"哲学・宗教・その他の思想"カテゴリーの記事一覧
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飯山老人の今日の記事に言及されていた「武山祐三の日記」というのを少し覗いてみると、なかなか面白いので、「お気に入り」に登録した。
その武山氏の宗教についての考えが私とよく似ているので、少し引用する。
そのエッセンスは、現在の宗教は、その宗教の始祖の思想とは大きくかけはなれているというものだ。
仏教やキリスト教の正統を受け継いでいると称する何々宗の仏教やバチカンだけでなく、新興宗教のほとんどは過去の宗教を捻じ曲げ、利用したものである。バチカンについては、私は「ユダヤ教に乗っ取られ、利用されているキリスト教」と見做している。
まあ、とりあえず、武山氏の言葉を引用しておこう。
(以下引用)
その一つの分野が宗教なのです。いま現存している世界の大宗教はすべて真実が改竄され、宗教の開祖と言われる人たちが当初唱えていた教えとは全くかけ離れたものになっているのです。その代表がキリスト教です。私が言いたいのは、そもそものキリスト教は、教会組織を持たない、また経典である旧約・新約聖書も、当初とはかなり変更された布教と伝道に都合のよいように改竄されたものです。これは、キリスト教に止まりません。仏教もそうです。特にキリスト教はこの前に取り上げた、教会主義正統派キリスト教徒と、グノーシス派とが、凄惨な勢力争いを演じてきた歴史が厳然として存在するのです。特に、グノーシス派は徹底的に弾圧され、抹殺されつくし、護持する教えの基本である殆どのテキスト、文書類が焚書や破壊によって歴史上姿を消したのです。その結果、宗派の真髄が失われ、研究さえまともに行われてきませんでした。やっと近年、各地の遺跡や埋設物の中から奇跡的に発掘され日の目を見るようになったのです。その典型が、ナグ・ハマディ・コーデックス(写本)なのです。このナグ・ハマディ写本と似たようなケースが1970年代に発見された「ユダの福音書」というものでもあります。
この様なキリスト教の歴史を調べて行くと、そこに思いがけない真実が見えてきます。それが従来のバチカンを中心とした教会主義のキリスト教の姿との大きな違いなのです。その典型的な相違が、神という存在を教会と言う組織の中に見出すのか、あるいは自身の中に発見するのかという根本的な思想の違いに現れているから、問題なのです。この事を述べ始めるととても少数の紙数では無理ですから、いつか機会があれば皆さん自身で研究してほしいのですが、つまりは、これまでのキリスト教は世俗支配のために堕落してしまった教義に堕ち込んでおり、聖典、教会組織、自身を罪人と認める告白とによって、宗教自体を維持してきたのです。
この考え方には異論もあるでしょう。特にキリスト教を信仰してきた人には違和感が否めない筈です。しかし、この事は多くの歴史学者や、神学者が認めていることなのです。だがしかし、信仰と言う規範から物事を見るとき、歴史的事実とは相容れない面があります。ここが一つの矛盾点です。日本の仏教でも同じことが言えます。要するに、理屈ではないのです。前にご紹介したエレーヌ・ペイゲルスという人物も、別の本で告白しています。「禁じられた福音書―ナグ・ハマディ文書の解明」という本の中で、氏はこう述べています。
…この選択という行為――異端 heresy という語のもともとの意味――は、私たちをあの問題に立ち返らせる。それを解決するために正統教義というものが作り出された、あの問題だ――如何にして真理と虚偽とを見分けることができるか。何が本物であり、私たちをリアリティに結びつけてくれるものであり、そして何が浅薄で利己的で邪悪なものなのか。神の真理の名において行われてきた愚行、感傷、欺瞞、殺人を見てきた人は、古代人が霊の識別と呼んだ問題に容易な答えなどないことを理解しているだろう。正統教義は、このような識別を行う私たちの能力を疑う傾向があり、私たちの代わりにそれを行ってやると主張する。だが人間には自己欺瞞という能力が与えられている事を鑑みれば、ある程度までは、教会に感謝することもできよう。私たちの多くは、困難な修行など忌避して、ただ伝統の教えるところのものを喜んで受け入れたがるものだ。
だが、簡単な答えなど得られないという事実は、その問題を避けてもよいということを意味するわけではない。私たちは、宗教的権威を疑問なく受け入れることによって引き起こされた危険を――あるいは恐るべき害悪をさんざん見せつけられてきた。私たちのほとんどは、遅かれ早かれ、人生の重大な局面において、誰もいないところに自ら道を切り開かねばならないということに気がつく。私が、私たちの宗教伝統の豊かさと多様性の内に――そしてそれを支える共同体の内に――愛するようになったものとは、そこに数え切れない人々の霊的覚醒の証言があるということだ。だからそれは、イエスの言葉を借りれば、「求め、見出さん」と努力する人々を力づけるのである。
長い引用になりましたが、何と含蓄の深い言葉ではないでしょうか。
最後にまとめをしておきます。このように、伝統的教義とはバチカンを典型としています。そのバチカンは、ある点からみれば、邪悪な教会組織です。しかし、エレーヌ・ペイゲルスの言葉にあるように、自己欺瞞によって正当化されてきた面も見逃せません。しかし、このままでは新しい時代は迎えられないのです。それこそがパラダイムの大転換であり、真実の発見なのです。多分、私たちは時代の転換点の一番大切な所に立ち会っています。我々の役割は重要なのです。やはり、水がめ座の象徴である「時代の転換」には、その前に、破壊が避けられないのです。バチカンは破壊されます。聖マラキの預言にもそのようなものがありました。(終)PR -
「宗教否定論・あるいは『豚的幸福』について」
中江兆民は「続一年有半」の中で、神が存在しないことを明瞭に証明している。この「続一年有半」があらゆる宗教家や哲学者から無視されていること自体が、その議論の正しさを証明しているだろう。
神など存在しない以上、あらゆる宗教は欺瞞・迷信である。
あらゆる宗教は迷信である、というのが宗教否定論の第一のポイントである。
宗教が迷信である以上、宗教を土台とした人生は誤魔化しの人生、偽りの人生である、というのが第二のポイントだ。
ただし、それは主観的には充実した人生となる可能性が高いし、人生の価値は本人の主観(あるいは幻想世界)の中にしか無い、という考えもあるので、誤魔化しの人生や偽りの人生が無価値な人生だとは断言できない。
これまでの宗教否定論は、ただ第一のポイントのみを問題にしていたため、宗教信者には何の打撃も与えることはできなかったのである。なぜなら、宗教を信じることによって現に自分が幸福であるというその事実の前には、合理性を根拠にした批判など、無意味だったからである。
無知による幸福を夏目漱石は「豚的幸福」と言ったが、問題は我々が豚的幸福を受け入れるかどうかなのである。事は、あるいは宗教だけには限定されないかもしれない。社会が与える偽りの現実、「常識」や「制度的思考」の中で生きることは、確かに生きることを容易にする。しかし、そういう「豚的幸福」に我慢できないという精神の持ち主もまた存在しているのである。
豚的幸福のイメージは次のようなものだ。本人のイメージの中では、美と快楽に取り巻かれ、幸福の絶頂の中にいながら、他人から見れば汚物の中を嬉しげに転げ回っているという状態。これが豚的幸福である。我々が新興宗教の信者を見るときのイメージは、まさにこれなのである。
だが、本人の主観の中では、それが幸福なのである。ならば、外部の人間がその幸福に口出しする意味はない。社会的にはっきりとした害悪になるまでは、新興宗教は取り締まれないというのはそのためだ。
だが、親しい人間が宗教の信者であったことを知った時、我々は「この人は異世界の人だ」というバリアーをその人との間に感じざるを得ない。
ユダヤ教では非ユダヤ教徒をゴイム(豚)と言うそうだが、逆に我々から見れば、ユダヤ教に限らず、あらゆる宗教の信者こそが「豚的幸福」の中にいる人々なのである。 -
箴言家としてのニーチェについて
私は哲学者としてのニーチェにはほとんど興味は無いし、それ以前に、哲学の書物を読みこなす能力も無いが、箴言家としてのニーチェは面白いと思っている。もっとも、その箴言の中には理解不可能なものも多いのだが、理解できる部分だけでも十分に面白い。その一部をここで私なりに分析・解釈してみたい。
その前に、ニーチェの特徴をまとめておこう。彼は何よりも、人間心理の鋭い洞察家である。だからこそ、優れた箴言や警句が書けたのである。次に、彼は「力」というものに強烈なオブセッション(強迫観念)を抱いていた。裏返せば、自らの弱さに強いコンプレックスを感じていたのではないかと想像できる。その劣等感は、たとえば生物としての女性の強さへの劣等感である。そのために、彼の警句の中には、女性の知性への軽蔑の言葉が多い。あるいは、彼は性的不能者ではなかったか、とも思われる。もちろん、彼は梅毒患者だったから、性的交渉がまったくなかったことは無いだろうが、梅毒を移されたこと以外にも、女性に痛い目に合わされた事がありそうである。あるいは社会的な不遇が、彼の無力感と劣等感、不満の原因だったかもしれない。いずれにしても、彼は「力」というものに強烈な憧れを抱き、それが彼の「超人思想」となったのだろう。そして、その「超人」とは現世的な宗教的道徳的桎梏を物ともしない人間なのである。たとえば、チェザーレ・ボルジア(最近は、チェーザレ・ボルジアと表記する人が多いが)のような大悪党などが、彼の憧れる超人だったのではないかと思われる。したがって、彼の箴言の中には、世俗の道徳を軽蔑して、悪を礼賛する言葉が多い。
であるから、彼の箴言は、彼と似た体質の人間、つまり、頭はある程度いいが、本質的には気が弱くて、その弱さに深い劣等感を抱いている人間(西尾某などのことだが)に強くアピールする言葉が多い。そうでない人間から見れば、彼の箴言の多くは詩人的な無根拠の断定か虚勢であるから、丸飲みにはできない。しかし、人間性に対する彼の洞察力は素晴らしいものだから、いろいろと分析・解釈する価値は十分にあるだろう。
これから挙げる箴言は、『善悪の彼岸』から抜き出したものである。その第四章が「箴言と間奏曲」という章名で、そこからほとんど抜粋した。訳は竹山道夫で、文章が古いが、そこがニーチェっぽい感じもする。時々、意味不明の文もあるが、そこは「解釈」と「推測」で片づけよう。
1 ただ一人への愛は一種の野蛮である。何となれば、それは他のすべての者の犠牲において行われるゆえに。神への愛もまたしかり。
[解説] 特に解説の必要もない、分かりやすい箴言である。恋愛至上主義者への強烈な嫌みではあり、また「神への愛」を絶対視するキリスト教徒への嫌みでもある。もちろん、「兼愛」説(「兼愛」とは無差別愛である)の墨子という偉人を2000年以上も前に持っている東洋人にとっては、特に驚く思想ではない。ともあれ、一人に対して絶対の愛を捧げるということは、他のすべての人間を無視することだ、ということを、恋愛至上主義者は考えるべきだろう。恋愛とは、危険な爆弾、あるいは劇薬なのである。幾つになっても恋愛をしていたい、などとノタマう馬鹿な女は、性欲やちょっとした胸のときめきを恋愛だと思っているのだろうが、そんなものは恋愛などではない。
2 「われこれをなしたり」――わが記憶はかくいう。「われこれをなせしことなし」――わが矜持はかくいい、いって枉(ま)げぬ。このとき、ついに譲るは記憶である。
[解説] 「これ」が、(恥ずべき行為)のことであると明確にしないから、いわくありげな物々しい箴言に見えるが、要するに、我々はいつも自分で自分を騙すものだ、ということである。自分の記憶でさえも我々はねじ曲げて、自分の都合の良いように作り変える。言い換えれば、事件に利害関係のある当事者の証言ほど当てにならないものは無い、ということである。自分の記憶が自分を騙すことをも知らない素朴な人間には有益な箴言であろう。
3 いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない。
[解説] ニーチェ本人はどうなのだ、と聞きたくなる言葉だ。だいたい、哲学者という人種は現実の厳しさと格闘しているはずはない、と私は思うのだが。――「いたわりつつ殺す」とは、「泣いて馬謖を斬る」みたいなことか。愛する人間でも切り捨てねばならない場面が現実人生にはある、ということだろうが、その時、除去される人間から見れば、いたわりつつだろうが、非情に切り捨てようが、同じことである。結局、これは切り捨てる側を甘やかす言葉にすぎない。つまり、権力者擁護のおべんちゃらだ。ニーチェの思想を一言で言えば、「力は正義なり」という俗な言葉になるのであり、それを「超人思想」などと麗々しく言うから偉そうに見えるだけである。ただし、神の支配の下に人間性が抑圧されていた時代ならば、神を捨てて、人間が自分だけの力で生きることを求めたのは優れた反抗だっただろう。しかし、神が存在しない場合の世界は、力のみが支配する野獣の世界なのかどうか。人間の歴史は、力の支配から理性の支配へという進化の過程であるべきであり、「超人思想」などというものは、結局は自分を超人だと思いこんだ傲慢な狂人を生み出すだけのものだろう。
4 一人の人間の性欲の程度と性質とは、その人間の精神の最高の頂にまで及ぶ。
[解説] 意味深なような、下らないような箴言だが、ニーチェの性欲、あるいは男女関係へのこだわりを示す言葉として取り上げた。この言葉は、性欲を賞賛した言葉とも、精神を見下した言葉とも取れるが、いずれにしても、性欲と精神がシンクロするならば、哲学者こそが性的超人でもあるという馬鹿げた結論になる。もちろん、そんなはずはないのであって、むしろ哲学者は性的には弱者であるにきまっているのである。マルキ・ド・サドなどを哲学者とすれば、話は別だが。逆に、哲学者への軽蔑の言葉としてみよう。すると、いくら偉そうなことを言っていても、お前の下半身以上のレベルには、お前は達せないのだよ、という皮肉になる。このほうが面白いと言えば面白い。
5 おのれを蔑む者も、侮蔑者としてなおおのれを敬う。
[解説] これは面白い。人間のナルシシズムを見事に突いた箴言である。逆に、この言葉こそが、ニーチェ自身がいかに(哲学上の)ナルシストであったかを如実に示している。解説の必要も無い箴言だが、念のために言えば、己を蔑む自分は、侮蔑者として、蔑まれる自分よりは認識の高みにいるわけだから、そこに自己満足がある、ということである。
6 女性たちすら、すべての私心ある虚栄の背後に、なお無私なる侮蔑を蔵している。――「女性」に対して。
[解説] 現代のフェミニスト活動家から、「メイル・ショービニスト・ピッグ」(男性優越主義者の豚!)と罵声を浴びそうな発言だが、この箴言については私は是非の判断ができない。多くの文学者が、「女性の敵は女性である」という趣旨の事を言っているが、それは「男の敵は男である」というのと同じことであり、なぜわざわざ女を貶めるのかが私には理解できないのである。しかし、その手の女性蔑視の発言に比べても、このニーチェの発言は相当にひどい。なぜなら、女性の女性への侮蔑を「無私なる侮蔑」つまり、客観的認識による侮蔑だと言っているからである。つまり、女は客観的に見て侮蔑されるべき存在だと言っているわけだ。そんな事を私がちらりとでも考えたと知ったら、私の女房が私をどうするか、恐ろしいことである。
7 感情をきびしく縛れば、精神には多くの自由を与えることができる。
[解説] これはいい言葉である。ロシアの神秘思想家グルジェフは、知性の中心と感情の中心は別だと言ったが、我々の知的思考がいかに感情によって邪魔されるかを知っている者は、すべてこのニーチェの言葉に賛同するだろう。ただ、問題は、どうすれば感情を縛ることができるのか、ということだが。それができれば、臨済の「随所に主となる」という理想が実現できたということであろう。
8 男子の成熟――小児のとき遊戯の際に示したあの真剣味を、ふたたび見いだしたこと。
[解説] これはニーチェの箴言の中の最高のものだろう。蛇足的に解釈すれば、この真剣味は、「遊戯的真剣」でなければならない。つまり、義務的真剣ではなく、それを楽しんでやりながら、真剣であるということだ。こうした真剣さが、人生を最高に意味のあるものにする。「遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺るがるれ」という『梁塵秘抄』の今様は、その人生の秘鑰(秘密を明らかにする鍵)を如実に表した名歌である。
9 いかに? 偉人とは? 私が見るのはつねにただ、みずからの理想を演ずる俳優にすぎない。
[解説] 偉人の内容を「世間的に成功した人物」と定義すれば、そうかもしれない。だが、偉大な芸術家、偉大な思想家、偉大な科学者が、ニーチェのこの言葉に当てはまらないことは明瞭だろう。軍人、政治家、実業家などなら、当てはまるだろうが。誰だったか忘れたが、ナポレオンの言葉の多くは、(たとえば、『崇高と滑稽の差はただ一歩のみ』などだが)俳優の言葉にこそふさわしいと言っている。実際、ナポレオンは、ナポレオンを演じた俳優であったのだろう。現代社会に、俳優やタレント上がりの政治家が多いのは当然だということである。彼らは、黒幕(脚本家)に与えられた台本を上手く演ずれば、それでいいのである。
10 今日、認識する者は自己を獣に化せる神として感じたいと願う。
[解説] 当のニーチェ自身がそうだったんだろうな、というのがこれを読んでの感想だ。「俺をただの獣と思うなよ。俺の中には神がいるんだぞ」と威張りたいのである。
11 道徳的現象なるものは存在しない。あるのはただ、現象の道徳的解釈である。
[解説] 当たり前でしょう、という感じだが、当時のドイツ哲学界には、わざわざそう言わねばならないような状況があったのかも知れない。もちろん、現在でも頭の悪い人間の中には、道徳が現象自体に付随していると思う者もいるかもしれない。そういう人間は、たとえばライオンが兎を噛み殺すことをも「悪」だと言うのである。もちろん、これは幼児的思考にすぎないのだが。現象は、人間の解釈を待って始めて道徳的かそうでないかの価値を備えるのである。
12 しばしば、犯罪者は自分の行為に価するだけの成長を遂げていない。彼はそれを小さくいいなし、誹謗する。
[解説] 「誹謗する」とは、もちろん、「犯罪自体を誹謗する」ということだ。つまり、ニーチェにとっては、犯罪は偉大な行為なのである。なぜなら、それはこの世の道徳をうち破る、力に満ちあふれた行為だから、ということだろう。ニーチェ信者ではない私からは、なぜ力があるのがそんなに賞賛されねばならないのかがわからないのだが。力のある人間は、弱者を虐げて権力をふるう。弱者は力では支配されない世の中を作ろうと努力する。どちらが人類にとって素晴らしいことか、考えるまでもないことである。しかも、弱者自身(ニーチェはそうだと私は思う)が強者を賞賛するに至っては、哀れとしか言いようがない。
13 犯罪人に有利な材料として、その行為の恐怖の美しさを引用しうるほどに、技巧のある弁護士は稀である。
[解説] 稀なのは当然で、現実の法廷でそんな弁護には何の価値も無く、一顧もされないからである。芸術家はしばしば、美を云々するが、一般大衆にとっての美は、犯罪などとは無縁の常識的な美にすぎない。そして、この点では、芸術家よりも一般大衆が正しい。芸術の虚構は虚構の中にとどめておけばいい。現実の犯罪と美は無関係でいいのである。
14 われらの虚栄心がもっとも傷つけられるのは、われらの矜持が傷つけられたときである。
[解説] あまりにくだらない箴言なので、かえって私の誤読かとも思ってここに挙げてみた。矜持が実体的な内容を伴わないときに、それを虚栄と言うのだ、と私は考えるのだが、矜持が傷つけられるとは、実体的な内容がありながら、それが他者に軽視されたり無私されたりして傷つくということだろう。それならば、それは矜持が傷つけられたのであって、虚栄心が傷つけられたことにはなるまい。また、矜持と虚栄心が同じだとすれば、これは「雨が降る日は天気が悪い」と言うのと同じ様な言葉である。それとも、以上は私の誤読で、元の文には、もっと深い意味があるのだろうか?
15 性愛についての異常な期待と、この期待の羞恥――。これあるがゆえに、女性ははじめからすべての自分の観点をそこなう。
[解説] ニーチェの女性論はすべて偏見に満ちているが、その女性論の大半は、本当は男性にもあてはまるものなのである。この箴言もそうで、若い男女なら誰でもニーチェのこの言葉は当てはまるのであり、特に女性にだけ通用する言葉ではない。そういう「観点」で見たら、ニーチェ自身の「観点」も、何かの先入観でそこなわれているような感じである。
16 愛か憎しみかが共演しないと、女性は下手な役者である。
[解説] 役者を下手だという評論家が正しいのか、それともその評論家に演技を見る目が無いのか。言うまでもなく、演技に関しては、平均的な男性は平均的な女性のはるかに下のレベルなのである。何より、日常生活における女性のあの如才なさこそが、女性の演技力を示しているではないか。現代は、男性と女性の差にほとんど意義の無い時代だから、男性も安心して女性の演技力に学んではいるが、まだまだ女性の方が上だろう。
17 われらの人生の偉大な時期は、われらの悪をわれらの善と呼びあらためる勇気を得るときにある。
[解説] またしても悪の称揚である。そんなに悪が好きなら、志願して刑務所にでも入りなさい、と言いたいところである。このように悪を賛美したニーチェが、どれほどの悪を為したというのか。神への反抗を主題とする哲学的な書物でさえも、詩の形で韜晦しなくては発言できなかったような弱虫人間であるニーチェに、本物の悪事を犯す度胸などあったはずは無いのである。
18 げに意味深いかな――。神が著作家たらんとしたとき、まずギリシア語を学び、しかも平人以上によくは学ばなかった。
[解説] この箴言は私には良くわからない。神の著作とは聖書だろうし、その聖書の最初の版がギリシア語で書かれたことは私も知ってはいるが、それがなぜ神の著作なのかが分からない。まさか、神についての著述が神の著作ということにはならないだろう。しかし、ここでは、神がギリシア語を学んで、聖書を書いたとされている。これは何かの皮肉なのか。では、どういう意味の皮肉なのか。聖書の文章が下手糞だと言っているのか。それとも、こんな下手糞な文章を神が書いたはずはないし、神が許容するはずもないから、キリスト教あるいはユダヤ教はインチキだと言いたいのか。いずれにしても、もってまわったような皮肉である。まあ、神が人間の言葉を学ぶというイメージには、ある種のユーモアが無いこともないが。
19 蓄妾さえも腐敗させられた。――婚姻によって。
[解説] またしても女性差別の言葉だ。どうしてニーチェという人は、自分の雄(オス)性をこうもアピールしたがるのか。まるで、東京都の某知事みたいである。言っていることは、「男は、女が欲しければ、幾らでも妾として飼えばいいのじゃ。結婚などという、一人の女に縛られるような習慣は糞くらえなのじゃ」ということである。
20 民族とは、六、七人の偉大な人間へと至らんがために、自然がなす迂回である。――まことに、さらにかれらをも迂回せんがために。
[解説] で、そうした偉大な人間が出て、何になるの、といったところである。偉大な人間とは、その他のあらゆる人間に恩恵を与えるから、偉大な人間なのであり、無数の平凡人がいなければ、「偉大な人間」などに意味は無いのである。人類の歴史が、数人の偉大な人間しかいなかったらと想像してみると、この言葉の馬鹿らしさがわかるだろう。それに、偉大さの基準はどこにあるのか。一般大衆や平凡人を軽蔑する人間は、自分はそうではないという妄想の持ち主がほとんどであるようだが、それはおそらく彼らが、一般大衆にその価値を認めてもらえなかったことへの恨みのせいではないかという気がする。
21 悪魔は神に対してもっとも広い視野をもっている。このゆえに、彼は神からかくも遠ざかっている。――げに、悪魔こそは認識のもっとも古き友なるかな。
[解説] 前半と後半のつながりが今一つ良くわからない。神から遠ざかることが、認識の必要条件だ、ということなのだろうか。つまり、ドグマからの解放だ。ここでの悪魔とは、ただ、神からもっとも遠くにあることの象徴なのだろう。別に、認識と悪事が結びつくわけではないだろう。ニーチェ流の芝居がかった台詞にすぎない。そこが詩人だとも言えるが。
22 両性は互いに相手について自己を欺いている。すなわち、かれらは根底においては、ただおのれを(あるいは、よりやさしくいえば、おのれの理想を)尊び愛しているにすぎないからである。
[解説] 一般的な恋愛の実相という点ではそうも言えるかもしれない。スタンダールの「結晶作用」は、このニーチェの言葉をより優しく、美しく言ったものである。ただし、これは恋愛が過大に評価されている西欧においては意味のある「冷水かけ」であるが、恋愛や結婚にもっと落ち着いた態度で臨む東洋ではあまり意味のない言葉である。もっとも、現代では東洋人にも恋愛教信者が多くなっているから、若い男女に恋愛の実相をこのように教えることは悪くはない。ただし、そのために、真の恋愛も失われることになるだろうが。真の恋愛においては、自分よりも相手が優先されるのであり、そうでない「恋愛」は、ただ性欲と所有欲と虚栄心の混合物にすぎない。ニーチェなどに真の恋愛がわかっていたかどうか、怪しいものである。
23 パリサイ的性格は善良なる人間の堕落したものではない。これをかなりもちあわせていることは、むしろすべて善良であることの条件である。
[解説] パリサイ的性格とは、イエスによって神殿から追い払われた連中、つまり、偽善的信仰者のことだろうが、ニーチェのこの言葉は善と偽善について、なかなかいい所を突いている。我々は簡単に「偽善は駄目」と言いたがるが、偽善とは何か。それは表面的にではあれ、善行をすることである。人間の内面を外から見る手段が無い以上、心からの善行と偽善とには行為としての区別は無いのである。偽善を嫌う人間はまた善行をもしないものである。つまり、偽善がいやだという口実で、善行をさぼるのが、こうした連中の特徴なのである。これにくらべて、パリサイ人は少なくとも、表面的行為の点では他人から非難されることはしないだけでなく、善行をもやるのである。これはすなわち、彼らが善良であることの謂いである。『徒然草』に「狂人の真似だと言って、大通りを走れば、それは狂人である」というような言葉がある。「聖人の真似だと言って聖人の行為をすれば、それは聖人である」とも言ったかと思うが、ニーチェのこの言葉は同じ趣旨ではないだろうか。
24 人間がおのれをたやすく神と思いこまずにいるのは、下腹部のゆえである。
[解説] 「下腹部」とは言うまでもなく、「性器」のことである。竹山道夫はそれをお上品に下腹部と書いてあるが、ニーチェの原文ではどうなのか。言っていることは、ニーチェでなくても、ルネサンスの作家、哲学者、モラリストあたりの誰でも言いそうなことである。日本には昔から(それほど昔でもないか)「下半身に人格は無い」と言う名台詞がある。これは人生の実相を知らないうぶな若い女性のすべてに教えておくべき言葉だろう。どんなに紳士的な男でも、時と状況では野獣となる、ということである。
25 一人の女性が学問に対する愛好心をもつとき、それは通常、彼女に性的欠陥が伏在することを示す。すでに不妊という事実が、ある程度の趣味の男性化の因となる。男性は、いわば「不妊動物」である。
[解説] ニーチェにしてはまともな女性論かもしれない。女性は、それ自体「物を生む性」であるから、学問・芸術などで欲求不満を解消する必要は無いはずだ。だが、現代の女性は、子供を生むことだけでは「生産欲求」を満足できないようである。そこで、子供を生むだけにとどまらず、子供を自分の理想に育てようとして、たいていは失敗し、子供を駄目にすることが多いようだ。あるいは、本人が「生産的」「創造的」と信じる何かの活動(かつては男性の活動であったものがほとんどだ)に邁進する。こうして、男性化した女性と、もともと「不妊動物」である男性が現代社会を作ることになるが、これが良い社会かどうかは判断が難しい。人生を自己実現の場と考えれば、不妊動物たちが非生物的生産にいそしむ社会も、案外と満足した一生を与える場なのかもしれない。男性が不妊動物であるという指摘は、ニーチェにしては上出来である。学問・芸術・政治はその不妊動物たちのはかない遊びから作られたバベルの塔なのだろう。その中に、ベートーベンの第七番や、トルストイの「戦争と平和」があることを思うと、不妊動物であることも、必ずしも悪くは無いという気がする。