「酔生夢人」ブログの過去記事を読んでいたら、「高校生のための現代世界入門」というシリーズが我ながらなかなかいい事を書いていて、高校生どころか社会人が平均的にこの程度の知識があったら、日本は今のような悲惨な社会になっていなかっただろうな、と思ったので、その一部をこの「徽宗皇帝のブログ」に自己引用しておく。もともと、載せるブログを間違ったかな、とも思うが、当時は二つのブログをあまり区別していなかったのである。
(以下自己引用)アメリカの民主党についての判断は当時(2000年代初頭)のもの。
(以下自己引用)アメリカの民主党についての判断は当時(2000年代初頭)のもの。
高校生のための「現代世界」政治経済編5
第四章 自由主義・資本主義・社会主義・共産主義
表題の言葉も、区別のはっきりしない言葉です。政治経済用語集を見ても、今一つ腑に落ちないという人が多いでしょう。その区別をするためには、次のような対比構造で捉えるのがいいかと思います。ただし、これは私の捉え方です。
① 自由主義VS社会主義 {広義の用語で、政治と経済の両面に渡る}
② 資本主義VS共産主義 {やや狭義の用語で、経済面を主とする}
③ 社会主義<共産主義 [これは価値の上下ではなく、過激さの上下です]
まず、経済学上の自由主義とは、あらゆる経済活動に対する政府の干渉を極力排除し、自由な経済活動を行なおうというものです。アダム・スミスなどの「(神の)見えざる手」によって経済活動は自然に適切化されるという考えは、自由主義的経済学の思想です。これは、君主政治による政府の国民生活への干渉を念頭に置いて考えられており、その当時は正しかったが、時代的限界を持った考え方で、古典派経済学と言われます。
これに対して、社会主義とは、一般的には、「資本主義を批判し、生産手段の社会的所有に基づいて平等な社会の実現を目指す思想」とされていますが、むしろ、政府が市場経済に介入し、コントロールすることを社会主義と見なすべきだと私は考えています。つまり、全体(社会)の利益を(一部の、あるいは特定の)個人の利益に優先させる思想です。これは、だいたいにおいて金持ちから貧乏人へ所得を移転する政策となりますから、経済界や金持ちからは嫌われますし、一般国民にとっても「自由の拘束」のように思われて不人気です。しかし、あらゆる福祉主義的国家活動は、社会主義的なのです。ケインズの公共事業による不況脱出なども、一種の社会主義です。アメリカで民主党が金持ち階級に嫌われるのは、民主党の福祉中心の政策が社会主義的だからです。大きな意味では、「世界がぜんたい幸せにならないうちは、個人の幸せは無い」という宮沢賢治の思想に代表されるのが、この思想なのです。
社会主義の本質は、全体の福祉の向上にある、というのが大事なところです。しかし、これは理想にしかすぎず、ソ連の崩壊に見られるように、経済思想としての社会主義は、その非効率性のために自由主義経済に敗北しました。なぜなら、国家による計画経済を中心とする社会主義には、人間を労働に駆り立てるインセンティブ(動機)が欠けているからです。自分が働いた分だけ自分の生活水準が向上するという動機が無いと、人間は働くものではありません。そして、労働の結果の平等な分配は、これに反するものです。かつての社会主義国家の中国などは、今では所得の不平等を公認し、国民の労働意欲を高めようとしています。そのため、貧富の差の激しい「資本主義社会」に変わっていますが、国民にとってどちらが幸福か、今後を見守るべきでしょう。
資本主義とは、政治的思想でもある自由主義を、より経済的側面で表現した言葉だと言えるでしょう。「資本家(要するに、金持ち)が、労働者を雇って商品を生産させ、その利益を得ることを経済の基本とすること」が資本主義です。その意味では確かに先の「生産手段の国有化」を基本とする社会主義と対立するのは資本主義だと言えるでしょう。しかし、資本(家)の存在とは、要するに、私有財産の肯定であり、私有財産の否定を本質とする共産主義こそが資本主義には対比されるべきでしょう。
共産主義と社会主義の違いは簡単です。社会主義は「生産手段の国有」までで平等を実現しようとするのに対し、共産主義は、さらに過激に「私有財産の否定」までを主張するものです。これが、あらゆる資本家、金持ち、権力者にとってどんなに恐ろしい思想かは想像がつきます。だから、常に共産主義は弾圧され、社会秩序の破壊者として迫害されてきました。しばしば、共産主義者は、犯罪者として扱われてきたのです。それを表すのが、「アカ」というレッテル貼りによる差別と迫害です。
実際には、共産主義は空想的であり、実現不可能な思想であるというだけのことであり、それを危険思想視するのは、現在の世の中から利益(甘い汁)を得ている人々だけで十分なはずですが、反共プロパガンダ(宣伝)の偉大な力は、あらゆる資本主義国家で、庶民や貧民に至るまで根強いアンチ共産主義体質を作り上げています。
共産主義がなぜ空想的思想であるかというと、要するに、人間は完全な平等など実現できるはずがないということです。働こうが働くまいが平等に報酬が与えられるなら、あなたはそれでも真面目に働きますか? 芸術やスポーツに優れた才能を持っていても、その報酬が努力もしない他の人間と同じ僅かなものなら、その才能を伸ばすためにあなたは苦労をしますか? いったい、種類や性質の異なる労働に対して、平等な報酬はありえるでしょうか? 誰がそれを判断するのでしょうか?
共産主義は、そうした人間の本質的欲望、人間性の真実を無視した思想であるために、実現不可能な思想だと私は言っているわけです。しかし、資本主義社会における非人間的な搾取や過度な競争、不当な利得、極端な経済的不平等がいいはずはありません。
おそらく、この問題の解決は、昔からの智恵である「中庸」にあるのでしょう。つまり、財産や利得に上限を設けた、制限つきの資本主義、自由主義と社会主義の混合が、その答えです。そのいい例が、前の章に書いた、経済発展と福祉政策が程よく結びついた高度成長期の日本なのです。
表題の言葉も、区別のはっきりしない言葉です。政治経済用語集を見ても、今一つ腑に落ちないという人が多いでしょう。その区別をするためには、次のような対比構造で捉えるのがいいかと思います。ただし、これは私の捉え方です。
① 自由主義VS社会主義 {広義の用語で、政治と経済の両面に渡る}
② 資本主義VS共産主義 {やや狭義の用語で、経済面を主とする}
③ 社会主義<共産主義 [これは価値の上下ではなく、過激さの上下です]
まず、経済学上の自由主義とは、あらゆる経済活動に対する政府の干渉を極力排除し、自由な経済活動を行なおうというものです。アダム・スミスなどの「(神の)見えざる手」によって経済活動は自然に適切化されるという考えは、自由主義的経済学の思想です。これは、君主政治による政府の国民生活への干渉を念頭に置いて考えられており、その当時は正しかったが、時代的限界を持った考え方で、古典派経済学と言われます。
これに対して、社会主義とは、一般的には、「資本主義を批判し、生産手段の社会的所有に基づいて平等な社会の実現を目指す思想」とされていますが、むしろ、政府が市場経済に介入し、コントロールすることを社会主義と見なすべきだと私は考えています。つまり、全体(社会)の利益を(一部の、あるいは特定の)個人の利益に優先させる思想です。これは、だいたいにおいて金持ちから貧乏人へ所得を移転する政策となりますから、経済界や金持ちからは嫌われますし、一般国民にとっても「自由の拘束」のように思われて不人気です。しかし、あらゆる福祉主義的国家活動は、社会主義的なのです。ケインズの公共事業による不況脱出なども、一種の社会主義です。アメリカで民主党が金持ち階級に嫌われるのは、民主党の福祉中心の政策が社会主義的だからです。大きな意味では、「世界がぜんたい幸せにならないうちは、個人の幸せは無い」という宮沢賢治の思想に代表されるのが、この思想なのです。
社会主義の本質は、全体の福祉の向上にある、というのが大事なところです。しかし、これは理想にしかすぎず、ソ連の崩壊に見られるように、経済思想としての社会主義は、その非効率性のために自由主義経済に敗北しました。なぜなら、国家による計画経済を中心とする社会主義には、人間を労働に駆り立てるインセンティブ(動機)が欠けているからです。自分が働いた分だけ自分の生活水準が向上するという動機が無いと、人間は働くものではありません。そして、労働の結果の平等な分配は、これに反するものです。かつての社会主義国家の中国などは、今では所得の不平等を公認し、国民の労働意欲を高めようとしています。そのため、貧富の差の激しい「資本主義社会」に変わっていますが、国民にとってどちらが幸福か、今後を見守るべきでしょう。
資本主義とは、政治的思想でもある自由主義を、より経済的側面で表現した言葉だと言えるでしょう。「資本家(要するに、金持ち)が、労働者を雇って商品を生産させ、その利益を得ることを経済の基本とすること」が資本主義です。その意味では確かに先の「生産手段の国有化」を基本とする社会主義と対立するのは資本主義だと言えるでしょう。しかし、資本(家)の存在とは、要するに、私有財産の肯定であり、私有財産の否定を本質とする共産主義こそが資本主義には対比されるべきでしょう。
共産主義と社会主義の違いは簡単です。社会主義は「生産手段の国有」までで平等を実現しようとするのに対し、共産主義は、さらに過激に「私有財産の否定」までを主張するものです。これが、あらゆる資本家、金持ち、権力者にとってどんなに恐ろしい思想かは想像がつきます。だから、常に共産主義は弾圧され、社会秩序の破壊者として迫害されてきました。しばしば、共産主義者は、犯罪者として扱われてきたのです。それを表すのが、「アカ」というレッテル貼りによる差別と迫害です。
実際には、共産主義は空想的であり、実現不可能な思想であるというだけのことであり、それを危険思想視するのは、現在の世の中から利益(甘い汁)を得ている人々だけで十分なはずですが、反共プロパガンダ(宣伝)の偉大な力は、あらゆる資本主義国家で、庶民や貧民に至るまで根強いアンチ共産主義体質を作り上げています。
共産主義がなぜ空想的思想であるかというと、要するに、人間は完全な平等など実現できるはずがないということです。働こうが働くまいが平等に報酬が与えられるなら、あなたはそれでも真面目に働きますか? 芸術やスポーツに優れた才能を持っていても、その報酬が努力もしない他の人間と同じ僅かなものなら、その才能を伸ばすためにあなたは苦労をしますか? いったい、種類や性質の異なる労働に対して、平等な報酬はありえるでしょうか? 誰がそれを判断するのでしょうか?
共産主義は、そうした人間の本質的欲望、人間性の真実を無視した思想であるために、実現不可能な思想だと私は言っているわけです。しかし、資本主義社会における非人間的な搾取や過度な競争、不当な利得、極端な経済的不平等がいいはずはありません。
おそらく、この問題の解決は、昔からの智恵である「中庸」にあるのでしょう。つまり、財産や利得に上限を設けた、制限つきの資本主義、自由主義と社会主義の混合が、その答えです。そのいい例が、前の章に書いた、経済発展と福祉政策が程よく結びついた高度成長期の日本なのです。
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