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徽宗皇帝のブログ

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他人の不幸を「他人事」と思うこと
こういうニュースを他人事だ、と思っている人は多いと思う。
まあ、「茶色の朝」のあれである。他人の不幸を他人事と思っているうちに、その同じ不幸が自分の身にも降りかかってきた、という奴だ。

(以下引用)

京都、魚の仲卸事業者に廃業危機 仕入れ過剰続く

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京都市中央卸売市場(京都市)で生鮮魚介類の仕入れ販売を担う仲卸業者が廃業の危機に直面している。新型コロナウイルス禍で卸先の飲食店などが相次ぎ休業し、大半の仲卸業者は仕入れ過多から、毎月多額の赤字が続く。飲食店比率が高いという京都の事情から存続が困難になる事業者もある。廃業が増えれば大量の商品を集荷・配分、価格調整する中央市場の機能が損なわれかねない。


「もう事業体力は限界だ」。49の仲卸業者が加...


(以下引用2)


「“茶色の朝”を迎えたくなければ、思考停止をやめることです」 哲学者・高橋哲哉さん

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  • 環境と平和


「ごく普通の」国家が、日々の生活に知らぬ間に忍び込み、人々の行動や考え方をだんだんと支配するようになる――。フランスの寓話『茶色の朝』に描かれたこの世界について、「私たちと無縁ではありません」と語るのは、本書の日本語版にメッセージを寄せた哲学者・高橋哲哉さん(東京大学大学院教授)だ。共謀罪の成立や憲法改正に向けた議論が進む中、「思考停止になっていると、日本も“真っ茶色”になりかねませんよ」と警告する。


「茶色」が広がっていくのをやり過ごしてしまった“俺”

 20年前にフランスで刊行されベストセラーとなった『茶色の朝』は、「茶色以外のペットは処分するように」という法律を皮切りに、“俺”と友人シャルリーの身の回りで次々に「茶色」以外の存在が認められなくなっていく物語だ。


なに色だって猫にはかわりないのに、とは思うが、なんとかして問題を解決しなきゃならんというなら、茶色以外の猫をとりのぞく制度にする法律だって仕方がない。


 新しい法律によって、“俺”もシャルリーもペットを始末させられてしまう。権威筋の説明を無批判に受け入れ、すぐに胸の痛みも忘れてしまう“俺”。そのうち、新聞、ラジオ、服装、言葉……とあらゆるものが茶色に染まっていくことに驚きつつも、その都度理由を見つけては違和感をやり過ごしていく。


すごく快適な時間だったし、すっかり安心していた。
まるで、街の流れに逆らわないでいさえすれば安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、生活も簡単になるかのようだった。
茶色に守られた安心、それも悪くない。



『茶色の朝』(2003年、大月書店)より(写真=編集部)



 不安や疑問を封印しているうちに、“俺”は他者の痛みにも鈍感になり、自ら進んで茶色に染まろうとさえする。そんなとき、「以前、茶色以外の犬を飼っていた」という罪でシャルリーが逮捕される。かつて白黒のぶち猫の飼い主だった“俺”は、自身の身も危うくなったと気づき、抵抗してこなかったことを後悔するが、次の瞬間には、抵抗しなかった弁明が次々に浮かんでくるのだった。


政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。
他の人たちだって、ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?


 だが、ついに、後戻りできない現実が“俺”にも突きつけられる。


だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。
……
陽はまだ昇っていない。
外は茶色。
そんなに強くたたくのはやめてくれ。
いま行くから。




90年代後半以降、日本でも進む“茶色化”

――特定秘密保護法や安全保障関連法、そして共謀罪と、国家主義的な傾向の強まりを懸念する声が上がるなか、『茶色の朝』は、まさに今の私たちの社会を彷彿とさせるかのようです。高橋さんは、今の日本の状況をどのように見ていらっしゃいますか?


高橋 心理と人権のスペシャリストであるフランク・パヴロフが『茶色の朝』を書いたのは、1998年。当時、西ヨーロッパ全体に広がっていた極右運動への危機意識からでした。


 本書のブームに火をつけたのは、2002年のフランス大統領選です。今回(2017年)の大統領候補だったマリーヌ・ルペン氏の父でもある極右政党の党首が決戦投票まで残ったことに人々が動揺し、人種差別と排外主義で知られる人物を大統領にしてはいけないと、にわかに本書が読み広められたのです。



写真=深澤慎平



 日本語版の出版はその翌年、2003年です。私は、1990年代の後半から日本でも少しずつ国家主義的な流れが出てきていることに懸念を覚えていました。学校で国旗・国歌への忠誠が強制され、反対する先生たちが処分されたり、住基ネットで個人情報を一元管理しやすくしたり、“盗聴法”(※1)をはじめとする国民への監視を可能にする法律が次々に成立したり……。『茶色の朝』は、日本に生きる私たちにとっても無縁ではないと考えました。


 人々の感情に不安や不満がたまっているような社会では、分かりやすい言葉を声高にぶち上げる相手を救世主のように信奉しがちです。強い言葉を発する政治家が出てくると、それによって何か現状の問題が一気に解決するんじゃないかという期待を多くの人が抱いてしまう。戦前の日本がまさにそうした状況でしたが、90年代後半から現在まで、それに似た危うい傾向が続いていることを感じますね。


※1:正式名は「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」



写真=深澤慎平




“茶色の朝”は、小さなやり過ごしの積み重ねの結果

――『茶色の朝』では、「茶色」以外の色というだけで自分のペットが殺処分されてしまうという理不尽なことが起こっているのに、主人公は、驚いたり悲しんだりしながらも、最後まで抵抗することはありません。ここから私たちは何を学ぶべきでしょうか。


高橋 従っていればそんなにひどいことにならないだろう、自分自身が危険にさらされているわけではないという感覚は、多くの人に共通のものかもしれません。心のどこかに引っかかるものがあっても、日常生活に紛れて忘れてしまったり、煩わしさに口をつぐんでしまったり……。法律や制度にも、逆らわずにやり過ごしていれば、とりあえず面倒なことにはならないだろうと。そんな傾向が確かに私たちの中にもあるのではないでしょうか。


 例えば3.11の原発事故についても、事故直後は自分たちにも危害が及ぶかもしれないと、首都圏でも反原発一色になったのに、今は、「あれは福島の事故だ」と引いて見ている人が多いようですね。だから「そろそろ原発を再稼働してもいいんじゃない」となる。沖縄の基地問題も、力で反対の意思をくじこうという、明らかに日本の民主主義の理念に反することが行われているにもかかわらず、沖縄の話だから、と他人事のように見てしまう。


 私は、原発事故が起きた時、「ああ、茶色の朝が来てしまった」という感覚をもちました。原発を以前から危険視する見方はあったし、故障や不具合が繰り返されるなど予兆もあったのです。それでも私たちは、積極的に賛同はしないまでも「大事故は起きないだろう」とたかをくくって、現実を直視することから逃げてきてしまった。「茶色の朝」は、決して突然訪れるのではなく、それまでの小さなやり過ごしの積み重ねの結果なのです。



写真=深澤慎平




“共謀罪”で、権力による監視体制が完成に近づく

――“共謀罪”とも呼ばれる「テロ等準備罪」を新設する組織犯罪処罰法改正案の成立に向けた議論の中では、「本当にテロ対策になるのか」「一般人も対象になるのではないか」といった疑問や不安の声が上がっています。


高橋 実際に罪を犯さなくても、計画段階から罪に問われる可能性がある共謀罪には、市民一人ひとりの心の中に踏み込んだ監視、捜査が歯止めなく行われていく懸念があります。これによって、権力による市民の監視体制が完成に近づくことを感じます。


 多くの人は、「自分はテロを計画しないから関係ない」と傍観しているかもしれませんが、警察、権力側が何をもって捜査対象と判断するのかが問題です。法務大臣が、ビールと弁当を持っていたら「花見」、地図と双眼鏡を持っていたら「犯行現場の下見」などと説明しているくらい基準がいい加減なんですから。拡大解釈や法改正を経て市民を弾圧する道具となった治安維持法と本質的に変わらないんじゃないか、と言っている人もいます。



写真=深澤慎平



 国策への反対意見を委縮させることも危惧されています。今でさえ、例えば沖縄の基地建設反対運動では、中心人物の一人がブロックを積み上げたという理由で何カ月も拘留されました。これは国際的に非難されましたが、日本ではほとんど報道されなかった。今後、反基地や反原発など国策に反対する活動の関係者がどんどん捜査対象にされることを懸念する見方もあります。


 特定秘密保護法、安全保障関連法、憲法9条の改正論議といった流れの中で見たとき、そこに“共謀罪”が加わってできる体制がどういうものであるか。戦前、戦中には、個人の自由や人権を奪い、体制への批判を封じ込めようとする法律や制度がありました(※2)。それらと同じ影響が懸念される法律や制度が、昔と全く同じ形ではないにしても、今また、そろってしまうという感が否めません。


※2:戦前に制定された法律には、治安警察法(1900年制定、1945年廃止)、治安維持法(1925年制定、1945年廃止)、国家総動員法(1938年制定、1946年廃止)などがある。



自分の頭で考え、声に出して、動いてみる。そのことが、社会を変える力になる

――大きな政治の動きに対して、なかなか国民の声が反映されにくいといわれています。「茶色の朝」を迎えないようにするために、私たちはどうすればよいのでしょう。


高橋 考えることをやめてしまう、つまり思考を停止してしまうのが一番怖いですね。とにかく自分の頭で考え続けること。考えたら声に出してみる。動いてみる。誰かに話してみる。


 『茶色の朝』の主人公も、最後に自分が捕らえられる番になって、ようやく「抵抗すべきだった」と後悔しますが、考えることをすべて他人任せにして、「こんなはずじゃなかった」「だまされた」と言っても後の祭り。それが、本書が一番伝えようとしていることです。


 例えば、太平洋戦争でアメリカと戦闘を始めた時にも、日本が勝てるわけないと分かっていた人も一部にはいました。でも、いざ開戦となったら、国中がたちまち熱狂に包まれてしまった。ヒトラーを支持したドイツ人も、先の先までは考えていなかったでしょう。当時に比べ、今は情報があふれて簡単に手に入る時代です。だからこそ、本当にその情報が信頼できるのか、どこまで信用できるのかを自分で調べて、判断する冷静さが必要ですね。


 考えるきっかけは、ごく個人的なことでいいんです。なんでこんなに生きにくいのだろうとか、なんで希望している通りにいかないんだろうとか。例えばふだんの買い物で食品を選ぶことだって、社会のしくみを考えるきっかけになる。そうして考えていくうちに、報道を通して伝えられてくるような国際情勢についても、原発や基地や憲法の問題も、全て自分につながっているということを理解できるようになるのだと思います。



写真=深澤慎平



 こんなドイツ人の牧師の言葉があります。「最初、彼らは共産主義者を攻撃した。私は違うから黙っていた。次に社会主義者を攻撃した。私は違うから黙っていた。次に自由主義者、次にユダヤ人……最後は自分も攻撃される側になったが、誰も助けてくれなかった」


 今、日本で起きていることは全て、多数の有権者が支持する内閣の下で行われていることです。結果は自分たちに跳ね返ってくる。逆にいえば、今が社会を変えるチャンスかもしれません。問題が大きくなるほど関心を持つ人も増える。より多くの人が考えて、参加することが、社会を変える力になります。原発も米軍基地も実は自分たちの問題であるということをどこまで考え続けられるか。それを私たちは問われているのだと思います。











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