最近、「反知性主義」という言葉が、新自由主義やネオコンの人々への批判としてよく聞かれるが、私は単に頭が悪いだけの人間をそう呼んでいるだけのことかと思っていたから、この風潮にあまり好感を持っていなかった。自分自身がけなされているかのように思うからだ。私は、村上春樹ではないが、壁に投げつけられる卵の側に、自然に立ってしまう人間だからである。
だが、これは「主義」であるようだ。へえ、そんな主義もあるのか、と驚くが、要するに、「知性を振りかざす人々への嫌悪や反感」が主義の次元にまで至った連中を「反知性主義者」と言うらしい。
そう言われても私はまだ自分が一種の「反知性主義」かもしれない、と感じる部分はある。アカデミズムの持つ「ギルド」的側面や「御用学者」的側面への反感や批判の気持ちが私には根強くあるからだ。それは知性そのものへの嫌悪ではないが、いわゆる「エッグヘッド」連中(額の広い奴ら、知性を振りかざす、インテリぶった連中)があまり好きではないのである。
私自身がある種の「反知性主義者」であるとすれば、それは、「論理をそれほど信じていない」という部分だろう。理屈と膏薬はどこにでもくっつくものであることは、反知性主義の旗手である橋下徹がそれを証明している。(私の橋下徹への嫌悪は、彼の「反知性主義」的部分にではなく、彼が大嘘つきであることと、権力や金力の走狗であることにある。)
屁理屈と理屈の区別など、即座に見分けがつくものではない。その論理のいい加減さを後になって証明したところで、現実は常にその先まで進んでいるのである。これこそ、「反知性主義」の勝利だろう。。
さて、論理というものがいかに現実に対して無力なものか、ということの一例が下のツィートにある。これは、論理の基本である、「言葉のつながり方」がどれほど容易に捻じ曲げうるか、という実例だ。
「尊い犠牲」
わずか2文節の短文だ。「尊い」と「犠牲」だけである。ここには誤読の余地など無さそうに見える。だが、「犠牲」は、言葉としては1単語だが、「我が身を何かのために捧げる」という複雑な事象である。ここで論理のすり替えが可能になるのである。
右翼的な人々が「尊い犠牲」と言うとき、尊いのは「死ぬこと」であり、その死が捧げられた「何か(国家)」である、とされるわけだ。「尊い生命が犠牲になったことを悼む」ように見せかけながら、実は「生命より大事なものがある」ことを人々の心に刷り込む意図がここにあることを、国民の多くは理解していない。理解できるのは小田嶋隆くらい言葉に敏感な人だけだろう。そして、小田嶋隆は多分「反知性主義」の跳梁跋扈を危惧する側に立っていると思うが、現実世界では、もともと(「主義」というほど意識的ではないだろうが)反知性的言動、すなわち直感的言動や脊髄反射的言動こそが圧倒的優位なのではないか、と私は思っているのである。
妙なたとえだが、「バッターボックスの中で「考えている」時点で(打者の)負けだよ」、というようなセリフが、ある野球漫画の中にあったが、現実世界にはそういうところがある。日常の言葉のやりとりですら、反射運動に近いと私は思っている。考えて喋ろうなどとすれば、間に合わないのである。これで、知性が現実生活の中でどう勝利できるだろうか。知性が意味を持つのは、「書かれたもの」の中だけだ、と私はひそかに思っているのである。
だが、書かれたものは、人の心に静かに浸透していく。それが、長い間には現実を変える、とも思っている。
私がこの一文を書いたのは安倍政権への批判として「反知性主義」という言葉を使うのはやめた方がいいと思うからだ。この言葉が学者や評論家などの間から出されたら、大衆は必ず、それは学者たちの思い上がりの言葉であり、自分たち大衆やその支持する人間を不当に非難する言葉だ、自分たちへの侮蔑の言葉だ、と思い、学者たちのリベラルな言説(憲法擁護の発言など)そのものを否定する気持ちに傾くだろう。これは絶対にそうなる、と私は思っている。そうなっては困るのである。つまり、これは「戦略的にマズイ」のである。
(以下引用)
小田嶋隆 @tako_ashi 7時間前
- 尊い生命が失われることは「尊い」ということとはとまったく相容れない、悲惨で不当で醜い出来事だ。にもかかわらず、「尊い犠牲」という言い方を繰り返す人々は、いつしか「生命が失われること」そのものを尊い行為であるとする考え方にたどり着く。
- 残された遺族の立場から見れば「尊い犠牲」という言い方は「かけがえのない尊い生命が失われたこと」を悼むものだ。が、国や軍隊を主語とする文脈の中では、同じ「尊い犠牲」という言葉が、「国のために生命を投げ出した行為」ないしは「死そのもの」を称揚するフレーズになる。
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