まあ、簡単に言えば「経済合理性(あるいは拝金思想)の前には倫理は無視される」というだけの話で、これは日本全国津々浦々にはびこっているし、あるいは世界中にはびこっている。通常はそれが見えないのは、それを「きれいごとで隠す」か、「圧力で隠すか」しているだけの話だ。
これも毎度書いている言い方で言えば、「案ずるに、筆は一本、箸は二本、衆寡敵せずと知るべし」であって、生活(人々の物欲)の前には正義(言論)は勝てない。「第三の男」の大観覧車の場面のハリー・ライムの言葉を借りれば、「あの、数十メートル下にいる黒点(人間)をひとつ消すごとに〇〇ポンド貰えるなら、それを断る人間なんているのかね。しかも税金無しだぜ」である。さらに遡れば、バルザックの小説に出てくる悪党ヴォートランの「君がひとつ頷くだけで、君のまったく知らないシナの高官の首が飛び、〇〇フラン貰えるなら、君は頷かないかね」である。
ただ、そうした行為は下劣な行為であり、下劣な行為をする者は、それをしたこと自体によって罰されている。それは、「自分は邪悪な、下劣な人間だ」という意識の下で生きるしかないことだ。意識はしなくても無意識の中で知ってはいる。(これがラスコリニコフの「罪」に対する「罰」である。)
すなわち、何億円の資産と収入があるだろう加計孝太郎や安倍総理や麻生大臣として生きるより、ただの貧乏人として、腹は減っても「気が飢える」ことなく清々しい気持ちで生きるほうがはるかにいい人生なのである。そもそも、彼ら(加計・安倍・麻生)の顔自体がその性根や生き方の汚さを明らかに示しているではないか。ああいう顔をぶら下げて人間面(づら)して生きるくらいなら、我が家の猫のほうが幸福だろう。
(以下引用)
そして、残念ながら、戦後もこの傾向はなくならなかった。いまだに継続されている。特に、ラグビー、野球、サッカー、テニスなどの体育会系運動部では、年功序列の上意下達型の縦社会組織が形成されているように思える。
そこでは、いまも目上の者に対する絶対的服従は当然であり、目下の者はいかなる命令にも背くことは許されない。非科学的な根性論や精神論がはびこっている。
このような関係のもとに、必然的に起こったのが、戦時中の特攻であり、今回の日大アメフト部の事件なのだ。(中略)
リーダーが陥っている不条理
おそらく、いずれもケースも上層部が指示命令し、部下がその命令に忠実に従ったのだろう。
しかし、なぜ上司はそもそもこのようなルール違反で非人道的な命令をおこなったのか。答えは簡単だ。彼らはいずれも損得計算し、その結果、その方が得だと考えたからである。
つまり、不正なことを命令し、実行させることが合理的だという「不条理」に陥ったのである。(このメカニズムについては拙書『改革の不条理』に詳しく解説している)
戦時中、日本軍の上層部は、海軍航空隊の若手兵士たちの実力では、到底敵を攻撃することはできないことを認識していた。それゆえ、損得計算すれば、若者たちを直接敵に体当たりさせる方が合理的だったのである。
同様に、日大アメフト部の監督・コーチは、現在の日大の選手の能力では関西学院大学には勝てないと思ったのだろう。それゆえ、損得計算すると、相手選手を直接ケガさせた方が合理的だと判断した可能性がある。
このような上司たちが行う損得計算の結果を部下に実行させることは、命令と服従の原理が浸透している組織では容易なことだ。
しかも、このような損得計算にもとづく意思決定は、ある意味で合理的で客観的で科学的かもしれない。というのも、この同じ状況に置かれれば、だれでも同じ損得計算を行い、同じ結果をえる可能性があるからである。
それゆえ、そのような損得計算にもとづいて客観的に命令しているリーダーは、その責任を取る必要性を感じないのである。
しかし、このような損得計算を行うには、はじめから人間を物体や備品のような消耗品として扱う必要がある。
損得計算の中に人間を組み入れるには、一人ひとりの人間がもつ固有の価値、個性、歴史、そして尊厳など、はじめかから無視する必要があるのだ。そうでないと、損得計算ができないのである。
このような損得計算を行動原理として、上層部は徹底的に行動していたために、戦時中、日本軍は世界でも最も人間の命を粗末にしていたのであり、特攻という人間を兵器の代わりにする前代未聞の作戦を行う鋼鉄の檻のような冷酷な組織だったのである。
その結果、どうなったのか。その過ちからいまだ学んでない組織として日本の一部の体育会系運動部があるように思える。(後略)
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