忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

プロレタリア独裁という幻想
ウィキペディアから転載。
私は「プロレタリアート独裁」という言葉は大嫌いだが、


マルクス主義の見解では、資本主義社会は、形式上は三権分立していても、ブルジョワジーが階級としてこの全権を握っているブルジョワ独裁であるとみなす(ブルジョワジーのディクタトゥーラ)。



という指摘はまったくの真実を突いていると思う。では、それを「暴力革命」で変革し、「プロレタリアート独裁」にするべきか、と言えば、そうはまったく思えないのである。
プロレタリアート独裁と言っても、「誰か一個人の独裁」にしかならないのは、スターリンや金一族などを見れば明白である。



(以下引用)



カール・マルクスは、1848年ドイツ革命で、革命勢力が敗北したプロセスを観察し、革命勢力が立法権のみの掌握にとどまり、それを執行する実体的な権力行政権や軍事力)を掌握しなかったために旧支配階級の反革命を防げなかったことに敗因の一つを見て、革命の過渡期における労働者階級による権力掌握」「プロレタリアートの政治支配」の必要性を強調した。マルクスはその後のパリ・コミューンにおいてその政治形態の端緒を発見した。ここから、立法権だけでなく行政権をふくめたすべての権力を労働者階級が掌握すること──これを比喩するため、立法権も行政権も掌握した共和政ローマ独裁官(ディクタトル)になぞらえ、「プロレタリアートのディクタトゥーラ(プロレタリア独裁)」とよんだ。マルクス主義の見解では、資本主義社会は、形式上は三権分立していても、ブルジョワジーが階級としてこの全権を握っているブルジョワ独裁であるとみなす(ブルジョワジーのディクタトゥーラ)。これに対置してプロレタリアートのディクタトゥーラを提唱した。プロレタリアートの独裁は、社会の圧倒的多数を占めるプロレタリアートの、極めて少数であるブルジョワジーに対する独裁であるため、実態としては「ブルジョワ独裁」に他ならない「ブルジョワ民主主義」体制よりも、民主主義的であるとマルクスやその後継者たちは主張した。


ロシアの無政府主義者ミハイル・バクーニンはマルクスの言うプロレタリア独裁の実態は、「プロレタリアに対する共産主義者の独裁にほかならない」と批判した。バクーニンは中枢部を掌握していたマルクスを「権威主義派」と呼び、第一インターナショナル最大の論争となった。これに対してエンゲルスは革命とはそもそも権威主義的である必要があると批判した[1]


これ以降も、ソ連における支配が、プロレタリアートに対するソ連共産党の独裁であるとして論難したものは多い(左翼共産主義評議会共産主義など)。ウラジーミル・レーニンに対してレフ・トロツキーが「代行主義批判」を展開したことも共産党独裁の萌芽を批判したものであると言える。





拍手

PR

コメント

コメントを書く