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徽宗皇帝のブログ

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「国民」という言葉の重さ
「混沌堂主人雑記」で知った「日居月諸」という覚えにくい名前の人のブログだが、非常に精密な思考力で、「ハンナ・アーレント」批判をした文章が興味深い。だが、非常な長文なので、その末尾の脚注だけを転載する。
我々が日本国憲法を読む時、さほど意識もしない「国民」という言葉の使用に、これほどのいきさつがあったことを知っている人は社会学者や政治学者の中にも稀ではないか。
もちろん、その当時にこれほどの手管を尽くした官僚が「賢明だった」という可能性はあり、それは現在の日本での「(仮面的)支配体制の異常性」に現れている、という見方もできるとは思うが、それは明らかに「非人道的な」ものだったと言えるのは確かだろう。つまり、現在のイスラエルのガザ虐殺と(レベルこそ異なれ)精神的双生児だとも言える。だからこそ下の記事の筆者はこの注釈を入れたわけだろう。
言うまでもなく「自然人」という概念で国家を維持することの困難さも想像すべきである。それは「国家の崩壊」ですらあるからだ。遠い未来には国境もなくなるという「イマジン」は可能だとしても。

(以下引用)


(注1)国民にしか人権を与えず、非国民には人権を与えない、という姿勢が最も表現されているのは、我々もよく知る日本国憲法第14条第一項である。



すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。



 ここでいう「国民」とは、憲法第10条(日本国民たる要件は、法律でこれを定める」)、そして国籍法が定めるように日本国籍を持つものに限られる。実は、この条項はGHQ草案の第13条では以下のようになっていた。



すべて自然人は法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない。
All natural persons are equal before the law. No discrimination shall be authorized or tolerated in political, economic or social relations on account of race, creed, sex, social status, caste or national origin.



 GHQ草案が「自然人」と書くことで日本国民ならずあらゆる人民を「法の下の平等」に置くのを狙ったのに対し、日本国憲法ではこれを「国民」と書き換えたことによって外国人は人権を授かる対象ではなくなってしまった(ちなみに、GHQ草案第16条には、「外国人は平等に法の保護を受ける権利を有する(Aliens shall be entitled to the equal protection of law.)」という文言もあったが、古関彰一の『日本国憲法の誕生』によると、当時の法制局第一部長佐藤達夫がGHQを相手に手練手管を駆使した結果これもいつのまにか削除されたという)。
 このような書き換えは、当時日本にいた在日朝鮮人の扱いとの兼ね合いで起こった可能性が高い。1947年に日本は外国人登録令を公布し、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」とした。この結果在日朝鮮人は、「朝鮮」籍をもつことになる。一見すると朝鮮の国籍のようにみえるが、実はこれは単に朝鮮出身という意味合いしか有していない。直截に言えば在日朝鮮人は事実上の無国籍に処せられたのだ。
 その後、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効されるにともなって外国人登録令は廃止されたが、ここで「朝鮮人及び台湾人は、内地に在住している者を含めてすべて日本の国籍を喪失する」との通達によって、正式に在日朝鮮人は国籍を喪失した。その結果、在日朝鮮人は国籍を持たない外国人として日本で生活していくこととなる。
 たしかに、現在はたとえ憲法に「国民」としか書いておらずとも、人権は外国人にも適用されるとの解釈が一般的である。1964年には「本条(憲法第14条)の趣旨は、特段の事情の認められない限り、外国人に対しても類推適用される」との判例もある。
 もっとも、今日もなお日本においてくすぶっているマイナー民族の問題(在日朝鮮人、クルド人、異様なまでに低い難民の認定率、入管問題……)を踏まえれば、その程度の姑息な手段が根本的な解決にならないことは言うまでもないだろう(そもそも、日本国民自体が今日人権をもつ対象として扱われているか、という問題もあるにせよ)。

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