あけましておめでとうございます。私のようなひねくれ者でも正月くらいは素直に祝いましょう。
この前からIT技術者で神秘主義者のケイさんの過去ログを興味深く読んでいるが、今日はその中から正月向きの文章を転載しよう。どこが正月向きかというと、現代の日本人にとっては金が無いことが不幸の第一の原因だが、その「金が無い」には幻想的不安も混じっていると思われるからだ。そういう人には、下記の文章は大きな示唆を与えるだろう。
(以下引用)
2010.08.23
不幸への道を捨てる
今は、年収200万円以下をワーキングプアと言うらしい。ワーキングプア(working poor)とは、「働く貧困者」という意味で、フルタイムで働いてもまともな生活のために必要な収入がないことのようだ。
私は、年200万円も稼げば十分以上に立派と思うが、都会では住居のための費用が高いのと、携帯電話を始め、人々から金をむしり取っていくことに巧みな仕組みが蔓延し過ぎている等、無駄な金がかかり過ぎるのだと思う。
ところでもし、あなたが、「300万円でどう?」と言われたら、どう思うだろか?
「そんな安い額じゃ・・・」と気落ちしたり怒ったりするかもしれないし、「それだけあれば、ワーキングプアから解放される」と喜ぶかもしれない。
しかし、それが、年棒ではなく、月給であれば(年棒だと3600万円)、大半の人は大喜びするかもしれない。しかし、誰もがそうではないのも確かと思う。
アルベルト・アインシュタインが、ドイツからアメリカに亡命し、プリンストン高等研究所(※1)にスカウトされた時であった(1933年頃)。
※1
正式には「高等研究所」。ニュージャージー州プリンストンにあるのでそう呼ばれる。現在も世界で最も優れた研究機関である。私立研究所。
アインシュタインは、給料の希望を聞かれ、「千ドル」と答えた。
プリンストン高等研究所では、年棒2万ドルを予定していたので、半分ほどである。しかし、相手がアインシュタインでは「そうですか」と簡単に済ませるわけにはいかないし、とはいえ、「安いんじゃないですか?」と言うのも失礼だ。
そこで、担当者が気まずそうに、「間違いないですか?」と尋ねると、アインシュタインも気まずそうに、「5百でいいです」と答えた。
しかも、アインシュタインは、年棒のつもりで言っていたのだ。
いかに世間や金に疎いアインシュタインでも、契約の重要性を知らないような立場ではないし、就職難や安月給に苦しんでいた時もあった。経済観念はしっかりしていたと思う。
しかし、アインシュタインは、大した収入を必要としなかった。
いつも着古したよれよれの服を着て満足していた。靴下を履かなかったことはよく知られている。
区別が面倒という理由で、洗濯石鹸でヒゲを剃った。
質素な食べ物を好み、コーヒーすら飲まなかった。
そして、請われれば、誰にでも気軽にお金をやったりもした。
そんな感じで、お金に不自由はしていなかったが蓄えもなかった。しかし、彼は平気だった。
世界屈指の科学者揃いであるプリンストン高等研究所の研究員の多くは自動車を所有していたが、アインシュタインはそれを買わなかったどころか、勧められても同乗せず、バスにさえ乗らずにかなりの距離を歩いて通勤した。
(研究所員だった矢野健太郎さんは、真似をして道に迷ったと、自分の著書に書いていた)
アインシュタインにとって、物理学は趣味であり、成果を誇ることもなく、実際、自分を重要人物とはみなしていなかったのは確かなようだ。
今の時代は、良い仕事をすれば高収入で当たり前という奇妙な幻想が世界中を覆ってしまっている。
イチローのようなプロスポーツ選手はともかく、アマチュアの立場のスポーツ選手も、若くて人気があれば(誰かが儲けるために過剰に煽った人気なのだが)、特に海外では恐ろしい高収入であることも多い。しかし、それは、彼らを決して幸福にしないばかりか、悲惨の中に叩き込んでいるというのが事実である。
本質的には芸術家であるミュージシャンも、売れてしまって膨大な収入を得ると破綻するのも、いわば当然だろう。ある一流ミュージシャンが言ったように、「ミュージシャンってのは、街角でハーモニカを吹いていれば満足」なもので、それが幸福なのである。
アインシュタインの人格を疑うようなエピソードを吹聴する者もいるが、誰だって失言や失態はやらかす。それに、私は、別にアインシュタインが人格者だったかどうかに興味はないし、完全な人格者であったとも思わない(そんな人はいない)。
しかし、1セントにもならなくても、中学生の数学の宿題を熱心に手伝って(アインシュタインは頼まれたら気軽に応じ、教え方は解りやすくて評判だった)その親を卒倒させかけように、「サービスには対価が必要」という世間の馬鹿げた信念を持っていなかった、とてもまともで自然な人間だった。
別に、彼のように天才でない、普通の人でも、彼のような生き方をして不幸になるとは思えない。逆に、天才であっても、物にばかり価値を置けば確実に不幸になるだろう。
そして、現代の日本人の大半は、不幸への道を競争して突っ走っているようである。
この前からIT技術者で神秘主義者のケイさんの過去ログを興味深く読んでいるが、今日はその中から正月向きの文章を転載しよう。どこが正月向きかというと、現代の日本人にとっては金が無いことが不幸の第一の原因だが、その「金が無い」には幻想的不安も混じっていると思われるからだ。そういう人には、下記の文章は大きな示唆を与えるだろう。
(以下引用)
2010.08.23
不幸への道を捨てる
今は、年収200万円以下をワーキングプアと言うらしい。ワーキングプア(working poor)とは、「働く貧困者」という意味で、フルタイムで働いてもまともな生活のために必要な収入がないことのようだ。
私は、年200万円も稼げば十分以上に立派と思うが、都会では住居のための費用が高いのと、携帯電話を始め、人々から金をむしり取っていくことに巧みな仕組みが蔓延し過ぎている等、無駄な金がかかり過ぎるのだと思う。
ところでもし、あなたが、「300万円でどう?」と言われたら、どう思うだろか?
「そんな安い額じゃ・・・」と気落ちしたり怒ったりするかもしれないし、「それだけあれば、ワーキングプアから解放される」と喜ぶかもしれない。
しかし、それが、年棒ではなく、月給であれば(年棒だと3600万円)、大半の人は大喜びするかもしれない。しかし、誰もがそうではないのも確かと思う。
アルベルト・アインシュタインが、ドイツからアメリカに亡命し、プリンストン高等研究所(※1)にスカウトされた時であった(1933年頃)。
※1
正式には「高等研究所」。ニュージャージー州プリンストンにあるのでそう呼ばれる。現在も世界で最も優れた研究機関である。私立研究所。
アインシュタインは、給料の希望を聞かれ、「千ドル」と答えた。
プリンストン高等研究所では、年棒2万ドルを予定していたので、半分ほどである。しかし、相手がアインシュタインでは「そうですか」と簡単に済ませるわけにはいかないし、とはいえ、「安いんじゃないですか?」と言うのも失礼だ。
そこで、担当者が気まずそうに、「間違いないですか?」と尋ねると、アインシュタインも気まずそうに、「5百でいいです」と答えた。
しかも、アインシュタインは、年棒のつもりで言っていたのだ。
いかに世間や金に疎いアインシュタインでも、契約の重要性を知らないような立場ではないし、就職難や安月給に苦しんでいた時もあった。経済観念はしっかりしていたと思う。
しかし、アインシュタインは、大した収入を必要としなかった。
いつも着古したよれよれの服を着て満足していた。靴下を履かなかったことはよく知られている。
区別が面倒という理由で、洗濯石鹸でヒゲを剃った。
質素な食べ物を好み、コーヒーすら飲まなかった。
そして、請われれば、誰にでも気軽にお金をやったりもした。
そんな感じで、お金に不自由はしていなかったが蓄えもなかった。しかし、彼は平気だった。
世界屈指の科学者揃いであるプリンストン高等研究所の研究員の多くは自動車を所有していたが、アインシュタインはそれを買わなかったどころか、勧められても同乗せず、バスにさえ乗らずにかなりの距離を歩いて通勤した。
(研究所員だった矢野健太郎さんは、真似をして道に迷ったと、自分の著書に書いていた)
アインシュタインにとって、物理学は趣味であり、成果を誇ることもなく、実際、自分を重要人物とはみなしていなかったのは確かなようだ。
今の時代は、良い仕事をすれば高収入で当たり前という奇妙な幻想が世界中を覆ってしまっている。
イチローのようなプロスポーツ選手はともかく、アマチュアの立場のスポーツ選手も、若くて人気があれば(誰かが儲けるために過剰に煽った人気なのだが)、特に海外では恐ろしい高収入であることも多い。しかし、それは、彼らを決して幸福にしないばかりか、悲惨の中に叩き込んでいるというのが事実である。
本質的には芸術家であるミュージシャンも、売れてしまって膨大な収入を得ると破綻するのも、いわば当然だろう。ある一流ミュージシャンが言ったように、「ミュージシャンってのは、街角でハーモニカを吹いていれば満足」なもので、それが幸福なのである。
アインシュタインの人格を疑うようなエピソードを吹聴する者もいるが、誰だって失言や失態はやらかす。それに、私は、別にアインシュタインが人格者だったかどうかに興味はないし、完全な人格者であったとも思わない(そんな人はいない)。
しかし、1セントにもならなくても、中学生の数学の宿題を熱心に手伝って(アインシュタインは頼まれたら気軽に応じ、教え方は解りやすくて評判だった)その親を卒倒させかけように、「サービスには対価が必要」という世間の馬鹿げた信念を持っていなかった、とてもまともで自然な人間だった。
別に、彼のように天才でない、普通の人でも、彼のような生き方をして不幸になるとは思えない。逆に、天才であっても、物にばかり価値を置けば確実に不幸になるだろう。
そして、現代の日本人の大半は、不幸への道を競争して突っ走っているようである。
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