本論(1)経済と産業の最後は、日本国内のカネの循環というか、カネづまりとカネ不足の問題だ。
まあ、これは論じるまでもなく、庶民にカネが無い、の一言に尽きる。
では、なぜ庶民にカネが無いのかと言えば、カネは全部上級国民が吸い上げているから、という単純な話で、話はこれで終わり、となる。
そこで、ではこれからの日本のグランドデザインをどうするか、という問題に焦点を絞るなら、これも簡単な話で、カネを庶民に回せ、ということで話は終わりだ。
だが、それを如何にして、となると話は簡単ではない。
そもそも、守銭奴たちからカネを召し上げるには、ヒトラーかポル・ポトばりの超権力者が必要だろう。今の日本では、その超権力者がその守銭奴たちの代表なのだから、それができるわけがない。しかも、選挙では不正選挙の可能性が高いのだから、まともに選挙で政権交代をすることもできない。マスコミも教育界も地方権力者もすべて連中のお仲間だ。
というわけで、これからの日本のグランドデザインを考えるという試みは、ここに来て最大の難関にでくわしたわけだ。
だが、日本国内のカネの循環の問題点、ボトルネックだけを書いておき、上記の問題は後で考察することにする。これも私の持論だが、「難問は放っておけ」である。そのうち問題自体が無くなることもある。テストで言えば、難問を解かなくても合格点さえ取ればいい、ということもある。
さて、日本国内のカネの循環のボトルネックだが、これは大きく三つ、
1)政府
2)企業
3)銀行
ではないか。
政府は税金や年金の不正不適切な使用法で国民経済を圧迫している。
企業は低賃金を社員に強要することで国民平均所得を下に押し下げている。
銀行は政府が民間に流すカネをムダに滞留させることでカネの流れを阻害している。(国債を買うだけで業務は事足れりとし、民間に融資しない。)
まあ、銀行の内情には詳しくないから、銀行に関しては私の間違いかもしれないが、1)と2)は確かだろう。だが、企業の立場からすれば、「安い給与でも人は来るのだから、文句を言われる筋合いはない」と言うだろう。雇用と給与の悪循環が生じているのである。つまり、「人をそれほど雇わなくても仕事は回る」という時代の趨勢の結果が、この全世界的な大衆の貧困化なのである。これの解決は、「ワークシェアリング」と労働時間短縮を世界的運動とするしかないだろう。つまり、20世紀初頭における「労働運動」をこの21世紀初頭において新たに火をともすことが必要かと思われる。
前に書いたように、上級国民をギロチンにかけても、コンピュータをぶっ壊しても、問題は解決しないのである。
言葉を変えれば、「今の世の中、人間がそれほど働かなくても、必要なものを作ることはできる」ほどに機械化文明が進みながら、なぜ人間の生活が悪化するのか、と言えば、それは20世紀の労働形態のままで仕事が行われているからだ、というのがここでの私の結論である。
まあ、1日4時間労働で、週休3日くらいが全世界標準の労働形態になるのが、この21世紀の常識にやがてなるのではないだろうか。
人々の余暇が多ければ、レジャー産業も必要性が増し、消費活動も増え、景気が良くなり、文化も増進する。いいことばかりなのである。大企業は率先して、そういう時代の先鞭をつけることで、時代に先駆けてその果実を得られる可能性もある。人々を8時間労働に縛り付け、遊ぶ余力も無い「半病人」の奴隷にすることで、実は社会全体が窒息し、やがてはその企業も死滅するのである。他者を生かしてこそ、自分も生きられる。それが社会というものだ。
以上で「本論(1)経済と産業」を終わる。
(追記)一番肝心なことを忘れていたかもしれない。「通貨発行権」の問題だ。日本政府ではなく日本銀行に通貨発行権があることが、日本の(どの国でもそうだが)経済を圧迫しているとすれば、この部分の改革が実は一番肝心なポイントかもしれない。日銀の発行する通貨を日本政府が利子つきで購入しているとすれば、これほどの不正行為はない。その利子の支払いで国家財政が圧迫されるわけだから。そうでなくても、正常な通貨政策のためには通貨は政府が発行すべきであるのは論を待たない。政府より私企業のほうが理性的に通貨を発行するという保証などあるはずもないし、通貨発行の詳細自体が国民からはブラックボックスとなっているのは大問題である。通貨発行権の帰属問題以外にも「信用創造」によって、「必要な現金」が市中に流れず、存在するのは「借金」の押し付け合い(常に銀行は貸し手側で、一般市民は借り手になる。そのカネも額面の数字だけが一人歩きしている。現金は市中に流れない。)だけだ、という「金融資本主義」の根本問題も考えるべきだっただろう。
まあ、これは論じるまでもなく、庶民にカネが無い、の一言に尽きる。
では、なぜ庶民にカネが無いのかと言えば、カネは全部上級国民が吸い上げているから、という単純な話で、話はこれで終わり、となる。
そこで、ではこれからの日本のグランドデザインをどうするか、という問題に焦点を絞るなら、これも簡単な話で、カネを庶民に回せ、ということで話は終わりだ。
だが、それを如何にして、となると話は簡単ではない。
そもそも、守銭奴たちからカネを召し上げるには、ヒトラーかポル・ポトばりの超権力者が必要だろう。今の日本では、その超権力者がその守銭奴たちの代表なのだから、それができるわけがない。しかも、選挙では不正選挙の可能性が高いのだから、まともに選挙で政権交代をすることもできない。マスコミも教育界も地方権力者もすべて連中のお仲間だ。
というわけで、これからの日本のグランドデザインを考えるという試みは、ここに来て最大の難関にでくわしたわけだ。
だが、日本国内のカネの循環の問題点、ボトルネックだけを書いておき、上記の問題は後で考察することにする。これも私の持論だが、「難問は放っておけ」である。そのうち問題自体が無くなることもある。テストで言えば、難問を解かなくても合格点さえ取ればいい、ということもある。
さて、日本国内のカネの循環のボトルネックだが、これは大きく三つ、
1)政府
2)企業
3)銀行
ではないか。
政府は税金や年金の不正不適切な使用法で国民経済を圧迫している。
企業は低賃金を社員に強要することで国民平均所得を下に押し下げている。
銀行は政府が民間に流すカネをムダに滞留させることでカネの流れを阻害している。(国債を買うだけで業務は事足れりとし、民間に融資しない。)
まあ、銀行の内情には詳しくないから、銀行に関しては私の間違いかもしれないが、1)と2)は確かだろう。だが、企業の立場からすれば、「安い給与でも人は来るのだから、文句を言われる筋合いはない」と言うだろう。雇用と給与の悪循環が生じているのである。つまり、「人をそれほど雇わなくても仕事は回る」という時代の趨勢の結果が、この全世界的な大衆の貧困化なのである。これの解決は、「ワークシェアリング」と労働時間短縮を世界的運動とするしかないだろう。つまり、20世紀初頭における「労働運動」をこの21世紀初頭において新たに火をともすことが必要かと思われる。
前に書いたように、上級国民をギロチンにかけても、コンピュータをぶっ壊しても、問題は解決しないのである。
言葉を変えれば、「今の世の中、人間がそれほど働かなくても、必要なものを作ることはできる」ほどに機械化文明が進みながら、なぜ人間の生活が悪化するのか、と言えば、それは20世紀の労働形態のままで仕事が行われているからだ、というのがここでの私の結論である。
まあ、1日4時間労働で、週休3日くらいが全世界標準の労働形態になるのが、この21世紀の常識にやがてなるのではないだろうか。
人々の余暇が多ければ、レジャー産業も必要性が増し、消費活動も増え、景気が良くなり、文化も増進する。いいことばかりなのである。大企業は率先して、そういう時代の先鞭をつけることで、時代に先駆けてその果実を得られる可能性もある。人々を8時間労働に縛り付け、遊ぶ余力も無い「半病人」の奴隷にすることで、実は社会全体が窒息し、やがてはその企業も死滅するのである。他者を生かしてこそ、自分も生きられる。それが社会というものだ。
以上で「本論(1)経済と産業」を終わる。
(追記)一番肝心なことを忘れていたかもしれない。「通貨発行権」の問題だ。日本政府ではなく日本銀行に通貨発行権があることが、日本の(どの国でもそうだが)経済を圧迫しているとすれば、この部分の改革が実は一番肝心なポイントかもしれない。日銀の発行する通貨を日本政府が利子つきで購入しているとすれば、これほどの不正行為はない。その利子の支払いで国家財政が圧迫されるわけだから。そうでなくても、正常な通貨政策のためには通貨は政府が発行すべきであるのは論を待たない。政府より私企業のほうが理性的に通貨を発行するという保証などあるはずもないし、通貨発行の詳細自体が国民からはブラックボックスとなっているのは大問題である。通貨発行権の帰属問題以外にも「信用創造」によって、「必要な現金」が市中に流れず、存在するのは「借金」の押し付け合い(常に銀行は貸し手側で、一般市民は借り手になる。そのカネも額面の数字だけが一人歩きしている。現金は市中に流れない。)だけだ、という「金融資本主義」の根本問題も考えるべきだっただろう。
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