お盆である…
”御先祖様”が、やってきているということである…
そこで、生きていた時と同じように双方がふるまって”絆”を確かめ合う…ってことでしょう…
坊さんも”書き入れ時”で、忙しいですな…
しかし、お経を読んでもらって、ご先祖さんは喜んでるんでしょうかね?
お経って、つまるところ「説教」なんですが、そんなもの喜ぶのでしょうかね?
しかも、唱える方は訳も分からずに呪文のごとく唱えてるだけでしょ?
見た目には「熱心」「信心」ですけど、これほど”バチアタリ”なこともないでしょうね?
お経と言えば、最もポピュラーなのが「般若心経」でしょうか…
「般若」とは、智慧のこと。小賢しいサル知恵でない仏の知恵のこと…
仏の知恵を得るには、どうすればよいのか…ってことが書いてあるんですが…
知ってた?…
ある日、観音菩薩が「仏の知恵を得る方法」について思うところを得ました。
それをみてとったシャーリープトラが、片肌を脱ぎ、奴隷がご主人様の給仕をするときのその格好で、観音菩薩に教えを乞いました…
偉大なる仏の知恵を得るには、どうしたらよいのでしょう?
観音菩薩が説き始めました。
私が、それを会得するために自分の心のはたらきをじっと観察していて気付いたことがあります。
この世の一切の苦しみは、つまるところ自分のこころが作り上げているものなのだということです。
舎利弗よ、本当の現実世界というのは、主観的な感覚や思いや迷いといったものを取っ払った”空”の目で見たときに見える世界が、そうなのです。
余計なものを一切取っ払って”空”の目で、ありのままに見た世界、感覚を超越した客観的な世界こそが真実の世界なのです。
舎利弗よ、我々は五感によって対象を捉え、認識能力によって、感受→印象→気づき→全体認識、体系的理解のように低次から高次までの多段階の認識を築き上げるのですが…
あらゆる法則は、そうした主観的な認識作用を超越した”空”の次元においてとらえれば…
なんにも生じてはいませんし、なんにも滅してはいないのです。
「きたない」も「きれい」もなく、なんにも増えたり、減ったりもしていません。
あらゆるものは、相対的な存在だからです…
よって、この”空”のなかに「受想行識」といった認識作用は存在しませんし、感覚器官である目耳鼻舌および心身といったものもありません。
だから、当然、色も音色も香りも味も触れた”感じ”もないわけです。
この五感や感覚作用や認識作用といったものを超越した、つまり、それらによって歪んだりすることのないように、ありのままに世界を捉えたならば、
あらゆるものが相対的で…
「これ」も「あれ」も、「きれい」も「きたない」も「よい」も「わるい」もないのですから…
「みえる」も「みえない」もなく、意識も無意識もなく、バカも利口もない。区別できない。
よって、「老い」もなければ、「死」もないし、「知る」もなければ、「得る」もない。(無所得)
こうして仏の知恵に到達すれば、こころは澄みきってこだわりがなく…
こだわりがないから、恐怖もなく…
人々が囚われている倒錯した現実認識の一切から自由になれるのです。
”涅槃”とよばれる、穏やかで平和なこころもちに到達し、前世、現世、来世のすべての諸仏が、この知恵に到達して、「阿耨多羅三藐三菩提」の”悟り”を得ていきました。
よって、仏の知恵に到達する神秘の”おまじない”を唱え、一切の苦を取り除くとよいでしょう。
その”おまじない”は…
(こちらの迷いの世界から、悟りの世界である)彼岸(向こう岸)へ…
彼岸へ彼岸へ、わたらせたまえ(”ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー”の部分)
迷いの世界から、汚れのない穏やかな悟りの世界へ、わたらせたまえ
…仏の知恵に…いざ!…
…般若心経…
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