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徽宗皇帝のブログ

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「便利さ」の持つ危険性
「東海アマ」ブログから転載。前置き部分を省略。
何度か書いているように、アマ氏の政治的意見はかなり偏見が強いので、その部分は飛ばして読むというか、無視するのがいいと思う。それ以外は私もほぼ同感である。

(以下引用)

 今回は、「便利さ」という価値が、どのように成立しているのかを具体例で見ながら、「便利であれば、いいもんじゃないよ」という本質を理解したいと思う。
 私は、若い頃「民俗学」に凝っていたので、民衆の生活史を考えながら、「ものごとの本質」つまり、対立する二つの側面について考え続けてきた。

 近代史上、もっとも「便利」な革命といわれる発明は、たくさんあるが、わけても、自動車と電灯、それにコンピュータ、原子力が人類史上、もっとも強烈な意味を持っている。

 エジソンが電球を発明したのが、1879年(明治12年)で、わずか7年後の1886年には、日本で最初の電気供給会社が成立し、明治末には、白熱電球が広く日本社会にも普及した。
 このことをもって、「真の近代」が始まったと考える人も多い。

 この「電球=人工光源」の普及によって、民衆生活は、有史以来最大級の革命を起こした。
 何が起きたかといえば、それまでは朝、薄明るくなる頃に起き出して、仕事を始め、薄暗くなると仕事をやめざるをえず、夜は長い休息の時間だった。
 石油ランプや行灯のような照明器具もあったが、光量は小さく、針仕事や商品の製作製造など精密な仕事をするのは容易ではなかった。暗くなってしまえば、台所で食事を作ることも困難だった。

 だが、電球の導入によって、ライフスタイルは一変した。人間の活動できる時間が、それまでの、せいぜい12時間から一気に24時間になった。
 おおむね、大正時代が始まってから、日本人は電灯のなかで長い時間を得ることになった。

 それからというもの、資本主義の金儲けの圧力が働く社会では、人々の労働時間が、どんどん増えていった。女工哀史などに描かれている世界では、15歳の少女が、紡績工場で一日16時間も働かされるのが普通になった。

 それまで、時間的な制約から、日本人は二食主義だったものが、明るさの延長によって、三食主義に変わっていった。長時間の重労働では、食べなければ体も持たないから。
 こうして、日本人の労働時間は、電灯の普及によって飛躍的に長くなった。
 だが、これによって利益が増えて喜んだのは、資本家だけだった。

 労働者にとっては、「暗くなったら休息する」という、人類成立以来の習慣が破壊され、苛酷な重労働によって、体も心も蝕まれる時代がやってきた。
 休息を奪われた人々は、いつでも過労が重くのしかかる人生になってしまい、人生は楽しいものでなく、苦しいものという時代がやってきた。
 しかし資本家が儲けるため「仕事をしろ」という社会的な同調圧力が作られて、人々の生活は奴隷になってしまった。

 ここで、振り返ると、電球は人間社会に飛躍的な便利さをもたらしたが、それは「良いこと」である反面、人々に「働き過ぎ」による苛酷社会をもたらしたという「悪いこと」をもたらしたのであって、これが「便利さ」の互いに対立する二面性である。

 その頃、近代産業地帯では、鉄道や自動車が発明され、人々は移動の労力を軽減されることになった。
 これも、「便利になった」わけだが、それは同時に、歩かなくなったことによる筋力の低下や、糖尿病や痛風など、生活習慣病を広く普及させることになった。
 人々が長時間の歩行を強いられた時代、糖尿病など存在できなかった。また、歩くことによって得られる健康維持効果も失われていった。
 また、自動車排気ガスは、ナチスドイツが自国民障害者の殺戮に使用しただけでなく、世界中の大気汚染の重要な要素となっている。

 原子力発電は、1940年代に、アメリカが原爆開発のために始めた。「平和利用の発電」という分野も、たぶん「殺戮兵器のための施設」という悪魔的なイメージを美化しつつ、核爆弾の原料を蓄積したいという計画から生まれたものだ。
 その証拠に、世界中の初期の原発は、BWR・PWR発電炉が完成していたにもかかわらず、プルトニウム製造に効率的な黒鉛減速炉を導入する権力者が多かった。
 日本でも、正力松太郎が最初に導入した東海原発も、プルトニウム生産用の黒鉛減速炉だった。

 原発は、「安価な原料で莫大な電力を生み出す」という宣伝が行われたが、そこには事故を起こしたときの超巨額の始末費用や、核燃料廃棄物の数万年という恐ろしい巨額の超長期保管費用は含まれていなかった。
 また、原発は通常運転であっても、周辺住民に心筋梗塞や癌をもたらす恐ろしい存在である。

 ビルゲイツやアルゴア(ダボス会議主宰組)らが、二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギーと称して、原発を今の数十倍に増やそうとしているが、その原発が、人類の遺伝子に作用して滅亡に誘う放射能汚染の源であり、事故を起こせば、国家予算を超えるほどの凄まじい費用がかかり、数十万年もかかって核廃棄物を処分するトイレさえ確立していない、大量人殺し兵器のためのものであることは隠されている。
 これもまた、二面性の最たるものだ。原発がクリーンエネルギーだって? どの口がそういう?

 現代社会に、最大のインパクト、大革命を与えたコンピュータAIについても、「便利さ」ばかりが強調されて、あたかも未来はコンピュータによって担われるとの宣伝を盲信している人が多いが、真実はとんでもないウソだ。
 コンピュータは、そもそも弾道計算機ENIACから出発したように、本当に役立つのは、戦争と戦争ゲームだけだ。それも、EMP爆弾が爆発するまでの間だけだ。
 https://sabage-archive.com/blog/archives/18655

 あらゆる管理システムがコンピュータによって行われ、AIによって生産が管理される社会になったが、それが、どれほど脆弱なシステム=砂上の楼閣にすぎないかを認識している人は少ない。
 それは「電気」という媒体に頼っていることの宿命なのだ。

 電気や電気信号というものは、いつでも誘導電流という存在によって危機に晒されている。
  それは、太陽活動によってX100~1000という黒点フレアが発生し、太陽風が地球軌道に照射されると、磁場が凄まじい誘導電流を引き起こし、地球上のあらゆる電気・電子機器を完全に破壊してしまう。
 https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/hoan_shohi/denryoku_anzen/pdf/006_02_02_12.pdf

 X100級フレアは、数十年に一度発生しているが、これまでは、たまたま地球軌道を直撃しなかっただけで、それは偶然にすぎない。それどころか、NASAは、今後、発生する可能性が強い巨大フレアによって、人類滅亡のリスクは核戦争より大きいと言っている。
 https://www.gizmodo.jp/2016/05/solarstorm_nasa_4.html

 今、我々は、プーチンロシアの無謀な軍事侵攻によって、核戦争のリスク=日本滅亡に晒されているわけだが、それによって人類が滅亡する確率と、巨大太陽風によって滅亡する確率は、それほど大きな差がないらしい。
だが、両者とも、我々の想像をはるかに超える高い確率なのだ。

 さて、EMP核爆弾が上空で爆発するか、X100フレアが地球を直撃すると、上空に巨大な磁場が生成されて、それが地上のあらゆる金属に誘導電流(サージ電流)をもたらす。
 例え電気が通ってなくても、コンピュータのような超微小回路はサージ電流によって焼き切れてしまうので、永遠に使用不能になる。
 また、大きな変圧コイルもまた、まともに破壊されるが、電気機器の多くは電源遮断によって助かる可能性もある。
 しかし戦争は突発的なので対応が間に合わないだろう。完全復旧までは10年もかかりそうだ。

 このように、「便利」になることの代償は極めて大きい。便利になったからといって、それが永遠に社会に貢献するとは限らず、逆に、不便だった方が結果が良いと思われるものも多いのだ。

 EMP核爆弾や巨大フレアによるサージ電流は、ほぼすべての電子機器を破壊し、コンピュータどころか、たぶん車も動かない。それは時代を一気に100年も引き戻すのだ。
 我々は、いきなり明治前半の時代環境へとワープさせられる。
 そうなれば、コンピュータやAIなどなかった方が良かったと思うだろう。

 耕運機など農業機械に頼る農作も、突然、機械が動かなくなれば、人手でやるしかないが、これまで楽ちんしてきたツケは大きい。
 私は、カルチベータが二台とも壊れたので、今年の春はスコップで耕耘したが、もの凄い重労働で、本当に大変な思いをした。これが数千坪だと、とても意欲が湧かない。
 だが、昔は、みんな鍬一本で粘り強く開墾したのだ。今、これを再現しろといわれても、できる人は少ないだろう。

 しかし、「便利さ」というものが、突然崩壊して、元通りの不便な生活を忍ばねばばらなくなったとき、便利さを当然のものとして頼り切ってきた我々には、とてつもない落とし穴が待っている。
 プーチンのサルマト核ミサイルが日本列島を直撃した後に、もしも生き残ったとすれば、我々は便利すぎた時代を呪うことになるかもしれない。

 コンピュータなど、糞の役にも立たないガラクタに変わる時代が、そこまで来ているかもしれない。もし車が使えなくなれば、頼りになるのは、自分の足だけだ。
 あなたは、その足に自信があるか?
 耕耘するための腕力があるか? コンピュータに頼り切って劣化した思考能力が元通りになるのか?

 すべての事物現象(ものごと)には、必ず対立する二面性がある。我々は、その二面を深く理解し、得られる便利さが、どんなデメリットをもたらすのか、もし便利さが喪失したなら、どんな困難がやってくるのか?
 その対策を深く考え、持続可能な子供たちの未来を作り出していかねばならない。

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