この部分を読んだだけでも、私の考えにほとんど一致している。なお、私はゾンバルトの本はひとつも読んだことはなく、どういう思想家かも知らず、ゾンバルトの思想について調べたのもこれが初めてである。だが、下の引用部分(特に赤字部分)に似た発言をこれまでこのブログで何度かしたはずである。
おそらく、ゾンバルトの名前はナチスの敗北と共に「アンタッチャブル(不可触の存在)」視されるようになり、社会の表面からは埋もれていったのだろう。まあ、「焚書」にならなかっただけでも以て瞑すべしだろう。グローバリズムと新自由主義(強欲資本主義)への批判がどんどん強くなっている現在、私は、思想界における彼の復権は近いと見ている。
(以下引用)赤字部分は徽宗による強調。
ユダヤ資本主義[編集]
ゾンバルトは社会主義に影響され初期には資本主義を批判していたが、やがて「資本主義の精神」のうち冒険的企業家的要素はドイツ人に、打算的ブルジョワ精神はユダヤ人に属するとした[5]。
1911年の『ユダヤ人と経済生活』で中世の封建制のキリスト教共同体は、近代資本主義に移行し、ユダヤ的な利益社会となったとし、人格的で自然なドイツ経済のなかにユダヤ人は嵐のように侵入し営利の優位を掲げたとした[5]。ゾンバルトによれば、国際的なネットワークを持つユダヤ人は地域的な伝統よりも経済合理性を重んじ、また市民権が剥奪されていたので政治でなく経済に注目し、近代資本主義の重要な担い手となった[5]。ユダヤ人は地域的でなく普遍的であり、国民的ではなく国際的で、具体的でなく抽象的である[5]。資本主義制度の創始者である砂漠の民族ユダヤ人は放浪的で抜け目がないのに対して、森の民族ゲルマン人は心がひろい[6]。ユダヤ教は悟性の宗教であり、感性と情感に欠けるため、自然の世界や有機的な世界とは対立し、合理主義と主知主義はユダヤ教と資本主義の特色である[5]。したがって、近代合理主義を推進したのはヴェーバーのいうようなプロテスタンティズムでなくユダヤ教であるとした[5]。資本主義とユダヤ教の本質は、貨幣によって表現され、貨幣と流通は社会関係を抽象化し、抽象化の精神はユダヤ人に具体化される[5]。彼はユダヤ世界と資本主義を同一視するという、ブルーノ・バウアーやマルクスらの考え方を再利用して、「太陽のようにイスラエル(ユダヤ人)はヨーロッパを飛翔した。そして彼らが来るところに新しい生命が生い立ち、彼らが退くところでは、今まで咲き誇っていたものはすべて荒廃に帰する」と述べた[7][8]。ゾンバルトのこの著書は友人のマックス・ヴェーバーから批判され、またヒトラーが資料として用いた[6]。
翌1912年の小冊子『ユダヤ人の未来』では、ユダヤ人はドイツの芸術、文学、音楽、演劇、新聞を牛耳っており、それはユダヤ人が聡明で器用であるからだが、このユダヤの優位性は放置すると取り返しのつかないことになる「人類最大の問題」であると主張した[7][9]。また、スペイン、ポルトガル、フランスも、ユダヤ人追放後の後遺症に悩み、さりとて、ユダヤ人とヨーロッパ人との同化や融合も自然の法則に反しており、ユダヤ人種と北方民族の血の融合は不吉な星に司られているとし、しかしドイツはユダヤ人なしにはやっていけないとゾンバルトは論じた[7][10]。ポリアコフは、こうしたゾンバルトの主張をアパルトヘイト政策であるとしている[7]。
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