「表現の自由」そのものについては、小田嶋師が下で書いていることにほとんど異論は無い。問題は、そこに「公開の自由」の問題が関わってくることであると私は思う。
これは、献血運動のポスターに巨乳の娘が献血童貞の若い男を嘲笑する萌え絵を使うことが反発と擁護を生んでいる問題と通底している。
つまり、或る表現が公開された時、それが閉鎖的な場所での公開なら、関心のある人間だけが見るのだから、まったく問題は無い。つまり、愛知トリエンナーレという閉鎖空間での作品公開は、その作品がどんな作品であれ表現は自由だ、というのが現在の私の結論だ。だが、献血ポスターのように、そのポスターに嫌悪感を持つ人間まで否応なく見せられるという場合には、これは「環境型セクハラ」という新概念も妥当だと私は思う。まあ、これに関しては、ラノベや新刊書の表紙がエロな萌え絵だらけになった時も問題にされたが、あの場合もそうだったが、今回の献血ポスターの場合も、たぶん「表現の自由」の勝利になるだろう。つまり、見たくもないものを見せられる側には、目を閉じてそれを拒否する自由しか無いわけである。その結果、転ぼうが穴に落ちようが、自己責任ということになる。
これは、街中の騒音についても同じであり、騒音を立てる側の自由の前に、その騒音を嫌う側の不快感は自分の中に飲み込むしかないのである。
愛知トリエンナーレの問題は、ほかにも「表現への適切な公金支出」の問題もあるが、長くなるのでここでは論じない。
(以下引用)
言うまでもないことだが、「表現の自由」なる概念は、作品の出来不出来や善悪快不快を基準に与えられる権益ではない。その一つ手前の、「あらゆる表現」に対して、保障されている制限なしの「自由」のことだ。
念の為に申し添えれば「あらゆる表現」の「あらゆる」は「優れた作品であっても、劣った作品であっても」ということでもあれば「美しい作品であれ、美しくない作品であれ」ということでもある。つまり、表現の自由は、「人々に不快感を与える作品」にも「見る者をうっとりさせる作品」にも等しく与えられる。そう考えなければならない。また、「正しい」作品にも「正しくない作品」にも、当然平等に保障されてもいれば、「上手な表現」にも「下手くそな表現」に対しても、全く同じように認められている。
なぜこれほどまでに野放図な自由が必要なのかというと、ここの時点でのこの自由が絶対的に認められていることこそが、結果としての人間の表現が、自由に展開されるための絶対の大前提だからだ。
美しい表現以外が許されないのだとすると、美しい表現のみならず、すべての表現の前提が企図段階で死んでしまう。なんとなれば、結果として表現された作品が、美しいのかどうかは、しょせん結果であり、見る者の恣意にまかせた偶然に過ぎないのに対して、人間が何かを表現する意図と欲求と必然性は、美や善や倫理に先行する生命の必然だからだ。
なんだか難しいことを言ってしまった気がするのだが、要は、「美醜」や「善悪」や「巧拙」は、他人による事後的な(つまり「表現」が「作品」として結実した後にやってくる)評価に過ぎないということを私は言っている。これに対して、「表現の自由」は、作品ができあがる以前の、表現者のモチーフやアイデアならびに創作過程における試行錯誤を支配する、より重要な前提条件だ。
例えばの話、安打以外の結果を許されないバッターは、打席に立つことができるだろうか。
あるいは、当たる馬券しか買ってはいけないと言われている競馬ファンは、競馬を楽しむことができるだろうか。
うん。これはちょっと違う話だったかもしれない。
ともあれ、
「こんな不快な表現に『表現の自由』が保障されて良いはずがないではないか」
「日本人の心を傷つけるアートは『表現の自由』の枠組みから外れている」
という、「あいトレ」問題が話題になって以来、様々な場所で異口同音に繰り返されてきたこれらの主張が、完全に的外れであることだけは、この場を借りて断言しておきたい。
表現の自由は、不快な表現や、倫理的に問題のある作品や、面倒臭い議論を巻き起こさずにおかない展示についてこそ、なお全面的に認められなければならない。
というのも、
「多くの人々にとって不快な表現であるからこそ」その作品を制作、展示する自由は、公の権力によって守られなければならず、為政者はそれを制限してはならない、というのが、「表現の自由」というややわかりにくい概念のキモの部分だからだ。
実際、今回の「表現の不自由展」に向けて出品された作品の中には、一部の(あるいは大部分の)日本人の素朴な心情を傷つける部分を持った表現が含まれている。
しかし、もともと「アート」というのは、そういうものなのだ。
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