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徽宗皇帝のブログ

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自殺の統計への感想
「混沌堂主人雑記」に載っていたグラフを転載。
上の方のグラフはいろいろと面白い。
一見して分かるのは、ギリシア、イタリアなどEU内では経済がうまくいっていない国の自殺が少ないことだ。これは、能天気な国民性だと貧しいだけでは自殺しにくい、ということではないかwww まあ、いざとなれば売春をしてでも女の紐になってでも生きていけばいいさ、という連中はなかなか死なないwww 下手にプライドがあると自殺する。
一見しただけだと気づきにくいのは、男女の自殺率が、世界的に見ても(まあ、世界的と言うほど網羅的な統計ではないが)大きく差があることだ。つまり、男は自殺しやすい。女はなかなか自殺しない。これは、男が観念的な生き物で、つまらない観念で頭がコチコチになっているのに対し、女はより本能的な生き物だからだろうと私は思っている。観念に縛られると、観念に殺される。だが、本能を優先させれば、自己保存は本能の最たるものであるから自殺という選択肢は出て来ない。
三島由紀夫など、観念の化け物だから、若いころから死に憧れており、ああいう最期を遂げた。作家に自殺が多いのも観念に殺されるわけである。女の自殺はたいていが情死や心中ではないか。言い換えれば、同情や共感、優しさゆえの自殺だ。自分自身の存在や生きることで受ける恥辱を嫌悪するがゆえの(いわば本質的にはエゴイズムからの)観念的自殺は男に多いように思う。
もっとも、私は観念からの自殺を否定するものではない。自殺は究極的な「自己決定」であり、「自殺権」は人権の最たるものだと思っている。
自殺を許さないというのは人間以上の存在、つまり神を想定しないかぎりありえない話だろう。神に与えられた命だから、当人にはそれを処分する権利は無い、という思想である。
もちろん、無神論的社会でも、自殺を「無責任だ。周囲の人間に迷惑だ」と非難したり批判したりするのは周囲の人間の勝手だ。だが、「人間には生きる義務がある」などというお説教は余計なお世話というものである。生きようが死のうが当人の勝手である。

下のグラフは、「まあ、当然の結果だろうなあ」という感想だ。今の日本(あるいは韓国)のような、若者にとって「(未来への)夢も希望も無い」国で若者がどんどん自殺するのは当たり前である。

ただ、若者のために忠告しておくが、私は10代のころは毎日のように自殺を考えていたが、あのころ自殺しなくてよかったと思っている。たいていの悩みは自分自身で作り出した妄想であり(特に劣等感や恋愛関係の悩みはそうだろう。)、自殺は悩み事のいい解決策かもしれないが一度しか使えないという欠点があるwww 旧約聖書の中に「最後まで耐え抜いた者は救われる」という言葉があり、若いころの私は自殺念慮が起こるたびに、なぜかその言葉を想起しては自殺を延期し、結局、若さゆえの神経過敏が治まるころには自殺したいなどという気持ちはまったく起こらなくなった。
解決困難な人生問題に対する一番の解決策は、問題を棚上げすることだ。そうすれば、たいていの問題は、問題自体がいつのまにか消滅する。(若いころの自殺念慮は、当人が思っているようなあれこれが原因ではなく、実は若さそのものが原因であるから、若さが無くなれば自然消滅するわけだ。それに類似した錯誤は多いと思う。)

なお、「最後まで耐え抜いた者は救われる」は、よく考えると、「最後まで」とは「救われるまで(現在の状態が終わるまで)」ということであり、生きたまま救われるか死ぬことで救われるかは別として、「最後まで」行けば救われるのは当然なのである。つまり、これは「救われるまで耐え抜いた者は救われる」という同義反復とも言えるが、数学的真理とも言えるわけだwww


蛇足だが、「最後まで耐え抜いた者は救われる」という言葉を知ったのは旧約聖書を読んでではなく、ドストエフスキーの本によってである。そういう意味では私はドストエフスキーに命を救われているとも言える。ひとつの言葉が命を救う、ということは珍しくない。逆も真なりで、ひとつの言葉が人の命を奪うこともある。



(以下引用)




出典:しきそく



出典:しきそく





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