からやってきた人間しかいない。仮設住宅の建設にしても、珠洲では浄化槽に配管が設置されていない問題が起き、ウジが湧くという問題も起きた。
 とても地元だけではさばききれる規模ではないが、地元住民を積極的に使っていくことで復旧も復興もより進むはずだ。いっていることと実態が逆なのだ。能登の人たちは家がなくても祭をするくらい地元を愛しているし、心のよりどころにしている。みんな復興のために動く意欲をもっている」と疑問をぶつけた。

 珠洲市の農家の男性は、「国は“たばこを作れ”“野菜を作れ”といって、それがダメになっても知らんぷりだ。常に生産者は振り回され、その間に高齢化が進み、災害のたびに能登から集落が一つ一つ消えていった。
 まだ鉄道があった時代には奥能登も多くの観光客で賑わったが、穴水から珠洲市の蛸島まで通っていた『のと鉄道』も不採算路線ということで、2005年に半島の真ん中の穴水から先は廃線になり、珠洲も輪島も鉄道の足を失った。

 今では危なくて走れないような道路だけになり、若い人たちは出て行ってしまう。今度の地震で解体が終わったとき、果たしてどれだけの集落が存在しているのか。今や“米不足”といわれる時代なのに、代々耕してきた大切な田畑が荒れ地になっていることが悔しい。農業や漁業、地方を切り捨てる政治が地方の疲弊させてきたし、震災でそれが加速している。その考え方を改めなければ能登の復興はできない」と話していた。
(次号につづく)

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