料理研究家小林カツ代の講演記録である。これも、戦場体験者の父から聞いた貴重な「戦争の記録」だろう。
終戦記念日によせて
2019/8/16(金)
終戦記念日によせて
小林カツ代
「キッチンの窓から見えるもの」
2004年8月28日須坂市メセナホールにて
第6回信州岩波講座での講演要旨
2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載
《キッチンから戦争反対》
私が戦争を体験したのは、まだ小さい頃のことだった。ある日、空襲警報が鳴り、母に手を引かれて逃げ回った。焼夷弾で焼けた死体をたくさん見たけれど、幼かったのでそれほど深く何かを感じることもなく大人になった。
父は生粋の大阪の商人で、よく笑い話をする面白い人だった。けれども、毎晩、睡眠薬を飲んでいた。そして、お酒を飲むと、戦争中に中国で体験したことを話した。
「お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった」。上官の命令に背いて、どれだけ殴られたか、日本軍がどんなに残酷なことをしたか…。父は泣きながら話していた。
まるで「遊び」のように現地の人を殺す日本兵もいたそうだ。ギョーザや肉饅頭の作り方を教わり、仲良くしていた人たちが住む村を焼き討ちしろと命令が下りた時、父は「あそこはやめてくれ。村人を逃がしてからにしてくれ」と頼んだ。だが、父のその姿を見て笑う人たちもいたという。
同じ部隊に、ことに残酷な上官がいた。命乞いをする人に銃剣を突きつけ、妊婦や子どもを殺すその上官を、父は止められなかった。それは悪夢だった。生涯、睡眠薬を手放せなくなった父は「これくらい何でもない。殺されたり拷問にかけられた人たちにどうお詫びしたらいいか」と語っていた。
でも、子どもの頃の私は、父からそんな話を聞かされるのが嫌で仕方なかった。短大に入った頃は、ちょうど社交ダンスや歌声喫茶が全盛で、友達と遊んでばかり。自由を謳歌していた。
戦後、父は毎年、戦友会に出かけた。ガンになり死期が迫っても、やせた体に背広を着て、出かけようとした。私は、「戦争はいかん」と言いながら欠かさず戦友会に行く父を許せず、「なぜ行くのか」と問いただした。すると父は、初めてその理由を話してくれた。
残酷な行為をしたあの上官は、戦後 成功を収め、大金持ちになった。「あんな残忍なことをして、よく軍法会議にかけられなかったな」と陰口をたたいていた人たちも、成功者と見るや、すり寄っていった。戦友会では、その人を一番いい席に座らせ、昔のことなど誰も口にしなくなった。
けれども、父は許せなかった。その人の隣に座って「忘れへんのか。夢に出えへんのか。よくあんな残酷な目にあわせたな」ーそう毎年言い続けるのだ、と父は言った。「中国の人に代わって、罰のつもりで言う。自分への罰でもある」と。
ノンポリだった私は、その言葉を聞いて雷に打たれたような気持ちになった。父の意思を継いで、2度と戦争はしない、してはいけないと決心した。
父も、その上官も、もう亡くなった。私は料理研究家になってよかったと思っている。切った野菜のくずから芽が出てくる。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる精気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。
だから私は、キッチンから戦争に反対していく。原っぱは、きれいな公園などしないで、そのまま残して欲しい。諫早湾も、そして憲法も、そのままにしておいてほしいと私は思う。
(2004年8月28日 須坂市メセナホールにて 第6回信州岩波講座での講演要旨)
2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載
小林カツ代
「キッチンの窓から見えるもの」
2004年8月28日須坂市メセナホールにて
第6回信州岩波講座での講演要旨
2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載
《キッチンから戦争反対》
私が戦争を体験したのは、まだ小さい頃のことだった。ある日、空襲警報が鳴り、母に手を引かれて逃げ回った。焼夷弾で焼けた死体をたくさん見たけれど、幼かったのでそれほど深く何かを感じることもなく大人になった。
父は生粋の大阪の商人で、よく笑い話をする面白い人だった。けれども、毎晩、睡眠薬を飲んでいた。そして、お酒を飲むと、戦争中に中国で体験したことを話した。
「お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった」。上官の命令に背いて、どれだけ殴られたか、日本軍がどんなに残酷なことをしたか…。父は泣きながら話していた。
まるで「遊び」のように現地の人を殺す日本兵もいたそうだ。ギョーザや肉饅頭の作り方を教わり、仲良くしていた人たちが住む村を焼き討ちしろと命令が下りた時、父は「あそこはやめてくれ。村人を逃がしてからにしてくれ」と頼んだ。だが、父のその姿を見て笑う人たちもいたという。
同じ部隊に、ことに残酷な上官がいた。命乞いをする人に銃剣を突きつけ、妊婦や子どもを殺すその上官を、父は止められなかった。それは悪夢だった。生涯、睡眠薬を手放せなくなった父は「これくらい何でもない。殺されたり拷問にかけられた人たちにどうお詫びしたらいいか」と語っていた。
でも、子どもの頃の私は、父からそんな話を聞かされるのが嫌で仕方なかった。短大に入った頃は、ちょうど社交ダンスや歌声喫茶が全盛で、友達と遊んでばかり。自由を謳歌していた。
戦後、父は毎年、戦友会に出かけた。ガンになり死期が迫っても、やせた体に背広を着て、出かけようとした。私は、「戦争はいかん」と言いながら欠かさず戦友会に行く父を許せず、「なぜ行くのか」と問いただした。すると父は、初めてその理由を話してくれた。
残酷な行為をしたあの上官は、戦後 成功を収め、大金持ちになった。「あんな残忍なことをして、よく軍法会議にかけられなかったな」と陰口をたたいていた人たちも、成功者と見るや、すり寄っていった。戦友会では、その人を一番いい席に座らせ、昔のことなど誰も口にしなくなった。
けれども、父は許せなかった。その人の隣に座って「忘れへんのか。夢に出えへんのか。よくあんな残酷な目にあわせたな」ーそう毎年言い続けるのだ、と父は言った。「中国の人に代わって、罰のつもりで言う。自分への罰でもある」と。
ノンポリだった私は、その言葉を聞いて雷に打たれたような気持ちになった。父の意思を継いで、2度と戦争はしない、してはいけないと決心した。
父も、その上官も、もう亡くなった。私は料理研究家になってよかったと思っている。切った野菜のくずから芽が出てくる。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる精気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。
だから私は、キッチンから戦争に反対していく。原っぱは、きれいな公園などしないで、そのまま残して欲しい。諫早湾も、そして憲法も、そのままにしておいてほしいと私は思う。
(2004年8月28日 須坂市メセナホールにて 第6回信州岩波講座での講演要旨)
2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載
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