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徽宗皇帝のブログ

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ケネディの人気とジョンソンの不人気の理由
前回記事の補足。なるほど、かなり「社会民主主義」的政策を取った、すぐれた政治家のようだ。私がなぜ彼に悪印象を持っていたのか、振り返ると、「ベトナム戦争激化」のせいだと思われるが、そもそもベトナム戦争は「(人気者)ケネディ」が始めたのではなかったか? いわばジョンソンは彼の尻ぬぐいをさせられたようなものだ。
そして、ユダ金マスコミもケネディを持ち上げこそすれ、悪口はほとんど書かなかったが、それは、「ベトナム戦争を始めた」からかもしれない。つまり、「反共主義のホープ」として、「使い勝手」が良かったからだろう。私など、ケネディを「ハンサム」と言う気持ちが分からないし、あの程度の顔で彼が大人気だったのが解せない。彼のスピーチはスピーチライターが書いたにすぎない。まあ、「第二次大戦で戦功があった」らしいから、そのあたりが米国民全体に受けたのだろう。もっとも、それもユダ金メディアが作った伝説かもしれない。戦場で何をしようが、生き残れば英雄にもなれる。
ジョンソンの不人気は「ベトナム戦争で勝てなかった」から、というのが最大の理由で、その不人気は、ユダ金が彼に押し付けたものかもしれない。勝てば官軍、負ければ賊軍である。

(以下引用)


リンドン・ベインズ・ジョンソンLyndon Baines Johnson1908年8月27日 - 1973年1月22日)は、アメリカ合衆国政治家。同国第36代大統領(在任: 1963年11月22日 - 1969年1月20日)。

概説

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1908年8月27日にテキサス州ストーンウォール英語版に誕生する。連邦下院議員、連邦上院議員、第37代副大統領、第36代大統領を歴任した。


1961年1月20日に民主党ケネディ政権の副大統領に就任し、1963年11月22日にケネディ大統領暗殺事件で大統領に昇格、政権を引き継いだ。リベラルとして知られたケネディに対して、南部テキサス州出身のジョンソンは民主党の中では保守派と目されていたが、大統領就任にあたって掲げた貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大な社会 (Great Society) 」政策は、非常にリベラル色の強いものであった。


政権初期には公民権法の早期成立に向けて議会をまとめることに努め、議会との関係が円滑でなかったケネディに比べて巧みな議会工作で法案を可決させ[1]、その他にも内政においては達成した政治課題が多く、ジョンソン政権は同じ民主党のルーズベルト政権と並んで「大きな政府」による社会福祉や教育制度改革、人権擁護を積極的に推進した政権であった。


しかし、外交政策ではケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。


ケネディ暗殺後の1964年アメリカ合衆国大統領選挙では、ケネディへの同情票と昇格後1年間の政権の成果を評価する票で共和党候補のバリー・ゴールドウォーターを大差で破り、歴史的な大勝を果たした。しかし1965年からベトナム戦争の拡大で国の内外からの強い批判に身動きが取れなくなり、次の再選を目指した1968年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党の大統領候補の指名を受けることが危ぶまれる状況となり、1968年3月31日、全米に向けたテレビ演説でそれまでのベトナム政策の劇的な転換を発表すると同時に大統領選挙に再出馬をしないことを表明、自らの政治生命に幕を引いた。

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