数日前の「酔生夢人のブログ」で私は孔徳秋水さんのこういう言葉を引用した。
「この世には二種類の人間がいる…弱者をいじめるのが楽しい人間と苦痛な人間。両者では善悪の基準がそもそも正反対になる。」
これは非常に示唆的な言葉だと思うので、この言葉を出発点として、少し社会心理学的考察をしてみる。
あらかじめ、その考察構想(これは、昨日、仕事の作業をしながら頭の中で断片的に考えていた。)の結論的部分の一部について少しキャッチーな言い方をしておけば、
「いじめはある種の『正義感』からも発している」
というものだ。ただし、その「正義感」というものの正体を後で説明するので、私が「いじめ擁護」の側に立ったなどと早計に判断しないでほしい。
さて、先に「サディズム」について考察しておく。
フロイトの欠点は、すべての潜在意識を性的欲求と結びつけたことだと私は思っているが、サディズムもその一つである。もちろん、名前の由来であるマルキ・ド・サドは異常性欲者であっただろうが、「他人を苛めて、その苦しむことに快楽を感じる」のは人間の生まれ持った性質の一つであり、性的欲望とは本来無関係なものだろう。
なぜ、人間は他人を苛めることに快感を覚えるのか。それは、他人を苛め、その苦しむ様を見ることが彼に「自分の力」を実感させ、他人がその力の前に屈服することは、彼に「自分が上位者だ」という自覚と満足を与えるからではないか。
この、「力をふるうことの与える満足感」と「自分が上位者だという意識の与える満足感」は人間に普遍的な心理ではないだろうか。前者は、ある意味ではすべての人間の「仕事」や「遊び」の潜在的原動力でもあるし、後者は「仕事や学業をする潜在的動機」である。
つまり、サディズムは性的欲望とは無関係に、「力をふるいたい」「他人を支配し、屈服させたい」という欲望の一つだと看做すべきだ、と私は考える。
ただし、その欲望の「幼児的な顕れ」である。いじめは、サディズムそのものであり、普遍的な欲望に根ざしたものだから解決が厄介なのである。
「弱者をいじめるのが楽しい人間」というのは、「人間化される以前の人間」だ、というのが私の考えだ。人間化とは、幼児が人類の精神的文化を学び、精神を陶冶され、社会意識や、人間関係のあるべき姿についての知識を持ち、社会と交わる資格を持った人間となることだ。学校の大きな目的はこれである。いじめをする人間というのは、そうした「人間化以前の人間」であり、誰でももともとはそうなのである。つまり、放っておけば、いじめをする人間のままで成長し、そのまま大人になる。それが実際、世の中には膨大にいる。それは今も昔も同じだろうが、比較で言えば、昔の日本では「お天道様に恥じないように」「世間に恥ずかしくないように」という「恥の文化」(これは大いに誇るべきものである。ルース・ベネディクトというのは、学者としては偉いが「菊と刀」は本質的には単なるプロパガンダ書物にすぎないだろう。)があったから、日本的な倫理が社会に行き渡り、社会秩序があったのではないか。
いじめというのは小学校が一番多く、中学校がそれに次ぎ、高校になると極端に少なくなり、大学ではゼロに近くなる、という事実が、「いじめとは幼児的な所業である」ことを示しているだろう。
つまり、狭いサークルの中に「強者と弱者」が置かれながら、「倫理」がそこに存在しなければ、必然的にいじめは起こるのである。その「倫理」は、小学校では「教師」という上位の強者が強権的に指示し、守らせるものだが、現在のように教師の権力が親や社会の手で剥奪された状態では「倫理の存在しない無法地帯」になるのは必然である。いや、学校というのはもともと「法」とは別次元の閉鎖社会だから、「無法地帯」ではあるのだが、かつては教師に権力があり、教師への尊敬や畏怖の念があり、社会倫理(これは、その社会特有の倫理、ということ。たとえば、江戸の社会には江戸社会の倫理があっただろう。戦後の日本は戦前の日本の社会倫理が、戦前世代の人間を通じて残されていたはずだ。)による統制もかなりあったから、ある程度の秩序は守られていたのである。
今や、教師は「悪いことをすると中学や高校や大学への進学に不利になるぞ。その進学を左右する力は俺に(私に)あるんだぞ」ということを生徒に暗黙に示す以外に、生徒を統制する力は持てない。あるいは生徒と友達になるしかない。だが、全員の友達になれるはずはない。力のある生徒の友達になれば、非力な、孤立した生徒を無視するしかない。ひどい場合には、力のある生徒によるいじめを黙認することもあるだろう。
さて、「いじめをするのが苦痛な人間」とは何か。それが、「人間化された人間」である。人類の精神文化が内面化された人間のことだ。精神文化の受容を通じて、他人の内面を想像する能力を持ち、他人の苦痛に同情する能力を持った人間のことである。その意味では、私は孟子とは意見を異にする。「誰でも井戸に落ちた子供を見れば、哀れに思い、救おうとする」のではなく、「井戸に子供を突き落として喜ぶ人間(人間以前の人間)」も膨大にいるのである。荀子の言う通り、善とは「人為」的なものなのだ。(「人為」を一つの漢字にすると「偽」となる。つまり、「偽善」こそが善に至る道であり、これを『徒然草』では「聖人の真似をすれば聖人であり、狂人の真似をすれば狂人である」と言っている。偽善とは、「本心ではなくとも善行をすること」だ。それでいいのである。ただし、口先できれいごとを言うのは善行とは言わない。それは「偽善的」と言う。その種の人間は沢山いる。私も、実生活はともかく、ブログの中ではその一人かもしれない。)
「いじめをする人間といじめを嫌悪する人間では善悪の基準がそもそも異なる」
という主題について考えよう。
私は、これは正しい見方だと思う。
いじめをする人間は、彼らなり彼女らなりの「正しさ」を実行しているつもりなのである。いじめは彼ら彼女らには「正しい行為」なのだ。もちろん、その正しさというのは社会道徳的には不正なのだが、彼ら彼女らにとってはそれこそが「正義」なのだから、彼らがいじめを注意されて素直に納得するはずはない。これが、いじめが根絶できず、むしろ蔓延していく根本原因の一つではないだろうか。
なぜ、彼ら彼女らにとっていじめは「正しい行為」なのか、と言うと、それは「力がある者、上位の者が力を発揮するのは正しい」と考えるからである。逆に「無力な者、下位の者が不当な権利を行使するのは不正である」と言ってもいい。(「力は正義なり」という「野獣の正義」だ。)
彼らは、下位の者が「あるべき位置」からはみ出してのさばるのを目障りで不快に思うのである。だから、そういう人間を苛める。いや、そうでなくても、彼ら下位の存在に対して、自分たち上位の者が権力をふるうことが快感だから、苛めるのである。
そういうことだ。
そして、その「彼らにとっては当然のこと」を禁止されると、彼らは不満に思い、場合によってはいじめはいっそう陰湿な形でエスカレートしていく。
いじめを行う連中が、自分たちは、自分たちにとって「正しいこと」「当然なこと」をやっている、と思っているのだから、いじめが無くなるはずはない。
さて、彼らの行為は子供世界だけで終わるだろうか。
「力がある者、上位の者が力を発揮するのは正しい」
「下位の者が不当な権利を行使するのは不正である」
というのは、今の社会全体に行き渡っている思想ではないだろうか。(それについて沢山の事例が挙げられるが、面倒なので今は書かない。ネットの掲示板を見れば、「弱者いじめ」「弱者バッシング」の言説は膨大に出て来る。たとえば生活保護叩きなど。)ならば、彼ら(いじめをする子供たち)が「自分たちこそが正しい」と潜在的に思うのは当然ではないか。
社会全体が、強者による弱者の強権的支配と搾取(社会全体としてのいじめ)を是としている以上、いじめが無くなることはないだろう。おそらく、昔の日本の方が、弱者に同情し、弱者を守る社会だったのではないだろうか。つまり、日本は精神的・道徳的に著しく後退した社会なのである。
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